【保存用ログ】ワークショップ第15回[20200713-0719]『エニアグラム【基礎編】自分を知る9つのタイプ』【読書会】
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■1
コバ
遅くなりました。
みなさんこんばんわ。コバです。
今週は人を判断するという事について、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。
「人を見かけで判断してはいけません!」と、子供の頃から皆さんも言われてきたと思います。
しかし、本当に人を見かけで判断するのはいけないことなのでしょうか?
人を見かけで判断することにはメリットは(もちろんデメリットも)あると思います。
あまり自分が人(他人)をどのように判断(自分との関係性においてのカテゴライズとも言えるかもしれません)するか、考えてみないと日々の生活の中ではまず自覚することは無いと思うので、まず議論の序盤は、そういえば私はこんなタイミングで人を判断していることが多いみたい!という判断タイミングや基準をジャンジャン書いていってほしいです!
具体例が多く集まれば、中盤以降の人を判断するというのメリット、デメリット等の議論も盛り上がると思います。
道徳の授業ではないので、冒頭にある「人を見かけで判断してはいけません!」というのはこの1週間は隅に置いといて意見交換できればと思います笑笑
それでは、1週間よろしくお願いします!
■2
A
見た目って大きいですよね。顔つきだったり姿勢、あと大きいのは身につけている衣類とかですかね。詳細は控えますが、苦手だな~っていうファッションはあります。中学高校って制服があるところが多いので今まであまり気にしていなかったですが、大学とかにあがったら、付き合う人とかはやっぱり見た目で判断しちゃいそうです。だから見た目ってある程度「その人」を表していると思います。実際、僕はちょっとシャイなところがあって明るい色の服とかは着ないようにしています。あとは奇抜なものとか(隙自語). だから、僕もある程度はファッション(見た目)で自分を表現していますし、見た目で判断されるのはむしろ好都合のように思えます。
あと、少しそれちゃいますが「見た目で人を判断してはいけない」という戒めのようなこのセリフってどんな場面(どういった意図)で使われることが多いんでしょうか?偏見(マイナスの印象)を持たせないようにするためでしょうかね。僕もよく耳にしますが自分の抱いてる「直感」ってもっと大事にしてもいいと思います。まぁ、限度ってもんがあると思いますが。
コバ
@A
私が中学生の時は、周りがほとんど地元のメンバーで物心つく前から見知った仲だったので、(近しい年齢の)人を判断しているという自覚は無かったのですが、高校にあがるといろんな地区から人が集まってくるので、同じ制服を着ていても目つきがヤバい人とかもいました笑笑。
やっぱりそういう人は話してみてもヤバい人で、中退していきましたが笑。
そういう意味では、人を見た目で判断する重要性を私は高校生の時に認識しました。
見た目で判断されることをむしろ好都合と考えられるのは、Aさんの一つの才能ですね!
第一印象で判断されることを逆手にとって、服装を相手に与えたい印象から逆算して揃えるというのは、
ビジネススキルでもありますよね。
「人を見た目で判断してはいけない」という言葉の起源は定かではないですが、私の予想だとこの言葉の根底には性善説の思想があると思います。
人の本性は基本的に善とするならば、人を第一印象で悪いほうに判断することは間違っているということになりますもんね。
■3
B
所長に嫌われる覚悟で言うと、僕は今までファッションに積極的な興味を覚えたことがありませんでした。大学生にもなってしまったので必要に迫られて服を選んだりするのですが、友達や彼女に選んでもらうこともしょっちゅうです。
そんな僕は今まで「人を見かけで判断してはいけません」という言説を、自分の見た目を気にすることから逃げる口実にしていたきらいがあると思います。
この口実を採用する限り、他人を見かけで判断してはいけないという制約が課されます。実際そのように心がけて生きてきたつもりですが、思い返してみると、初対面で絶対仲良くなれなさそうと思った人間と仲良くなったり、初対面で優しそうと思った人が思いの外冷たかったりなど、情報の少ない初対面の状況では無意識に見た目のみで人を類別していたことに気づきました。
ですが、上記の通り見た目の印象を裏切られることも多く(人を見る目がない?)、自分の中での決定的な印象は「初対話」で決定されてるように感じます。そこで無理な人は大抵無理ですし、そこをクリアすれば大抵仲良くできてきた気がします。
「人を見かけで判断してはいけない」というのは、無意識に見かけからその人に関する推測を膨らませてはいないか自分に再確認するための言葉なのだと思います。生物として見た目である程度の印象を感じることは避けられませんが、それは見た目のみからの印象であるということにできるだけ自覚的にならないと、良い出会いを逃したりしてしまうのかもしれないなぁなどと思いました。
コバ
@B
確かに、人を見かけで判断してはいけませんという言葉を受け入れるなら、自分のことを他人が見かけで判断することも間違っているので、自分が見た目をそこまで気にしていないファッション等をしていたとしても、そこでマイナスなイメージとして判断する他者が間違っている、という考え方もできますよね。
Bさんは他者を判断するタイミングは、初対話が多いのですね!
