青の彷徨  前編 13

 周吾はその後、すっかりノッピにのめり込んでいた。週末は必ず一緒に過ごした。
 十二月二四日イブの日は土曜日だった。ノッピから、この日はエスケープしようと誘われていた。
 周吾は金曜日の夜、仕事を終えて、大分の上野の山に行く。ノッピのマンションだ。九時前に着いた。
 「アオ。何か食べてきた?」
 「食べてない」
 「そう。じゃ、先にお風呂入って。用意しとくから」
 ノッピは薄いピンクのワンピースに、濃いピンクのエプロンをしている。エプロン姿は初めてじゃないが、つい目を奪われる。
 「どうしたの?何かついている?」
 「とっても、かわいくて、すてきだ」
 「ありがとう。何もないわよ。早くして私もお腹すいたの」
 周吾が風呂から出ると、ダイニングテーブルに、鍋の用意がされてあった。カセットコンロの上に土鍋がのせられ、湯気が立っている。
 「すごい。鍋だ。カレー食べなくて良かった」
 「なにそれ」
 「毎週休みの前は、寮はカレーライスに決まっていて、これがまずい。普通のカレーを水増しした味。次の朝も、昼も、寮に残っている人は食べられる。味覚より利便性に重点が置かれたメニュー」
 「お鍋は好きなの?」
 「大好き。日本人でしょ。それに、贅沢ですよ。出来たてで食べられる。熱々をふうふうするのもいい。一人じゃ寂しいけど、誰かといれば余計においしく食べられる」
 「そうよね。私も大好きよ。でもね。ほんと一人じゃ、食べられないでしょ。だから今日は、クリスマスでも鍋にしたかったの」
 鍋を食べながら、
 「アオは、仏様好き?」
 「ホトケ?仏像?」
 「そう」
 「ホトケにまだなりたいとは思わないけど、仏像は好きです。昔、その時代、時代の、考えとか、息吹とか、怨霊とか、伝わってくるようで、歴史ものや絵画も好き。年寄り臭い好み持っているんです。人にはこんな話はできません。まだのめり込むまではまっていないけど、危ないかも知れない」
 「そう、嬉しい。とっても嬉しい。アオ。やっぱり私の眼に間違いはないわ。良かった。アオなら許してくれそうと思ったけど、良かった」
 「どうしたんです?仏様」
 ノッピは明日からのエスケープの秘密を暴露した。
 周吾は二日前電話した時、
 「土日どこかにエスケープしよう。金曜の夜、いつものように仕事が終ったら車で来て」
 「了解」
 それだけのことだったので、これからどうするか、皆目予測もしてなかった。ノッピは、約束したあと、計画を練ったらしい。今日午前中で診療を終え、午後院内の回診を済ませて、夕方早めに帰って来ていた。ノッピの計画は周吾を驚かせた。
 二日間のエスケープ先がすんなり決まって、
 「アオ、私ね、祐太郎たちとばか騒ぎやっていたでしょう。あの時から、アオとはこうなりそうだって、気がしていたのよ。仏様の前に、アオと一緒に立っている予感がしたのよ。こんなに趣味が合うなんて。とっても嬉しいけど、怖いわ」
 「そんなに、怖がることはないよ。僕は、トシちゃん趣味じゃないから」
 「そうね。でも、あの時思い切って、拉致してよかった。怖かったのよ。ほんとうは」
 「え、意外だけど、嬉しい。こっちも怖かったけど、嬉しかった。夢みたいで」
 そのあと、会えなかった間の寂しさを埋め合わせるように、ゆっくり激しく合体した。
 翌朝、周吾の車で空港まで行き、駐車場に車を預けて、大阪へ行った。大阪空港から電車を乗り継いで、降り立ったところは近鉄奈良駅。そこから歩く。向かったところは興福寺。
 「阿修羅に会いたいの」
 昨夜、ノッピの口から出たエスケープはこれだった。どこで何をするのでもない。阿修羅に会いたい。ノッピは朝早めに出れば昼には会えることを発見した。そのあとは行き帰りの便を押さえ、ホテルを決めておしまい。あとは周吾が気に入ってくれるかだったが、思いかけず大賛成で、大喜びした。
 冬の寒さはあるものの、駅から寺まで歩く間の時間で、電車の中にいた異常な熱が冷めて心地いいくらいになった。
 阿修羅像の前に立った時、周吾は硬直した。阿修羅像に体を射抜かれているように、周吾は動けなかった。それほど大きい仏像でもないのに、凄まじいオーラを感じる。
 阿修羅は三面六臂の姿で帝釈天相手に常に戦っている。が、常に負ける。まさに負ける、その修羅場に見えるのが、仏の教えに心を開かれた瞬間であるこの像である。戦いに負けまいとして、荒々しく立ち振る舞っている最中に、改心せんとしている。表情が怒りから、驚き、悲しさ、寂しさ、優しささえも、垣間見られるような、複雑な表情をして美しい。姿も戦闘中というより、柔和に抵抗を収めようとしているのか。自らの心を静めようとしているのか。
 立ち尽くしたまま動けない時間が過ぎていく。
 周吾は苦悩をさらけ出して、見透かされているように感じた。自分も阿修羅だ。日常の潜在化された苦悩が沸々として湧き起こる。
 しばらくして、三面の左、右をみて、また正面に向き直る。ノッピは手を合わせている。仏像の語りかけに聞き入るように穏やかな顔をしている。やがてノッピも、阿修羅像から眼を離し、そばを離れた。何も言わず、さきに進む。周吾は、自分の中の苦悩を悟られまいとしていたような、何を考えていたのか。空虚な時間のなか、歩いた。どこをどう見たのか。興福寺を出てしばらく経つまでわからなかった。
