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前々掲載記事改稿:空想特撮映画『シン・ウルトラマン』と、空想特撮シリーズ『ウルトラマン』との最も大きいと考える相違点

2つ前の記事の内容を改稿したものです。

※映画本編、関連作品のネタバレを具体的に書き綴っています。まだ鑑賞されておられない方はこの先読まれませんよう。




 怪獣特撮映画において、「シン・ゴジラ」は祝福であり呪いとなってしまったのだなとつくづく思う。シン・ゴジラ有りき、シン・ゴジラ基準の観客を考慮に入れておくことが必須となり、怪獣の登場する新たな特撮映画作品においては個々の作品として切り離しての評価を得ることはもはや難しく、どのような形であれシン・ゴジラを抜きには良くも悪くも語れなくなってしまった。

 シン・ゴジラと比較、後継の期待を背負わされてしまった「大怪獣のあとしまつ」だが、はからずもデウス・エクス・マキナ的存在による怪獣退治フォーマットを広く予習させる役割を担った形になったのは、「シン・ウルトラマン」および一般観客層の双方にとって幸いした意図せぬ副作用だったのかもしれない。


 『シン・ウルトラマン』が初代へのリスペクトとオマージュ&アレンジに溢れる中で、初代の作劇と明確に異なるのが、
神永と融合したウルトラマンが正体を隠そうともしておらず(言わなかっただけ)、明かされた後に会話などによる明確な意思疎通をしながらの共闘
を描いている。

 『シン・ウルトラマン』はおそらくは最初から、ウルトラマンのシン・ゴジラ的コンセプト化を狙ったものではなく、『空想特撮シリーズ ウルトラマン』を換骨奪胎した「空想特撮映画」として制作された作品だと解釈している。

 元祖の初代『ウルトラマン』をこの映画一作で描き切る前提とした場合、戦う相手として登場させるのを怪獣(→禍威獣)か宇宙人(→外星人)のどちらか一方だけにもできず、またそれぞれ1体だけではボリューム不足、計5体以上だと総尺が足りずで、
・ウルトラマンとの初遭遇
・禍威獣エピソード×2
・外星人エピソード×2
・ゼットン戦
は最低限必要で崩せない構成だったと思われる。

 これらを一本の映画に収めるには、やはりTVシリーズとは違う構成が必要で、一見エピソード要素を詰め込み過ぎとも思われもする、その一方で大胆に思い切った圧縮と数々の削ぎ落しが行われている。


 冒頭の、元祖ウルトラマンのアバンタイトル再現でウルトラQか?と思わせてからの「シン・ゴジラ」、次いで「シン・ウルトラマン」のアバン。これは、『ウルトラQ』と初代『ウルトラマン』とが空想特撮シリーズとしてカテゴライズされているのと同様、地続きとか直接の続編ではなくとも『シン・ゴジラ』と同じシリーズに位置する宣言と受け取った。
 
 このアバンタイトル後に『パシフィック・リム』よろしくのダイジェスト形式で、巨大不明生物→敵性大型生物「禍威獣」災害の最初の発生から現況までの提示、「禍特対」の結成経緯および戦果・実績&有用なチームであることの観客への印象づけを行う冒頭解説、それとともに、前作『シン・ゴジラ』を同じシリーズとして観客になぞらえさせることで、
・巨大不明生物が現れた以降の同様の世界観
・政府等の動き、諸外国との情勢
・自衛隊による怪獣≒禍威獣対応
・巨災対の立ち位置や手腕等≒同レベル以上である禍特対
等々については、シン・ゴジラ鑑賞済みの観客が擬似的に共有設定として予め履修済みであるとして構成することで、本編ではこれらを直接描かず圧縮導入しているものと思われる。


 削ぎ落し要素としては、まず、
・科特隊基地やジェットビートル、スパイダーショット等の、一切合切のスーパーガジェットのオミット
 これらは『ウルトラマン』のたいへん大きな魅力要素で、シン・ウルトラマンではどのようなこれらが見られるかを大いに期待していた観客も相当数居られたのではないかと思われる。が、これらの発進シークエンスやウルトラマン登場までの戦闘シーンに割く尺を割り切って丸ごとオミットすることで、その分ストーリー展開の描き込みに尺を費やせる効果は大きく、また必須であったのだと考える。


 次に、何よりも最も大きな要素として、ウルトラマン人間体の正体隠匿エピソードに割かれる尺を削ぎ落したのは英断かつ大正解だと思う。
 基本、対策本部内で分析・立案・指示を行う設定の禍特対に身を置く主人公の正体隠匿に関しては、変身する必要が生じるたびに現場離脱を繰り返していつまでも身バレしないというのは、1966年当時は概ね受け容れられる設定でも2022の今描くにはどうにも無理があり過ぎる。
 なので、ガボラ事案直後まだ有耶無耶の状況のなか無断欠勤を続けての単独行動で行方をくらまし、そうこうしてるうちに変身動画拡散(ザラブによるリーク?)で早々に身バレに至る展開も、より無理がない落とし所と感じた。

 そうなると次段の流れとして、ウルトラマンとしての正体がバレることがどのような事態を招き寄せ、身近な者たちを巻き込むのか。正体を知った者たちが放っておいてなどくれず己の都合で利用しようと画策してくる展開が必要となり描かれることとなる。
これらを懸念しての身バレのジレンマなしにいつでも変身を行えるのは相当にデカい。
それらに惑うことなく冷静に対処する神永ウルトラマン。
対極に、暴力でも知恵でも外星人には敵わないと思い知らされた絶望から投げやりとなった、人間である滝が言う。人類の力が及ばないことでもウルトラマンならあっさり解決してくれる、ウルトラマンに全部任せるのが正解なんだ、と。
 人類の可能性を信じる神永ウルトラマンは言う。ウルトラマンは万能の神ではない、君たちと同じ命を持つ生命体だ、僕は君たち人類のすべてに期待する、と。


 長澤まさみ演じる浅見弘子の、
 ・自分の尻を叩いて気合を入れる
 ・気が利かない男ね発言
 ・激昂しての平手打ち
 ・激励で神永の尻を叩く
これらはそういう人物だというキャラクター描写で、その設定付けに関しては作劇外の要素として問題視しないといけないほどのステレオタイプの偏見が盛り込まれているものではないと思う。
 巨大化した際のカット回りについては、画像や動画に撮ってネットにアップするようなリテラシーに欠ける多くの輩(人類)の視点を表す演出との解釈だと、メフィラスによる謝罪&事後処理描写とも絡めて受け取れる。

 尻を叩く際に毎回臀部のアップおよびその他実相寺アングル的カットの数々については判断を差し控えるが、これらが粗探しの揶揄や罵倒を目的としてではなく思考停止に陥らず議論されていくことには大いに意味があると思う。


 『シン・ウルトラマン』本編112分のうち、「M八七」のエンドロールが5分弱で、残りをネロンガからゼットンまでの5エピソードで割ると1エピソードあたり21分強。これはTVシリーズ単話からOPとEDを抜いたのと同等の尺になるのだが、あらためて、さらにそこからスーパーガジェットおよび正体隠匿描写に割く尺を丸ごとオミットしている分、ストーリー展開の描き込みがじっくりより丁寧に為されているのではと思えている。

 もしかするとエピソード間のキリの良いところで分割するだけでそのまま5話構成で30分番組としても成り立つようにもしてあったりするのだろうか?ぜひその番組構成でTVで観てみたいとも期待している。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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