他者を判断するタイミング重点を置くところは人によって違うと思うので、参考になります。
確かに人を第一印象で判断しすぎてしまうと、良い出会いを逃してしまうことはあるはずなので、人を見た目で判断することの明確なデメリットだと私も思います。
■4
C
「見た目で判断する」にも色々あるかなと感じます。
例えば、その方との関係が短期的か、長期に渡ることが予測されるかでも「見た目判断」を行うかが変わると思います。
道端を歩いていて、対面からガラの悪「そうな見た目」なお兄さんが歩いてきたら、自分が少し距離を取るようにすれ違うと思います。万が一絡まれたりしたら嫌だからです。この場合私はそのお兄さんを「ガラが悪い」とある意味決め付けています。けれど、一瞬すれ違うだけの関係ですし、その人の本当の性格を見極める意味もあまりありません。
これに対して、同僚とか得意先とかクラスメイトとか、関係が長期に渡る方との関係においては「見た目判断」はあまり得策ではありませんよね。社会生活において重要と思われる「良好な関係性」を築けたかもしれないという機会損失を被る可能性があります。
なので、記事の例にある不審者に対して「見た目で判断する」と、一般的な教訓としての「見た目で判断してはいけない」実はそこまで相反するものではないと思います。登下校中にやばそうなおじさんを見極める際には見た目で判断する実益が勝ると思います。
ただ、両者の違いを先生が伝えていたかは分かりませんが・・・
コバ
@C
確かに「見た目判断」を行う場面のメリット、デメリットの比重は場面によって大きく変わりますよね。
仰られるとおり、道端を歩いていて知らない人とすれ違うときは「見た目判断」のフィルターをほぼ全開にすれば良いと思います。
逆に「見た目判断」のフィルターがほとんど無いのは、家族ですよね。
同僚、得意先、クラスメイト、この辺りの人々との関係の中では、「見た目判断」のフィルターのかけ方が人によってかなり変わってくると思います。
私の周りでは、この辺りの人との関係の中でも「見た目判断」の時点でどう人間関係を作っていくかの結論を出している方(それが自覚的であるか、無いかは分かりませんが)が多い印象を受けます。
記事の冒頭部分ですが、不審者かどうかの判断の仕方が「見た目」だとするならば、「人を見た目で判断してはいけません!」という言説に矛盾していると子供の頃に思ったという話です。笑
不審者に対して見た目で判断することは必要なことですが、じゃあまずその不審者に対する「見た目判断」フィルターを、どういう人に使えばいいのか、小学生の私には分かりませんでした。(一応不審者の特徴として、身長170センチくらいで黒い帽子を被っている、というくらいの説明はあったと記憶しています)
■5
D
相撲取りなどの一部例外を除く話ですが、太ってる人を見ると(太りやすい等の)病気の有無がどうあれ「自分に甘い人なんだな」と印象を抱きます。勿論、「太ってるやつに悪い奴はいない」とよく聞くように確かに人が良さそうには見えますからいろんな側面があるのは言うまでもないのですが...
