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「卒母の春」と「50代のこれから」

この春、息子が高校を卒業して大学生になりました。

高校の卒業式に出席して感じた「子育て終了」感は思ったよりも複雑で、その正体についてしばらく考えていました。
ここまで元気に育ってくれてよかったという安堵、子供が広い世界に巣立っていくことへの小さな寂しさ。そういう感情はまあ予想通りでしたが、同時に「責任感」のようなものと、「自由を求める気持ち」を感じました。

責任感、のようなもの
子育て終了期なのに、どうして「責任感」なのか?
それは自分の役割が「一人の子供の母親」から、「社会の中の大人」へと変わっていくからではないかと思います。自分より若い世代全体に対する「責任感」を感じるようになったのです。

以前息子が「日本はこんな国だから、ずっとここにいるかどうかはわからない」と言ったことがありました。全然深刻な話ではない普通の会話の途中で、さらっとこともなげに。その時私は、「ああ、若い人たちにとって日本はそれほど希望のない場所に見えるのだな」と軽いショックを受けました。

またある時、NHKの番組「魔改造の夜」で、東工大チームの学生さんが言った言葉もちょっとショックでした。「社会にいる大人たちはつまらなそうだと思っていたけど、今回はそうじゃない人たちを見れた」というような発言で、それ自体は前向きな言葉だったのですが、「やっぱり若い子たちは社会にいる大人をつまらなそうって思うんだな」と寂しく感じたのです。

そんなわけで、これからは「一人の子供の母親」であると同時に「社会の中の大人」の一人として、若い人たちが少しでも希望を感じ、生きていくのも悪くないなと思う社会になるように、ささやかでもできることを探していきたいと思います。大人たちが楽しく生きる姿を見せるだけでも、プラスになるのではないかと思うので。

自分自身から自由になること
もう一つの「自由を求める気持ち」、これは自分の中にある〝枷〟から自由になっていきたいという思いです。
こんなに変化の激しい世の中で正解なんてない、といくら言われても、私は「正解」を探そうとしてしまいます。間違えたくない、損したくない、そんな気持ちが「面白そう!」に勝ってしまう。
「やりたいことをしよう」「好きなことをしよう」といくら言われても、「やりたいことより、やるべきこと」をやろうとしてしまう……。

でも、そういう自分を自覚できているのだから、何かを選ぶときにいつも「〝私〟はどうしたいのか?」と問い続けようと思います。
単純に面白そうと感じる方でいい、間違えるのを怖がらなくていい、とりあえずやってみるでいい。
なんか、息子にずっと言ってきたことと同じな気もしますが、これまでより自由な心で50代のこれからを生きていくことを目指します。

書くこと、記録することの意味ーー変わることを恐れない
せっかくこういう場に自分の試行錯誤や考えたことを残そうと思ったのだから、「変わることを恐れない」と自分に言い聞かせています。でないと、
「あの時はあんなこと書いたのに、今度は全然違うこと書くなんて……」
と自分で自分を縛ってしまいそうだからです。

新しいことを知ったら、別の世界を見たら、変わるのは当たり前。
むしろ「あの時はこんなことを書いてたんだ~」と違いにびっくりするくらい、変化していきたい。
それが今を記録しておくことの意味で、今を書いておくことの楽しみだと思っています。







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