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華麗ならざるアラタ ー『大怪獣のあとしまつ』に滲むグレート・ギャツビーの残滓ー

 大怪獣のあとしまつの三角関係は無駄で不要なものだったのか?

※各作品のネタバレありです。


  映画パンフレット掲載のプロダクションノートにて、三木聡監督はこのように語っている。

> 「人間がやっていることなので、国家存亡の中でも個人的な問題は発生します。キャラクターの外堀を掘っていくことで、物語のリアリティを出そうということです。それに、ちょっとした言動の中で『え?そういうことなの?』と関係性が見えるのも面白いんじゃないかなと」

>アラタと雨音ユキノ、雨音正彦の三角関係には、スコット・フィッツジェラルドの代表作「グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)」の影響もあるという。
 「脚本作りをしていた頃たまたまこの小説を読み直していて、ギャツビーとデイジーたちの三角関係が面白いなって。大切な人が突然いなくなっても思いは続くという部分も、アラタとユキノ、雨音に投影しました」怪獣映画の主人公やヒロインも生身の人間である、という三木監督の思いも込められた。

 怪獣映画に恋愛要素を求めていない層は多いのだろうが、入れちゃいけないことはないだろう。
 怪獣映画の登場人物にだって当然様々な感情や側面があるわけで、これを読んでる我々個人の日常が普通に存在しているのと同様に、キスが日常という人も普通に存在しているわけで。世の中に不倫も含め恋愛感情も多様にあれば、寒いギャグを好んで言う人が身近にも居て反応に困ることもあるし、小学生レベルの下ネタはいちいち付き合わずにスルーしたり。サークルや仕事など組織の役員経験があれば内閣のあの内輪感やグダグダさも、さもありなんと身に覚えすらも。

 ウルトラマンに変身する人物にだって普通に感情や人間関係があるはずなんですよ。

 それら市井の人々のグダグダな日常を切り取って散りばめて描くのが三木聡の作家性で、登場人物たちのちょっとした言動から見えてくるものに視点を合わせようとしたなら、解像度が上がり見えてくるものがある。中途半端に思えていた要素も敢えての匙加減で、一見無駄なシーンも無意味に思えるシーンも、その無駄なこと無意味なことにも何かしらの意味と意図があって配置されている。そのような見方をしていると三木聡独特の面白さが出てくる。


 大怪獣のあとしまつを初鑑賞の際には他の要素と同じ様に中途半端に思えたのが、2度目の鑑賞では違う作品を観ているのかと思えるほどに見違えて迫る三人各々の心情に驚いた。そこに投影されているというその「グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)」とは実のところ如何なる話なのだろうか?
 タイトルだけは以前から知っていたこの作品も、大怪獣のあとしまつがいよいよ触れるキッカケとなって、レオナルド・ディカプリオがギャツビーを演じた2013版映画を鑑賞した。


 鑑賞を終えてのこの余韻はいまだにどう表せばよいのか、ギャツビー自身の頑なな拘りもあの結末に引き寄せた要因ではあるけれど、たまらん話だった。やるせなさ、諦観、憤り、哀悼…様々で複雑でもありシンプルとも思え、的確に語る術を持ち合わせていないが原作小説は確かに傑作なのだと思う。
 
 大怪獣のあとしまつがまんま取り込んでたら流石に濃すぎで、相当薄めてアクセント程度にしてあり、それ故に、あれでグレート・ギャツビーの投影?どこが?と感じられた方も居られた様子だが、換骨奪胎された三角関係の中身は別物に再構築されていて、去る彼への評価と仕打ち、報われなさとに残滓が重なる。

 大怪獣のあとしまつを観終わった後の印象については、不快最悪駄作etcというのがツイッター上では圧倒的に多いけど、自分にはこの華麗なるギャツビーとその余韻の残り方がとても似て感じられる。ギャツビーとアラタとは同じではないが、どちらもふとするとその心情を慮ってしまう。


 大怪獣のあとしまつに重ねられたものを考える。

>「それは“希望”に対する稀な才能であり、彼を食い物にした一切、彼の夢の跡を覆う塵芥のせいであった。」

 アラタはギャツビーそのものではなく、ユキノと正彦もデイジーとトムそのものではない。グレート・ギャツビーの三角関係を換骨奪胎し別物に構築しなおされた大怪獣のあとしまつでのそれは、読者が、叶うならギャツビーに手向けられてほしかったそれらを主に構成されているように思う。
 アラタは、どこで何をしていたのか不明の謎の過去を持つ人物であることは踏襲、ギャツビーの纏って見せている華麗さなどからは遠ざかっているが、謹厳実直で、ヒーロー然としてその振舞いは外れることなく描かれている。
 ユキノは、デイジーとは違い自立したヒロインで、ギャツビーがただそれだけを求め続けて止まなかった愛する人からの愛を、その倫理的な是非はともかく自らの意思でアラタに想いを寄せ続けた。 
 正彦も、イヤな奴なりにトムとは違う毅然さというか芯を感じた。その是非はともかく、不倫・浮気も自堕落からではなく冷徹な手段としてであり、歪みつつもユキノへの想いはより真摯なものだと。
 そして、彼視点の物語である「グレート・ギャツビー」の語り部、大怪獣のあとしまつには該当する人物が配置されていないニックの視点は観客一人一人に委ねられたのかもしれない。


 あとしまつラストのアラタに浴びせられた多くの観客からの罵声の数々を読む時、ギャツビー邸での毎夜のパーティーに興じた多くの人々のその殆どが、誰も彼の葬儀への参列に訪れることはなかったことに感じた居たたまれなさが甦る。

 結果的にアラタも、潰えた希望と共に去って行くのだけど、せめてもの手向け、ユキノだけがその場に駆けつけてくれて、彼女に想われて、見送られて退場するラストであったのは、重ねられた意図だったのかなと思う。必ずしもバッドエンド一辺倒ではないと解釈している。

 大怪獣のあとしまつの三角関係は無駄で不要だったのか?
観客の方々が大怪獣のあとしまつとは関係なく、グレート・ギャツビー(華麗なるギャツビー)を読了/鑑賞されたならギャツビー、デイジー、トムにどのような感想を持たれるだろうか。
そのうえでアラタ、ユキノ、正彦を振り返るなら何を思われるだろうか。


読んでいただきありがとうございました。

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