D
最初のワークショップでやったはじめての哲学的思考であげられてたよくない主張に抵触してるような気もしますが思ってたことを書いてみました笑
コバ
@D
確かに、体型から人を判断することも多いですよね。私も太っている人にはあまり良い印象は無いです。(それは過去に出会った肥満体型の人で人間関係でトラブルになった人がおり、その印象が強いためだと思います)
体型が他者に与える印象は国ごとによっても違うみたいですね。
アメリカでは貧困層ほど肥満体系になりやすい社会構造になってしまっているので、肥満体型は敬遠されるのでしょうし、逆に日本だと肥満体型と言われる体型が異性からモテモテの国もあるようです🧐
■6
E
人を見かけで判断したことによる失敗談がこの間ありました。母と天ぷら屋の行列に並んでいる時、母と同い年くらいのやさぐれた女性が食器が空になっている状態で長時間音ゲーを奏でておりました。それに母はプリプリ怒っていたのですが、後にその女性は天ぷらが揚げ上がるのを待っていただけであることが判明しました。おそらく母は女性の容姿を見て「きっと悪だ」と判断しました。
このように見た目で判断すると恥ずかしいミスを犯してしまうことがあるのもデメリットの一つですね。
コバ
@E
外食だとドレスコード等もあるので、また人を判断する要素が複雑になっていきそうですよね。
スーツを着て、ナプキンでも膝の上に置いてたら、また違ったのでしょうか?(てんぷら屋さんでナプキンは無いか👋)
■7
F
いけないとはわかっていても人を見た目でバリバリ判断する派です。“外見は内面の一番外側!内面で勝負したいなら外見にこだわれ!“という偉い人の言葉が忘れられずに生きてまいりました。外見の中でもお顔だけは生まれつきのものですし、人を顔で判断はすまいとは思いますが、どうしても顔で一番その人の印象を決めてしまいがちです…。着ているものでもある程度人を判断しますが、服に無頓着である人もいるので僕は参考程度に考えています。目立つ服やヤバい服着ている人のヤバいやつ率は高いですけどね。あとはその人の笑い方とかも自分は結構気にします。本当に腹から笑ってるのかしらって思っちゃう人は、なんだか本音を常に隠していそうで避けてしまいます(もちろんそう感じた人の中にも今では仲が良い人もいます)。でも表情とかはその人の生き様が出ると思うんです…。ちな根拠はない
少し話がそれますが、僕のお友達のモテ男が言っていた「可愛い子ほどいい扱いされてきているから性格がいい、逆も然り」という発言を今回のテーマで思い出しました
コバ
@F
笑い方で判断すること、私もあります。笑
ビジネスでは、笑顔がとにかく大事だと言われますが、明らかなビジネススマイルは不自然に感じることも多いですよね(ちなみに私は、ニカッ!と笑う人は警戒してしまいます。ニカッ!が伝わるか分かりませんが笑)
可愛い子がいい扱いをされてるから性格がいい、というのは確かになるほどなぁと思います。
それに加えて、可愛い子ほど心に何か闇を抱えてる子の割合が高いというのが、私の持論です笑
■8
G
見た目で判断をしてはいけないはどこで言われたか→学校とか家
そこではどういう付き合いを前提に置いて言われていたか考えると、長い付き合いだと考えられる。そのため、そういう文脈において使うことが正解だと考えられる。
僕は、長期短期の関係どちらの場合でも、まず人を見た目で判断します。理由は2つあります。
1つ目は、見えないものを見ろというのは無理があるからです。外見は見えます。しかし、内面は見る事ができません。それにもかかわらず、それをいきなり見ろというのは変だと思います。しかし、よく言われるのは他の方も書いているように、言う人側にいい事があるからだと思います。
2つ目は、短期的関係において便利だからです。ここはCさんと同じです。
次に、長期的関係の場合は、「人を見た目で判断してはいけない」を使います。まず、見た目から入ることで、ある種の型を用いてその人を見ていきます。それから、本当にそうなのかを「人を見た目で判断してはいけない」を唱えながらよーく見ていくということです。このようにしてきたので、他の視点を用いて比較できないのですが、見た目で判断することで逆に見た目で判断しないという理想に近づけるのではないかと思っています。
怪しい人の話: 僕にはそこまで違和感がありませんでした。短期的な場合だからです。話は変わりますが、先生の返答を聞いてそれ以上自分から行かなかったところがすごいなと思いました。僕は、納得がいくまでやっていたので、そのようにできていたらよかったなと思いました。
コバ
@G
<<見えないものを判断するのは無理がある。
確かに、内面という見えないものをいきなり見ろというのは無理があるような気がします。
しかし、じゃあ見えているものだけで人を判断しているかというとそうでは無く、その人の雰囲気という見えているのか、見えていないのかよく分からないもので他者を判断している割合は大きいと思います。
人を判断する要素で、外見と内面という2つに分けられるものではなく、その間に何かが存在しているのだと私は思っています。
Gさんは、人を判断するうえで型をお持ちなのですね!
