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死刑囚・八木茂を愛し続け獄中で逝った“第三の愛人”【本庄保険金殺人事件】

愛した男に翻弄され、愛ゆえに、事件に加担してしてしまった一人の女。天が下したその罰は、この世の判決よりも重いものだった。本庄保険金殺人事件の受刑者のひとりMは、2009年6月、ガンにより永眠した。閉ざされた医療刑務所のベッドで、彼女は最期になにを想っただろうか。
週刊誌記者として事件一筋40年のベテラン記者による本庄保険金殺人事件ルポ第2弾。

莫大な保険金のほとんどは八木に渡っていた

 2009年6月16日午前9時、職員の敬礼に見送られ、一台の霊柩車が東京八王子医療刑務所を出た。死して娑婆に戻った女囚はM、保険金殺人事件の受刑者だった。3人の男に総額15億円にもおよぶ多額の尾献金を掛け2人が不審死した所謂、埼玉・本庄保険金殺人事件である。

 1999年5月、1億7千万円の保険金を掛けられた元パチンコ店員(当時61)が急死。埼玉県警は捜査を開始した。その4年前には元工員(当時45)の遺体が利根川で発見されていた。元工員には約3億円の保険金が掛けられており、その受取人は付近で金融業を営む八木茂という男の、フィリピン人の愛人だった。しかし、保険金のほとんどは八木さんに渡っていた。

 99年7月に保険金殺人疑惑と報道されるや、八木さんは連日マスコミ相手に「有料記者会見」を開いた。翌年3月25日の逮捕まで203回の記者会見を開いて約1500万円を荒稼ぎした。会見中にパブの店内をキックボードで走り回ったり、新聞記者の頬にビンタを食らわすなどやりたい放題。挙げ句には刺青まで披露するサービス振りだったが、2000年3月、ついに八木さんは逮捕された。八木さんは一貫して無罪を主張したが、08年7月、死刑が確定している。
 この犯行には八木さんの3人の愛人が関わり、大量の酒や薬を飲ませる役割を担っていた。3人の愛人は一審のさいたま地裁で犯行を認め、下獄した。 

「もうわたしは八木に縋っていくしか生きていけないと…」

 3人の愛人のなかで唯一八木さんの子供を産んだのがMだった。八木さんの実子のAは現在、Mの実母Bさん(68・取材当時)に育てられている。
「Mがこんな惨めな人生しか送れなかったのは、わたしに責任があるのかも知れない」
 8年振りに自宅に戻ったMの遺骨を前に、Bさんは八木さんとの出会いを語った。
「Mが女子校を卒業して本庄の量販店で働いていたころ、わたしは近所で小料理屋を開いていた。そこに『店を開きたいのでママ経営の仕方を教えてください』と挨拶に来たのが八木との初対面だった。開店の招待状が来たのでMを連れて店に行ったのが、コトの始まりなんだよ」
 いつの間にかMは量販店を辞め、八木さんのパブで働いていたという。
「うちから見えるところに八木はアパートを借り、そこでMと暮らし始めたんだ。当時、八木は家庭を持っていたし、あいつを殺してやりたいと何度思ったか知れない。Mは子供の時からデブで、もてない女の典型だったんだよ。まったくのウブだった」

 2人の出会いを、2001年10月29日さいたま地裁で開かれた公判で、Mは次のように答えている。
「わたしが19歳。昭和56年1月にホテルで関係を持ちました。2日間わたしの夢を見たと八木は言いました。お花畑で2人で座っている夢で、その状況を描いた絵をわたしの誕生日にプレゼントしてくれました」
 ほどなくMは最初の妊娠をする。
「わたしは産みたいと言ったのですが堕ろせと言われ、押し切られてしまいました。その後、1年に2、3回中絶を繰り返しました」
ーーなぜ避妊をしなかったのか。
「それは……。わかりません。これ以上中絶を繰り返したら二度と子供の産めない体になると医者に言われました。それ以来、もうわたしは八木に縋っていくしか生きていけないと思うようになりました」
 どうしても八木さんの子供が欲しかったMは大きな賭けに出た。
「Aはわたしが33歳で妊娠した子供です。この妊娠が最後のチャンスだと思い子供が堕ろせなくなる妊娠5ヶ月まで黙っていました。母子手帳を八木に見つかったとき堕ろせの一言でしたが、わたしは絶対産む決心をしました」
 公判で、八木さん以外の男性はとの問いにMは語気を強め「ありません」ときっぱりと答えた。

「Mが八木と喧嘩をして、足をパンパンに腫らして帰ってきたことがあった。わたしは6畳のプレハブに子供用の便器を突っ込んで、外から釘を打ち、Mを監禁したこともあった。わたしは八木に椅子をぶつけて仕返しをしたんだ。男は八木だけじゃないと言っても離れられなかったんだよ」
 Bさんはそう言うと深くため息をついた。
 そんな思いまでしても離れられなかった男と女。他人には計り知れない深い淵があったのかもしれない。

「ここから出られるなら、全部嘘だったと証言してもいい」

「もう少しで八木の命が消えるから、もしわたしのガンが転移していたら(八木との)婚姻届を出させてください、とMは手紙に書いてきた。情けなくなるぐらい八木に惚れていたんだよ」
 08年12月、服役中に発見されたMの乳ガンが骨に転移、岐阜刑務所から八王子医療刑務所に移送された。1人では歩くことも出来ないほどガンは進行していたという。面会したBに、Mはつぶやいた。
「ここから今すぐに出られるものなら、今までのことは全部嘘だったと証言してもいい。でも、それは出来ないよね」
「馬鹿なことを考えるんじゃない。また事件をぶり返して、一番惨めになるのはAなんだよ」
 馬鹿なこととは、再審に賭ける八木さんに有利になる証言。「殺人はなかった」と。

 3人の愛人の中で最も事件に関与し無期懲役で服役している武まゆみ受刑者は、再審について
「わたしたちはあまりにも悪いことをしたし、人として許されないほどの罪を犯してきたのですから、命を代償にしてもしかたのないことなのかもしれないと思います。だからこそ、今のままの八木ではなく、最後には人の心を取り戻してから刑に服してほしい」
 と心境を語っている。また、すでに出所したフィリピン人愛人も
「八木さんは自分だけがたすかればいいという人だから本当にわるい人間ですネ。その人とかかわってから何ひとついいことはありませんでした。いつもだまされただけ。だから絶対その人にもうまけないから」
 かつての愛人の心は、もう遠くに離れてしまったようだ。最後まで愛し続けたM受刑者が亡くなった今、八木さんは寄る辺を失ってしまった。たった1人の男に翻弄された女の人生。この男の魅力はどこにあったのだろうか。

「どう、キリストに似てきただろう」
 東京拘置所の面会室で、八木さんは顎に蓄えた髭をさすりながらニッと笑った。この何ともいえない愛嬌。Bさんでさえ、かつて八木さんを死なせたくないと語っていたのだ。
「Mが帰ってきたら八木を許してやろうと思っていたんだよ。なんと言ったってAの父親なのだから。でも、Mが死んだ以上もう絶対に許さない」
 亡骸で帰ってきた最愛の娘を前に、Bさんは高ぶる感情をあらわにした。そして静かに言った。
「Aのためにも、あと6年は死ねない」

 Mは八王子医療刑務所からほど近い市民斎場で荼毘に付された。母親と、事件発覚から9年振りに再会した妹が、死出の旅を見守った。
「お母さん、ありがとう」
 Aは溢れる涙を抑えながら、産んでくれたことへの感謝を口にした。この子に幸あることを祈るしかない。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。

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