僕が死んだら遺骨をNFTにしてくれ

人間には206個の骨があるが、火葬により残るのはせいぜい30個くらいだろうか。その1つ1つを写真に撮り、デジタルデータとしてネットにアップする。メタデータには納骨されている墓の住所、それぞれの遺骨画像のURL、それぞれについて一篇の詩が記載されている。
詩は僕の生命であり、静止した僕だ。詩は骨よりも力強く、僕のことを語るだろう。人は詩と骨のどちらが本体だったのかと思案するうちに、データ上では2つは切り離されていないことに気づくだろう。心臓と脳が止まるまで不可分だったのと同じように、情報として生きる僕もまた不可分なのだ。
パブリックなブロックチェーン上にデプロイされた僕の情報は、証明こそされ、改ざんされることはない。スマートコントラクトとDAOによってなめらかに分有され、広大なネットの海に拡散する。太平洋に遺灰を撒くことと何も変わらない。膨大な情報の渦に巻き込まれていくなかで、僕はもう発見されることはないだろうが、確かに存在するのだ。実際に生きていた時より永く、僕は生き続けることになる。
どこかの市場で取引されるとしたら、僕の生命は何ETHだろうか。うんと安いだろうし、うんと高くあってもいい。価値がついてしまうことを永遠に誰かに憐れんでほしい。国際航空運送における損害賠償について定めたモントリオール条約では、旅客の死亡時に無過失責任で約2,000万円が請求されうる。これはすでに"命には値段がつけられている"と言えるだろうか。僕の生命は財を無限に増やしたいという欲望のために利用されるかもしれない。次々と売られ、買われ、価格が変化するかもしれない。僕の親は(生きているなら)自分の息子に値段がつき、売り買いされることを許せるだろうか。僕は"財という手段"の獲得自体を目的にして可能な限り増やしてやろうという強欲さ、生命すら取引する傲慢さを、自らの生命をもって強く批判する。その行動として、芸術的な文脈としてこの詩を残す。

jitsuzon No.001 右鎖骨『火葬と仮想、市場と詩情』 より

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