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渋沢栄一と須賀線

 「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一。新一万円札の肖像に選ばれ、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公となるなど、2021年は渋沢イヤーとなった。かく言うワタシにとっても、長年過ごした故郷・王子に縁のある名士。このブームにはまんまと乗せられている。

 その渋沢が開業・経営に関わった鉄道も多く、メディアなどではJR東日本(日本鉄道)や東急といった大手企業の名前が挙がる。一方、そういう文脈で語られることは少ないが、今はなき我が母校・桜田小学校のすぐ脇を通る道路にかつて存在した、渋沢ゆかりの小さな鉄道路線がある。

王子の小さな貨物線・国鉄須賀線

 その名は国鉄須賀線。現在は「北とぴあ」の建つ王子駅貨物ヤードから東へぐるりと曲がり、「天狗の鼻」とも称される隅田川に囲まれた豊島五丁目に至る約2.5kmの貨物線だ。
 都電と国鉄の平面交差、国鉄唯一の蓄電器式電気機関車(AB10:先日ノスタルジック鉄道コレクション第1弾で製品化されたEB10の前身)の使用路線といったユニークなトピックがあり、鉄道趣味界にはご存じの方も少なくないだろう。

 現在はUR豊島五丁目団地(タイトル画像:右側の岸の一番奥)の下に眠る終点・須賀駅。この団地の敷地にはかつて大日本人造肥料(現・日産化学)の王子工場があり、須賀線はその専用線として1926(大正15)年に誕生。沿線にある陸軍施設の弾薬輸送などを請け負うのに伴い、翌1927(昭和2)年に国有化されている。

 王子工場がその地に設けられたのは1896(明治29)年。それまで民間向けを含む洋紙生産用の薬品製造を担っていた官製工場が陸軍へ移管。その際、民間向けの供給を維持するために苛性ソーダ・晒粉工場が民間資本の王子製造所へ払い下げられ、関東酸曹株式会社へと改組された同年から1898(明治31)年にかけて当地へ移転。以後、硫酸など様々な化学製品を世に送り出すこととなる。

渋沢の化学肥料普及への情熱が原点

 後にその関東酸曹を合併することとなる大日本人造肥料は、先立つ1887(明治20)年、渋沢栄一・高峰譲吉らにより深川釜屋堀(現・江東区大島)で本邦初の化学肥料製造会社・東京人造肥料会社として創業。
 当初は化学肥料が日本の農家に受け入れられず普及に困難を極めた上に、高峰博士の離脱、工場火災が重なり会社解散も検討されるほどの苦境に立たされる。しかしながら、渋沢の事業継続に対する熱意は衰えず、日清戦争による需要の急増をきっかけに事業は発展への軌道に乗る。
 日本の重化学工業は日露戦争、第一次世界大戦と、戦争に伴う好景気とその反動による過当競争を繰り返す。その中で大日本人造肥料と名を変えた同社もその例外ではなく、1923(大正12)には関東酸曹・日本化学肥料との3社合併に至る。当時の渋沢はすでに高齢を理由に経営の第一線を退いていたが、合併各社間の利害関係の調停役として尽力している。

 以上が、須賀線のルーツとなった王子工場が渋沢ゆかりの地となった経緯である。先述の通り、3年後には王子駅への専用線が開通。その開業式にも渋沢自らが足を運んで参席したと伝えられている。隅田川の水運で多くの原材料を運び込み、鉄道で出荷製品を送り出すという同工場のいわば動脈の一つ。いかに須賀線が重視されていたかがわかるエピソードと言えよう。

2006年に撮影した北王子線の終着駅・北王子駅。途中まで須賀線と線路を共有していた。


 2014年まで使用され、途中まで須賀線と線路を共有していた北王子線(王子~北王子)のルーツは旧・王子製紙で、元をたどれば渋沢が洋紙の国産化を目指して1973(明治6)年に誕生させた抄紙会社。こちらの面でも縁があったのだ。
 須賀線も北王子線も今は廃止されて「渋沢栄一ゆかり」をアピールするメリットのある主体が存在しない。もし、北王子線があと6年生き残っていたら、ワタシの故郷も「渋沢フィーバー」に乗って、少し賑やかなことになっていたかもしれないなぁ、と想像する次第なのである。


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