 博物館から東大寺大仏殿へ、春日大社と、ゆっくり散策した。穏やかな冬の午後だ。
 空は青い色をしていた。雲は薄く小さく、くっついたり離れたり。何もないところに雲ができる。ある雲がいつの間にか消えていく。
 「阿修羅像はね。仏の教えに心を開かれて、戦っている自分を解放している瞬間らしいのだけど、わたしも最近、戦いに開放されて、阿修羅から卒業できるかな、って思っているのよ。それで、阿修羅に会いたかった」
 「戦いって、なんの戦いですか」
 「自分との戦いね。私離婚したわ。もう岩下信枝じゃなくて、橘信枝。病院では今まで通りだけど、籍の上ではもう自由よ」
 「親権は?」
 「向う。わかっているけど、区切りがつけられなくて。それがやっと、開放されたのかな。阿修羅の意見も、よし、だった」
 「そうですか。橘が旧姓ですか」
 「そう。古臭いでしょ。岩下のままじゃ、上が見えそうにないでしょ。どっちか、となると、まだ橘は上を見てられる」
 「いえ、さっきの阿修羅像です。あれは光明皇后が、自分の母の、橘三千代の一周忌に送ったものです」
 「あら、そうなの、私仏様しか興味なかったから、橘なの」
 「はい、由緒ある姓で、阿修羅をみて、それを聞くなんて、たまたまでしょうか」
 「たまたまでしょ。うちのご先祖だったとしても、もう古過ぎよね。アオは良く知っているわね」
 「文系なんで、その辺のことは少し。それに光明皇后は皇室以外で最初に皇后になった人です。権力を持っていたと思います。娘の安倍内親王は孝謙天皇になり、一旦退いて称徳天皇になる人で、有名な道鏡の愛人だった人です。光明皇后の夫は聖武天皇で、二人とも藤原不比等の子と孫です」
 「そう」
 「聖武天皇といえば大仏です。娘の称徳天皇は、百万塔陀羅尼です。庶民の労苦を駆使してまで、疫病だとか、内戦だとから、社会不安を取除こうとしたのでしょう。そんな時代に、あれほど芸術性の高い阿修羅像が生まれているのですから、当時の人々の出すエネルギーの凄さを感じますね」
 「この辺一体がその当時の、檜舞台だったわけね」
 「光明皇后にしても、聖武天皇にしても、数多いライバルを倒して皇位に着いたわけで、その怨霊も怖かったと思います。興福寺は藤原家のお寺で、同じ頃、あの恵美押勝という変な名をもらって喜んで、女心をないがしろにしたために滅んだ、藤原仲麻呂の乱も、あの阿修羅は見ていたと思います」
 「でもなぜ、阿修羅だったのかしら。娘が母親の供養に送るには、もっとかわいいとか、やさしいとか、いまならそんな感覚でしょ」
 「確かにおかしいですよ。でも、聖武天皇、光明皇后は仏教の普及に異常に執念をかけています。大仏がそもそもとんでもない事業です。莫大な費用に労力がいる。そこまでやっても、仏教の布教を徹底したかったのです。だから、母親には、阿修羅だって仏の教えに、心を開いたよ。だから安心して眠って、といいたかった、のじゃないですか。混乱した時代にあっては、あの阿修羅像の顔立ちが、最も母親の供養にふわさしいものだったと思います」
 「アオ、凄い。明解だわ。納得だわ」
 阿修羅はノッピには一つ区切りをつけ、周吾は問題を顕在化させた。二人はその後、法隆寺をみて、近鉄奈良駅まで戻り、ホテルに入った。冬の日はすっかり落ち、寒さが厳しくなっていた。
 仏の鎮座する町に来て、ノッピはエスケープを楽しんでいる。周吾は時折少女みたいに表情を覗かせ、好奇心を発揮し、明るく笑うノッピがたまらなく愛しくて、顕在化した悩みを沈ませたり浮かばせたりしながらも、この幸福感が貴重な時間であるように思えた。ホテルで食事をする時も、周吾はノッピをずっと見続けた。
 「アオ、どうしたの。何かへん?」
 「ノッピ。とってもきれいだよ。今日は本当に、いつも以上にかわいい」
 「あら。うれしいわ。幸せな時間にいることが、アオにそう見せるのよ。エスケープしてよかった」
 翌日朝、二人は京都へ行った。広隆寺の半跏思惟像を見て、仁和寺、竜安寺と、衣かけの道を歩き、金閣寺に行った。寺社仏閣数多くあっても、金閣ほど煌びやかで美しく屹立したものはない。周吾は、ノッピはまさに金閣だと思った。ノッピを独占したい。永久に専有したい。
 「なぜ金閣寺なの」
 「あれはノッピだ。他と全くちがう。圧倒して美しい。仏様を見るなら、金閣寺も見たい。ノッピと同じように抜きん出た美の象徴をみたい」
 「アオ、面白い。行こう」 
 エスケープの計画の中で、最後はここと決めた理由だった。ひんやりした空気の中に、水面に反映した金閣の揺れが、屹立した不動の金閣を押し支えているようで、どちらも美しかった。本物を離してはいけない。本物の美が反映した水面にも美をもたらしている。ノッピを離したくない。今、全ての美の象徴が、愛の終極が、そこにあった。メリークリスマス。

 

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