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遠浅の人間の反抗

こんな記事が先日出ていた。

僕自身は「倍速視聴」をしない。けれど、する人がいるだろうことは想像できる。僕の積読、マイリストの身長といったら、見る度に憂鬱になるほどなのだ。これらを「消化しなきゃいけない」という気持ちになり、余暇で「味わう」ための贅沢な料理がファストフードのように感じられる。一度感じると、料理の味もそこから得られるエネルギーも随分小さくなるように思えて仕方がない。

それでも「損をしたくない」という人間の習性により、義務的な気分になりながら作品を見つめる。選択肢が無い貧困ではなく、選択肢がありすぎるという飽食の状態にある。毎月1,000円を握りしめて古本屋から自分だけの宝石を探す喜びは消え、月額1,000円で古本屋を所有してしまい「こんなにあるのか」という苦悩に取って代わられた。借金を返すような消費が始まる。

悲観的に語ってしまったが、先に書いた古本屋やTSUTAYAは僕に「安価で大量の作品へアクセスする権利」を与えてくれた。僕は大いにその恩恵に預かり、たくさんの名作と駄作を貪り食い血肉にしたのである。現在はアクセスできる作品がより安価で膨大になりアクセスがしやすくなったという違いしかない。そして今後もこの情報の放流は続くだろう。新たなメディア形式や作品も生まれ続ける。テクノロジーはより作品を作りやすく、流通しやすく、新しいアイデアを供給する。

僕は「狭く深い」知識ではなく、「広く浅い」知識を持つほうだと思っている。いわば雑学のようなものばかり知っている。名前だけは聞いたことあるみたいなものがたくさんある。長いこと遠浅の人間なのだ。
しかし、最近一分野を深く勉強し、興味のあることはネット記事から一般書、論文まで掘り下げるようになった。一度やるとそれが面白く、これまで表層しか知らなかったものをじっくりと探ることで改めて滋味深く感じられたり、新たな関係を発見したりする。見えている地層だけの知識が深層において(あるいはより高次の系において)つながっていたり、メタ的に適用できたりするのだ。僕が遠浅の人間であったからこそ、至るところに続く海の深遠さを、沖へ連れ去るような波に一挙に知らされることになったのだろう。同じ年齢でも昔の知識人なんかはもっと深さに到達するのが早かったのかなと思う。一方で広さは現在ほど無かったのではないか。ひとつの深い研究から様々な事象に手を広げていくことを考えると、道こそ違えど僕にいま見えている景色は案外彼らと似ているのかもしれない。

何かを深く知ることも、広く知ることも同様に大事だ。真まで追究する執拗さと辿り着くための手段は価値があり、調和への広い共感や俯瞰による認知の獲得も価値がある。しかし、時代は「広く浅く」「ジェネラリスト」的な素養が強化されるように流れているので、意識的に「狭く深く」「スペシャリスト」になるという反抗が価値を増すだろう。まあいま自分がそうしてるから追認したいだけというのもある。何にせよここまで書いたような感覚を持っているので、理性でコントロールできるところはして、意志を持って行動していきたい。取り急ぎは僕の課題図書と成り果てた『国家』(プラトン)を毎日一区切りごと読んでいくつもり。この海は果てしなく地道。

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