新六郷物語 第九章 六

   正月が過ぎると、調整役が続々悲しい情報を持って来た。娘が浚われた。子供が連れて行かれた。浚っていく者はやはり田原紹忍の手下であると言う。田原紹忍は自分の領地の娘や子供も浚って行くと言う。なんとも左衛門督大友宗麟にとって便利な男であることか。
   二月になると、影平久蔵が馬で駆け込んだ。純平、佐和、隆村、園を前にして話したことは、奴隷狩のことであった。正月に安岐の実家に年始の挨拶に行った。隆村が話していたように、歓迎はされなかったが、母は元気でいた。兄嫁も甥や姪たちも元気でいた。甥の安岐芳蔵は亡き父の跡をついで安岐家を相続し、形だけだが田原本家に使える身になっていた。その芳蔵が昨日武蔵の家にやって来た。同じ安岐に住む妻の兄の子で、八歳の長女と六歳の長男が武蔵田原家の者に浚われたと言う。武蔵の重臣である久蔵に何とか助けてくれと頼むために駆けつけたのである。久蔵としては、藤本信広に説明したことしか言えなかった。力が及ばず申し訳ない。ただ謝った。すると芳蔵は、父を殺して、その上甥や姪まで浚う。それほどまでにしても武蔵田原のお家が大事か。人の道に外れ、六郷の害にしかならない。大友に就いていても、大事な人を犠牲にしなければ生きていないなら、大友家など無くなった方がましではないか。大友の最大の重臣である田原紹忍になぜ人の道に背くことをさせるのか。それを戒められないのか。命令に忠実な犬と同じではないか。散々非難され、私も憤慨してしまった。それで止む無く、芳蔵に内密にと念を押して、六郷の絆衆が救出のために努力検討をしている。隆村もそれに加わっている。相手が宗麟公なのだ。慎重にしかし果敢に実行せねばならん。もう少し待ってくれ、そう言ってしまった。これが洩れると救出に支障をきたす恐れがあるから、身内でさえ黙っているようにと釘をさした。それしかなかった。迷惑をかけてはならんと思いお詫びに参上した。
  純平、信助、隆村、豊治、六郷の調整役。それに行雲、玄信、安岐武信を入れて、沖の浜からの人質収奪作戦が立てられた。六郷調整役は絆衆を総動員して、郷内の調査を徹底した。
  沖の浜の収容所を立てた志手隆幸の家人より、大工の名を調べ、その建設に関わった永興の大工が判明した。安岐武信が出向いて、事情を説明し収容所の見取図を取った。沖の浜の中に居住する人は、収容所の警備を除けば、船の荷揚げ屋と人足であることが判明した。収容所の監視を担当する者は、大友義統配下の稙田権蔵と配下の二十名ほどである。人質と言っても娘、子供である。数多くの監視は不要である。田原紹忍は人攫いするや、その都度船で沖の浜に送り届けた。稙田権蔵は収容所の娘子供がどこになんのために送られるのか知らない。それも誰の命令でここに送られて来ているのかも知らない。いま大友家は宗麟の命と義統の命がそれぞれ勝手に出て混乱している。特に義統には施政能力は全く無い。側近から命令がでるが、これがまた一貫性がない。田原本家が謀反を起こした時、義統の指示には従えないとする配下が数多くいた。義統廃嫡が申し立てられたが、これはならず。役に立たない側近四名を更迭し、左衛門督大友宗麟が指揮を取ることで、参戦すると言う事態が起きていた。まだ宗麟が引退したとは言え、臼杵から命令を出す。府内は義統の側近がこれも命令を出す。こういう状態にあった。
  六坊純平は調整役を通じて、それぞれの郷で誰々が人浚いにあったかを調べた。来縄二十名、田染十五名、伊美二十名、国東二十名、武蔵十名、安岐十五名で、全部で百名であることがわかった。百名と言うことは、安岐武信が宗麟公に命じられた数である。その後変わりがなければ、奴隷の数は揃い、今後人攫いが起きる恐れはないことになる。名前も歳も調べあげた。まだ三月半ばである。田原紹忍は早々と仕事を終えていた。これで救出の策を立てるしかない。なんとしても救出しなければならない。

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