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天空路越え

 私が小学校の頃の遠足は佩楯山が多かった。番匠川を遡り虫月、小鶴、松葉から山を登る。山頂にはテレビ塔があって、三重町から大分市内が遠望できた。8合目から9合目あたりではよく貝の化石が簡単に取れたものだ。九州が二つに分かれていた時、海岸が隆起して一つになった証が貝の化石である。それは今回どうでもいいことだが、小学校から山頂までは3時間以上かかったと思う。全行程完全に登りしかない。
 登山の起点となる松葉から元山部にかけては多くの人家があった。松葉には分校もあった。確か5年生になると堂ノ間にある小学校に通っていたのではと思う。
その山部地区へ行くのに私の祖母や曾祖母は江平から山を越えてショートカットしていた。曾祖母の弟が村長選挙に出た時には、人目を避けて夜に山を越え、山部を回って支援したと聞いている。地図を上空から見ればわかりやすいが、時計で見ると3時の位置の堂ノ間から、まともに番匠川を遡れば11時の山部に行くことになるのを、山越をすれば、3時から戻って11時の山部に着くことになる。
 私の先祖の一人に山部地区の小鶴から嫁いで来た人がいる、と聞いている。川沿いの道は、昔は不便だったのでは、と思う。増水すれば川を渡るのに苦難し、山裾の道も上り下り曲がりくねって、円の周りを回るより、一つ山を越える方が至便だったに違いない。
 もう一つ。祖母は上津川を遡り井内から宇目へ頻繁に通った、という。宇目へ超す峠は、いまでこそ完全舗装の道になっているが、私がまだ30前半の頃は、切り立った山にへばりつく急勾配の単線未舗装道路しかなかった。対向車が来ないことを祈りながら当時居た宮崎から実家に通ったのを思い出す。
 この山を歩いて通ったという祖母たちの世代の脚力に感心するしかない。この山越の目的は、宇目にあった田んぼの小作料を回収するためだったが、戦後の農地改革によって、この役目はなくなった。

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