私はその型をいつまでたっても作ることも活用することも上手くできないので、羨ましいです。。。
型から入り、見た目で判断してはいけないと唱えながら再度判断していくことで、人を見た目で判断しないという理想に近づけるという視点も、そういうやり方もあるんだなぁとすごく勉強になりました。
怪しい人の話ですが、それ以上先生に食い下がらなかったというよりは、食い下がれなかったというのが正解です笑
というのも、私は高校生になるまで人を判断したという経験の記憶が無いのです。
高校生になって初めて、「こういう人はキケンなんだな!」という経験をし、そこから人を判断するということを覚えました。
なので私が人を判断するときの基準は経験則、あるいは後天的な知識によるものです。
人をヨイ、ワルイ等、判断するフィルターを私は先天的には持っていなかったんだと思います。
なので、先生の言っていることが完全に理解不能で、思考が止まったので先生に食い下がるところまで行きませんでした笑
■9
H
僕は振り返ると、あまり人をタイプ分けして判断したことがないような気がします。
(決してキレイゴトぶっているんじゃないですよ?)
というかあまり人と会ったところでその“人”の印象がほとんど残らないんです。顔を覚えるのが昔から極端に、本当に極端に苦手で、人事で採用リクルーターをしていた時も非常に苦しんだ記憶があります。話した内容などは一応覚えているんですけどね・・(絶対営業に向いていないタイプですね。。)
人を外見、内面という離散値で分けることは、情報を圧縮できるという意味で日常の情報処理制約の中ではメリットがあるかも知れませんが、その“粗さ”で失うものは非常に大きいのではないかと思います。人の個性やその人らしさというのはオリジナルに存在しているものではなく、言動の集積の中で“ある特定の環境”というフィルターで投影される幻想に近いものなのかなという気がしています。そしてその環境フィルターは一歩隣の部屋に入るとガラッと変わってしまうモノなので、今自分が持っている投影機(環境)だけで人を判断すると、多様な世界の面白さや知らない世界の刺激を知らずに終わってしまうのではないでしょうか。(とイキってみる)
今回のテーマと少しずれるのかもしれないのですが、人を“判断する”“印象付ける”という事自体、構造的に共通解の存在しないプロセスなのではないかという気がします。つまり、ベターな判断からワーストな判断へと一様に序列付けできるような性質のものではない気がするんですよね。
人を外面・内面という圧縮情報で認識して、自分の中の何らかの基準で価値観付けすることが“判断する”ことであり、情報→規則fによる写像(=判断)→ “ひととなり”であるとしたら、結局、最終的な “真のひととなり”は存在せず、投入する情報量と関数形にアウトプットとしての“ひととなり”は依存する・・なんとなくこんな理解が僕にしっくりくるのですが皆さんはいかがでしょうか。この論理に従うと、僕は情報収集能力かファンクションのどちらかに重大な欠陥があることになりますが・・・(皆さん人の顔って覚えられます?)
