自分語りを考える

 一般的に「自分語り」というものは敬遠されるものであるらしい。しかし、人が何かしら文章を書いてそれをたとえばここnoteや他SNSなどで投稿し世界へ向けて発信しようという時に、その全ては自分語りであるとは言えないだろうか。

 誰も、知らないことは書けない。想像して書く事はあるだろうが、それとて今までの自分が見聞きした経験からの入力を自分なりに解釈して、あるいは再変換とでも言うような工程を経て外部へ出力しているわけで、「ある事柄についてはこう思う」の連続ようなことであってそこには必ず「自分」が存在する。

「自分語り」を辞書で引いてみる。

自分語りとは - 日本語表現辞典 Weblio辞書 
自分語り 
読み方:じぶんがたり 
自分自身に関連する私的な物事について、会話の中やブログ、SNS上などで詳細に語ること、あるいはそのさまを意味する俗語。「自分語り」の語は、その「語り」の内容にさほど興味がなく、鬱陶しいという感情を抱いている聞き手によって、否定的に用いられることが多い。

 ここで「否定的に用いられる」場合の「自分語り」とはどのようなものであろうか。「自分はかつてこのような体験をした」「その時私はこう思った」という程度であれば、それ自体では他人にそれほど否定的に捉えられることはないのではないか。どうにも行き詰まってしまったので、検索に頼ることにする。

自分語り 嫌われる 理由 Google検索
自分語りが女性に嫌われる理由とは|うざいと思われても語ってしまう心理を探る! JOOY

 詳細は記事をお読みいただくとして、この中で気になる点を挙げていくとしたら
1、TPOを考慮しない
2、聞き手、読み手にとって興味がない話題
3、自慢話
あたりであろうか。

 しかし、例えばブログやここnoteなどで記事を書く場合、「自分はこんな経験をした」日記や「自分はこう思う」エッセイを投稿することは1ユーザーの利用方として何も問題はないはずで、ルールとマナーの範囲内で好きなことを好きなように書いていいことは間違いない。であれば上記の中で1と2は「否定的に言われる自分語りかどうか」という点にについてはそれほど重要視されないのではないだろうか。

 興味のない話題であれば読まなければいいだけの話である。ならばタイトルは、集客目的のバイラルメディアにありがちなセンセーショナルだったり思わせぶりだったりするものよりも、特にnoteのような(継続して読み続けてもらうためには)書き手の信用が重視される場所では、内容が分かりやすいようにつけたほうが良いと考えられる。タイトルからある程度の内容が推測できれば「もしかしたら自分が興味のある話題かも知れない」と読んでくれた読者をがっかりさせずに済む。

 話を戻すと「否定的に用いられる場合の自分語り」とは主に「自慢話」であると考えられる。わかりやすく書けば「過去にこんな経験をした自分ってすごい」「こんなことを考えている自分はすごい」というような、読者の「自分もそういうことがあった」「自分もそう思う」などといった共感を超えて、賞賛されたい言わば「承認欲求」が透けて見えてしまうものであるのだろう。

 となれば特に自慢できるようなことなど何もない私などは、そんなことを気にせず好きなように書いていればいいということであろうか。書いた内容が「否定的に用いられる場合の自分語り」ではないからといって、それだけでは読んでくださったかたの心にに訴えかけたり「次の記事も読もう」と思ってもらえるわけではないのが厳しいところであるが、何事もやってみなければわからないことも多々ある。

 いままで特にnote以外のことでは自分の考えなりを記事として書いては来なかった私であるが、これからはそういったことも少しずつでも書いてみようと思う。普段noteについては偉そうなことばかり書いているが、それ以外のことについて、さてどれほど語れるものであろうか。私が何かを書いたことによって、どこかの誰かが何かを感じていただけたとしたら幸いである。

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