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“木に傾聴することを学んだ者は、もう木になりたいとは思わない”

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』を手に取ったのは学生のころ。
後にも先にも、それはわたしにとって人生で唯一の本…。
唯一、最後まで読めなかった(!)本。

あまりにもつらくて…、
あまりにも深い絶望で…、
もうこれ以上ページをめくれない…、
そんな本は後にも先にも『車輪の下』だけ。

それ以来、本屋さんでもヘッセのコーナーは素通りし、ヘッセの作品には1本も触れることなく、時は流れていきました。しかし、長い長い年月のあとに、ついにヘッセと邂逅(かいこう)を果たします。今年、ふらりと手元にやってきたのが、V.ミヒェルス編『ヘルマン・ヘッセ庭仕事の愉しみ』(草思社)という本でした。

その本には、自然への愛に満ちたヘッセのエッセイや詩、彼が庭を描いた絵も掲載されていて、あんなに近寄り難かったヘッセに、わたしはとても親しみを抱くようになりました。

私には、ひとつの庭が、葡萄の木や、野菜や、少々草花のある素朴なテッスィーン【スイスの地名】の庭があります。夏には私はそこで半日を過ごします。焚き火をし、花壇の中にひざをつき、下の谷間の村々から響いてくる鐘の音を聴きます。そしてこの素朴な田舎の小世界で、詩人や哲学者の著書を読むときとまったく同じように、永遠なるものや、心にしみるものを感知します。


「草に寝て」

今 ここにあるすべて 明るい夏の草原の
野の花のたわむれと 草の穂の綿毛の色と
おだやかに青く広がる空と 蜜蜂の歌
これらすべては
神の嘆きの夢だというのか
救いを求める未知の諸力の叫びだというのか?
美しく雄々しく青空に憩う
山なみのはるかな稜線
これもまた激昂する自然の
痙攣や荒々しい緊張にすぎないというのか
ただの痛み ただの苦しみ 意味もなく手探りし
決して休まず 決して祝福されないただの運動にすぎないというのか?
いや そうではない! 私から去るがいい
おまえ この世界の苦しみについてのいまわしい夢よ!
おまえよりも夕映えの中の蚊の踊りの方が
小鳥の叫びの方が
私の額を快く冷やしてくれる
風のそよぎの方が おまえよりも重要だ。
私から去れ 太古からの人間の苦しみよ!
たとえすべてが苦しみであり
すべてが悩みと影であるにせよ
この甘美な日の照るひとときだけは
そして赤ツメクサの香りだけは
私の心の中の この深い優しい幸福感だけは
苦しみでも悩みでも影でもない。


本に書かれてあること、すべてに共感して同意するわけではありません。しかし、ヘッセの生い立ちと世界大戦の体験から紡がれた、とてもこころに触れる言葉もたくさんありました。

私どもは、とても耐えられないほど落ちつきのない暮らしをしています。3ヶ月このかた、たえずドイツから少しずつ悲惨な知らせが手紙を通じて、不穏な気配を通して、滞在客や訪問客を通じて私のもとへ届きます。亡命者や逃亡者があふれています。みんな、あるいは精神的に、あるいは物質的にひどい苦境にあります……ところで、私はよろこんで庭の奴隷となって、ひまな時間があるとほとんどいつも妻といっしょにそこで働いてます。庭仕事は私をとても疲れさせ、少しきつすぎますが、これは、当今人間が、行い、感じ、考え、話すすべてのことの中で、最も賢明なことであり、最も快適なことです。
私たちが悲しみ、もう生きるに耐えられないとき、一本の木は私たちにこう言うかもしれない。「落ち着きなさい! 落ち着きなさい! 私を見てごらん! 生きることは容易でないとか、生きることは難しくないとか、それは子どもの考えだ。おまえの中の神に語らせなさい。そうすればそんな考えは沈黙する。おまえが不安になるのは、おまえの行く道が母や故郷からおまえを連れ去ると思うからだ。しかし一歩一歩が、1日1日がおまえを新たに母の方へと導いている。故郷はそこや、あそこにあるものではない。故郷はおまえの心の中にある。ほかのどこにもない。」
  .....(略)......
木に傾聴することを学んだ者は、もう木になりたいとは思わない。あるがままの自分自身以外のものになろうとは望まない。あるがままの自分自身、それが故郷だ。そこに幸福がある。


信州で暮らしていた4年の間、足しげく通った森があります。

その森の少し奥に、わたしの特にお気に入りのおおきな木がありました。その木は、胸の高さくらいまである、大きな大きな岩の上に、どっかりと座っていました。

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木の幹は苔むしていて、おとな2人が両腕を広げたほどの太さです。樹冠は空に近く、幹にもたれかかって空と葉っぱを見上げたり、鳥やりす(たまに猿やカモシカも)をながめたり、その根元で丸まってお昼寝する時間が大好きでした。ひとはほとんど通らず、聴こえるのは鳥の歌声、葉っぱのそよぐ音、そして近くを流れる清流の音だけ。

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わたしはたぶん、そこにひかりを見出していたのだと思います。どんなときも、この森とこのおおきな木は同じようにわたしを迎えてくれました。そしてあこがれもありました。木は、だれに対しても、たとえば自分が苦手なひとにだって、同じように開かれている。そして同じように、たくさんのものを惜しみなくふりそそいでいる。そのことがいつもこころにしみて.......
あぁ自分も木のようになれたらいいのに、と思ったことが何どもあります。

この木に背中をあずけて、空を見上げる時間。それはとても安らぎに満ちていて、呼吸は自然と深くなる。そして身も心もすっかりくつろぐと、普段は「思考」で覆い隠されている、自分のほんとうのきもちがよくわかりました。

ヘッセが『あるがままの自分自身、それが故郷だ』と書いたように、わたしは足繁くこの木に逢いに来ながら、その実、たぶん『ほんとうのあたし(あるがままの自分)』に逢いにきていたんだろうな、とも感じています。

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そしていつも力がみなぎってくる。

その力は、与えられているようにも思えたけれど、ある日わかったのです。あぁ、そのみなぎってくる力はもともと自分のなかにあったのだと。

それは自分のなかにいつもあるもの。
どこにいても、だれのなかにもいつもあるもの。

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この森を離れた今も、このおおきな木は、かけがえのない わたしの大切なともだちです。

どこに住んでいても、木のともだちはつくることができます。公園の木でもいいし、街路樹でもいいし、植木鉢の木でもいい。

木のともだちをもつことは、ほんとうに素敵なことです。


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