コバ
@H
私も高校生までは、人をタイプ分けして判断したことがありませんでした。
正確には(明らかにキケンという人物を含め)判断できなかったと言ったほうが正しいのですが。。。
<<人を“判断する”“印象付ける”という事自体、構造的に共通解の存在しないプロセスなのではないかという気がします。
<<投入する情報量と関数形にアウトプットとしての“ひととなり”は依存する
仰られる通りだと思います。
“真のひととなり”というものなど存在せず、各人(自分も含め)との間に、時間、空間(ネット、書籍等)を加味して、それぞれの場で”ひととなり”が存在するのだと思います。
そこから、人を判断するということを考えると、人を見た目で判断せず、真に0ベースから時間をかけて内面を含めて判断しても、その人をプレーンで判断していることにはならないのでしょうね。
チャンネルにも投稿済
F
環境というフィルターによってその人らしさを映し出してる・投入する情報量と関数系にアウトプットするとしての為人は依存するという考え、すきです。
外見で人を判断するという話ではありませんが、長く付き合ってきた友達のひととなりが変化するのも、自らの中の関数が変化するからとラエルと妙にしっくりきます。
人の顔を覚えられないことについてはひとそれぞれっていうことでいいんじゃないでしょうか。Hさんは顔以外で記憶する要素がつよいということにしましょう。僕は人の顔は一度見たら忘れませんけど(無慈悲)
■10
コバ
皆さん、たくさんの体験、考え方を教えていただきありがとうございます。
ここからは今まで挙げていただいた個々の事例のミクロな視点から、マクロな視点へと移っていきたいと思います。
人が人を判断するということ、人が2人いればそこにはもう判断が2つ(判断しないということも含めて)発生しています。
つまり世界の人口が約77億人だとすると、それぞれの場所で果てしない数の”人を判断するということ”が起こっていることになります。
そう考えていくと、社会は”人が人を判断する”ことで成り立っているとさえ言えるのではないでしょうか?
さらに、人を判断するということに、見た目だけではなく”権威”という要素を加えるとどうなるでしょうか?
政治家、医者、弁護士、東大生、スポーツ選手、その人の裏にある権威でその人を判断しているということが、ありとあらゆる場面で見受けられます。
もっと言うなら、男女、美醜、国籍、そういった要素をもとに地球上のありとあらゆる場面、場所で人は人を判断しています。
風呂敷を広げすぎて、自分でも畳めるか心配になってきましたが笑笑、ここからは社会の中で人が人を(見た目、権威で)判断するということについて一緒に考えていきたいと思います。
ちなみに人が人を判断する、最も重要な場面は裁判だと私は思います。
そんな裁判で、面白い(怖い?)研究結果が出てきたので、社会の中で人が人を判断するという一例として、下記に引っ張ってきました。
陪審員制度が存在するアメリカ、コーネル大学のスティーブン・セシ教授とジャスティン・ガンネルの研究によると、外見がよくない人の有罪判決率は外見がよい人に比べ22%増加し、さらに懲役の長さにおいても、平均22か月も長いという結果が現れたそうです。
参考文献 CORNELL CHRONICLE George Lowery May 11, 2010
上記の例で言うなら、法の下に人は平等であるはずなのに、見た目による不平等が発生してしまっていることは、人が人を見た目で判断することの大きなデメリットであると思います。
社会の中で人が人を(見た目、権威で)判断している場面、それによって生じるメリットデメリットを皆さんに書いていただき、一緒に考えていくことでワークショップの後半を進めていきたいと思います。
よろしくお願いいたします!
