見出し画像

日本初の産業スパイ

今日はイベントでばたばたしてまして
ネタ探しが出来なかったので
過去メルマガより ちょっと趣向の違うお話を・・・

日本で最初の産業スパイは着物業界だった、というお話。

この着物業界というのは
似て非なるもの、が横行していたりするのですが
いわゆる、パクリが多いのは驚くほどです。
昨日、京都で発表された手描きの友禅や手織りの帯が
翌月には地方の染工場や織工場で量産されいてた、なんて
言うのは良く聞く話です。 
また、店のオリジナルで創ったはずのものが
別の問屋さんから「じざいやさん向きの柄でしょ」と
持ち込まれる、なんてややこしい事も起ったりします。
行儀の悪い人も多い業界ですが
みんな生き残るために必死です。
日本初の産業スパイ、と呼ばれる人もこの業界から生まれました。

それは 絹屋佐平冶という 丹後の貧しい絹機屋でした。
丹後地方では 織物の歴史が古く、
室町時代には主として「丹後精好」と呼ばれる袴の産地として
知られていました。
江戸時代の初期には生産も増大しましたが 
中期になると 町の風俗が華美になり
品の良い輸入糸を使い、高い技術を持つ
京都西陣の織物がもてはやされるようになり
丹後の製品は衰退していきました。
そんな時に連年の凶作となり
丹後の人々は益々苦境へ追い込まれました。

この危機を救い、丹後に縮緬を導入したのが
この絹屋佐平冶です。
佐平冶は 享保4年(1719年)3月
村の禅寺で7日間の断食祈願をした後、
素性を隠して西陣の縮緬問屋で
住み込み奉公人となります。
織の技術を習得して故郷へ帰りますが
どうしても上手く織れず、
織り方ではなく糸の加工に秘密があると思い至り
再び 素性を隠して別の織問屋に奉公し
鍵の掛かっている部屋に秘蔵されていた
撚糸機の構造を写し取り
丹後へ持ち帰った、とされています。

故郷の人々を救うためのスパイ行為ですが
その後 丹後の人々は
その技術を身に付け丹精して
技術向上に努めたため、ついに西陣を追い越し
日本最大の縮緬産地に成長していったのです。

織もの一つにも 様々なドラマがあります。
着物を身につける時
そんなことも思えば 愛しさも一層です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?