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魏志倭人伝の国々 振り返り

佐賀県の吉野ヶ里遺跡の未調査区域、通称「謎のエリア」内で、弥生時代の石棺墓が見付かったというニュースを契機に書き始めた一連の記事でしたが、気付けば、自分が思っていたより随分と長いものになってしまいました。

まだ note に適した表現の仕方が掴めてないと言うか、読み返して見ると、何とも纏まりの無い文章に成ってしまいました。

元より、まずはやってみてから、後で方向修正するつもりだったので、予期していた通りと言えばそれまでですが、長文の記事を分割して投稿する場合は、全体の構成くらいは、予め決めて置くべきだったというのが実感です。

それと、歴史関係の記事の場合、事実関係の確認とか、他の史料からの引用とかが必須なので、それに随分と時間を取られましたし、新しい事実を知って、記事の方向性を変えざるを得なくなったりして、苦労しました。

ヘタな人の習字みたいに、全体のバランスを考えずに書き出して余白が足りなくなったり、サイズや中心線が一字一字違ったりするような感じ……(習字ヘタです😅)。

更新を途絶えさせないと言う意味からも、徒然なるままに書く随筆や日記的なものの方が、note には向いているような気がいたしますが、とは言え、一度始めた事なので、何とか書き終えてほっとしています。


と言う訳で(どういう訳だ?)、当記事では、宿題と成っていた、「翰苑」オリジナルの記述の部分や、「翰苑」に残る「広志」の逸文について紹介したいと思います。

「翰苑」オリジナルの記述と言うのは、実は非常に短くて、むしろその注釈の為に後世の人が付け足した、「魏略」や「広志」の逸文とかの方が長く、かつ貴重なものと思われていたりするようです。

書いた人は唐の時代の張楚金という人で、太宰府天満宮に伝わる巻三十の写本には、雍公叡という人による注釈が加えられています。

「広志」の逸文が含まれている部分だと、次のような感じに成ります(参照:https://dl.ndl.go.jp/pid/967402/1/59

)。

邪届伊都傍連斯馬廣志曰倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巳百支國次伊邪國安倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革為衣蓋伊耶國也

「翰苑」 巻三十

上記の文で、「翰苑」オリジナルの記述は、太字にした部分だけで、残りは全て注釈者による「広志」からの引用です。オリジナルの部分を読み下すと、「邪は伊都に届き、傍ら斯馬に連なる」と成り、"" という、伊都国斯馬国の両方に隣接した国について記述されているようだと判ります。

その注釈として引用された「広志」の文では、邪馬嘉國(*)と伊都國斯馬國の位置関係が記載されていますので、注釈を加えた雍公叡という人物は、"邪" を邪馬台国のことと解釈して補足説明しているのだと思われます。
(*:邪馬嘉國は、写本通りに受け止めれば、"やまか国" になってしまいますので、邪馬臺の写し間違いとするのが通説ですが、熊本の山鹿(やまが)を指すという考え方も在り得るようです)

ですが、以前も述べたように、伊都国斯馬国の両方に隣接しているのは、奴国の筈なのです。古代史ファンの中には、色々な解析を経て、古の奴国こそが邪馬台国の正体なのだ、と言う人が結構多いのですが、太宰府が奴国の一部だったとしたら、自分も同じ意見と言うことに成ります。

あと面白いのは、「広志」の文が、「倭國東南陸行五百里到伊都國」と成っていることで、「魏志」に従えば、「倭国」ではなく「末盧國」であるべき所です。これを、倭人の国の中でも、一番最初に上陸する末盧國を基準に書いた文だと解釈すれば、「又南至邪馬嘉國」という文も、末盧国の南に邪馬台国があるという意味に成るでしょう(又、という接続詞が使われていることに注意すべきで、東南に行けば伊都国、南に行けば邪馬台国にたどり着くという意味に解釈すべきです)。

北部九州に余り土地勘の無い方は、本当に邪馬台国が末盧国の南に在るなら、何故直接そこを目指さないのかと疑問に思うかも知れません。東の伊都国奴国を目指すのは、その延長に在る畿内を目指しているからだと考える訳です。

ですが、実際の地形では、末盧国の辺りから南を目指すためには、脊振(せふり)山地というかなり険しい山地を越えなければ成りません。「悪人」という映画で殺人事件の現場に成っていた脊振山地の三瀬峠は、福岡市と佐賀市を結ぶ最短ルート上に在りますが、昔から心霊スポットとされているような場所で、標高六百メートル近い山中に在ります。ちなみに、大和朝廷の追跡を逃れて川上梟師が逃げ込んだという川上狭も、実は脊振山地内に在ります。

この脊振山地を迂回して、福岡平野から佐賀平野へ抜けようとする際に必ず通るのが、太宰府のあった筑紫野の辺りな訳です。脊振山地の反対側には、三郡山地という、これ又結構険しい山地が在ります。割りと最近に、「犬鳴村」というホラー映画が流行りましたけど、あの映画の舞台である犬鳴峠が存在するのもこの山系中で、今でも夜中に訪れるのは少し躊躇われるような場所です。太宰府の辺りは、脊振山地と三郡山地に挟まれた、細い通路のように成っており、交通の要所な訳です。

次に興味深いのは、他の文献には無い、伊邪国伊邪分国という二つの国が出て来ることです。「倭西南海行一日有伊邪分國」とあるので、海を渡って一日行った所に、伊邪国の分国があるという意味に解釈出来るかと思います。尤も、"分" の字が "久" の字の写し間違い(或いは崩れた字?)とする説も有って、その場合の "伊邪久" とは、以前ミミラクの和歌についての記事で紹介した、宮古島のことだとする説があります。

でも、例えば鹿児島からだと、現代の大型フェリーでも、宮古島までは二日くらいはかかるかと思いますので、"海行一日" では少し無理が有るように思います。むしろ、伊邪を "いじゃ" と読んで、稲佐(いなさ)山のある長崎市や、東隣の諫早(いさはや)市、そして伊佐ノ浦川の流れる西隣の西海市の辺りに割り当てる説が妥当なのではないかというのが自分の意見です。その場合、伊邪分国とは、五島列島のことに成ります。そうすると、巳百支の国というのは、末盧國の西の辺り、複雑なリアス式海岸の地形が、まさに "百支" という感じのする辺りを指すとも考えられます(長崎には九十九島なんて名所も有りましたね。この記事のトップで使わせて頂いた画像はそれです)。

いずれの場合も、"倭西南海行" とある以上、畿内の話とするよりは、九州島の話とした方が自然である気がします("倭" を "倭国" と同様、末盧国を指すものと考えた場合も、倭人の国全体を指すと考えた場合でも同じです)。

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