■11
I
我々は人を判断する主体であると同時に、判断される客体でもある、というのは言われてみれば当たり前ですね、、、、あらためてふと思いました。
人が人を判断するときは外見判断および内面判断を行うとすると、明らかに内面判断を行う方が思考、時間を要すると思います。内面は見えないからです。したがって、人は思考コストの低い外見判断のみに陥りやすいという意味で、「見た目で判断してはいけない」というメッセージの存在意義はあると思います。
有罪判決率22%↑とは驚きました。good-lookingな人が羨ましい笑、人間の最大の判断機関ともいえる(いえる?)司法がこんなもんなんですね.. 外見判断が悪だとは決して思わないですが、どうしても外見判断は無意識な作業であることも多いと思うので、着目するところには着目し、意識化することも大切かもしれません。
権威という要素については今後考えていきたいです。
コバ
@I
外見判断より内面判断の方が思考、時間を要する分、そちらの判断を保護する意図的な取り組みが必要かもしれませんね。
ただ、外見の判断、内面の判断に社会的にある程度の規制を入れていこうとすると、見たくないものが炙り出されてくると言いますか、人間は臭い物に蓋をする傾向があるので笑、現実化するのはなかなか難しそうですね🤫
■12
B
「心のありようが人相に現れる」という言葉をよく聞きます。よく用いる表情に合わせて顔の筋肉が変化することを考えればあながち間違いでもないのかもしれませんが、外見を見ただけでそれ以外の部分も判断したがるものぐさな心がこんな言葉を生み出している気がします。これは本筋とは関係ない話です笑
権威や見た目によって人を判断することは人生を送る上でこの上ない効率化に繋がると思います。ただその一方でその人間がそこに至るまでの過程や実際の言動や行動などの「時間的空間的広がりを持った情報」を切り捨てている点で浅い判断でもあると思います。
裁判は法が人を裁くという形式を取っているので、限りなく人の主観を取り除いているように思えますが、この例を見る限りだとどうやらそんなことはなさそうですね。
裁判では物的証拠や行った事実といったようにいわゆる「点(広がりを持たない情報)」で人を判断しています。人の内面と呼ばれるものには主観を排除するという立場から立ち入らないようにしているのでしょう。その結果無意識で取り入れてしまう「点」的な情報である「外見」の影響が実は日常よりも色濃く出てしまうのかもしれません。これは結果的にバリバリ主観の影響を受けていますが、自覚しやすいかしにくいかの差なのでしょう。
ここまで外見、内面なんて言葉を安易に使ってはきましたが、他人に内面なんてものがある証明すら本当はできないし、定義すらできないので、発露する思考、言動、表情などなどが他人を判断する材料そのものなんじゃないかという気がしてきました。
その人間の行動や言動の裏にある「であろう」心情に思いを馳せてこちらの脳内で作り上げているのがいわゆる「内面」と呼ばれるもので、そのように捉え直してみると結局そのときの判断材料も「外に現れた視覚情報」であり、考えるうちに見た目で判断することとの明確な境目がぼやけてきてしまいました、、。
結局のところそこにある差は先程言ったように「情報に広がりがあるのかないのか」であって、面的な情報は取り入れるのに時間を要するので自覚しやすく、点的な情報は無意識に入り込んでくるので取り入れた自覚がないということなのではないでしょうか。そして取り入れた自覚が比較的残る面的な情報を、私たちは本質的なその人の情報、すなわち「内面」と呼ぶことにして、情報としての格を上げているのではないでしょうか。
微分をすると定数項の情報が失われるように、点的な情報は人を判断する上で非常に浅いものです。それを無意識に取り込んで無意識に面的な情報を作り上げてしまう能力を、人間は社会関係の中で進化していく過程で会得したのでしょう。自分が勝手に「定数項」を補ったことに自覚的になることこそが、能動的に面的な情報を取りに行く姿勢に繋がったり、少なくともその人を知った気になることを防ぐことに繋がったりする唯一の方法なのではないかと思います。
H
情報の取り入れに自覚的であるか否かに着目する視点が非常に面白いなと感じました。
コバ
<<権威や見た目によって人を判断することは人生を送る上でこの上ない効率化に繋がると思います。
仰られるとおり、権威や見た目で人を判断することは社会の中で円滑に生活していくための必須スキルですね。
裁判で外見の影響が日常よりも色濃く出てしまっているのかもしれないという仮説は、非常に興味深いです。
確かに動物と比較してみると面白いですね。
動物は、瞬間瞬間の”点”で自分と周囲との関係を判断し、そうすることで毎日を生き残っていますね。
この”点”で他者を判断する機能は、生物的な生き残るという目的の上では非常に役に立ちますが、社会の中で生き、理性がある人間はこの”点”と”面”の関係に自覚的でなければ、誤った判断、方向に突き進んでいく危険性がありますね。
■13
コバ
皆さんこんばんは。
日付を過ぎてしまって最終日に入ってしまいましたが、今週のワークショップのまとめに入らせていただきたいと思います。
我々が人を見た目で判断している場面、人を見た目で判断するメリット、デメリット。
見た目で判断すること、それの場面によっての使い分け。
タイプ分けすることが苦手な方の意見。
そもそも見た目の逆の「内面」というものは、他者との関係の中で初めて発生するもので、そもそも「内面」を正しく判断するということなど不可能ではないか。
等々の意見を出していっていただきました。
人を見た目で判断するということについて1週間話し合ってきたことで見えてきたもの、気づいたこと、あるいはこの考えは全然変わらなかったという意見、人を判断するということに関しての面白エピソード。
あるいは人を判断するということに関して思考していくと、この終着点に達するよね、という結論。
足並み揃えて始めさせていただいた今週のワークショップ、最終日に皆さんが思考されていることを教えていただき、発散していただけると、一つの執着駅に着けるような気がするので、上記の内容等を気軽に書きこんでいっていただけると幸いです!
それではワークショップ最終日、よろしくお願いいたします!
■14
B
1週間皆さんの考えに触れてみて、このようなテーマについて語るとき、やはり行き着く先は「自己の内側」になるんだなと感じました。一見自己の外側のテーマのように見えても、情報を取り入れ処理する主体、判断する主体は自己であって、このテーマ以外でも深く考え出すと自己内省的になるケースは多そうだなと思いました。
テーマそのものに関しては、自分の偏見という名のフィルターを凸凹ながら言語化できた気がします。元々自分から人にあまり絡みに行かないため、自分は人を判断なんてしてないと思っていたのですが、実は全然そんなことはなく、見た目からの勝手な妄想をあたかも既成事実かのように扱ってることに無自覚であった自分に気付かされました。また個人的には「見た目」というテーマに向き合うことでファッションに興味を少しは持てたかなという気がしていますw
情報の取り入れ方、処理方法について机上の空論ながらも少し筋が通ったかのように見える仮説を立てられたことで、これからの他人との向き合い方も少し変わるかもしれません。少なくとも「その人に関する確たる情報がない」という情報に自覚的になれそうな気がします。
コバ
仰られる通り、”他者”を判断するということでも、判断する主体は”自分”なので、自分という眼鏡を通してしか他者の情報にアクセスできないのは考えてみる当然であり、どうしようもないことですよね。
Bさんのコメントで、かなり”人を判断するということ”を深堀りでき、終着点に近い地点まで到達できたように思います。
積極的にコメントいただき、ありがとうございました。
■15
F
今回のワークショップを通して
・内面は接してみて初めて生ずるものだから外見はなるだけ磨いた方が良い
・他人を外見で判断する際環境という偏見フィルターを通してみている
ということに気づけました。
改めて見てみると当然のことのようですが、この一週間過ごした前と後では言葉の重みが違うと実感できます。
お疲れ様でした!
コバ
@F
改めて考えてみると当然といえば当然の話ですが、自覚して他者を判断するのと、無自覚でルーチン的に判断するのとでは、何かが違うと思います。
そういった部分をワークショップで感じていただけたなら幸いです。
お疲れさまでした!
■16
コバ
それでは、そろそろ今週のワークショップもお開きといたしましょう。
”人を判断するということ”という、掴みどころのないテーマで議論を展開しにくかったかもしれませんが笑、皆さんの意見を聞けて私自身とても勉強になりました!
人を判断せずに社会で生きていくことは不可能ですが、それを完全にオートマティックに処理してしまうのではなく、少しでも自覚的であるべきだ、というのが私の考えです。
今回ワークショップで”人を判断するということ”に対する思考では、皆さんのコメントのおかげで海底くらいまでは行き着けたかなと思います。
さらにその海底をスコップで掘っていくのは、、、今回はやめておきましょう笑笑。
最後に、2ちゃんねるの文章査定スレで、日本の有名な文豪の文章をそのまま自分の文章として投稿したらボロクソに酷評されて、その後「あ、間違えて書き込んでしまいました!これは文豪の○○の文章でした:アセアセ:」と書き込んだあとはその文章が褒め称えられ始めた、という笑い話がありますね:ウケる:
最後に便所の落書きレベルのエピソードで締めてしまい恐縮ですが、人の文章を判断するのも難しい!ということで:ハロー:
皆さん、1週間お疲れさまでした!
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