「ピンク映画」と「憂国の士」の不思議な関係…伝説の桃色女優・桜マミの「気まぐれ裸力」
主に独立系のピンク映画に数多く主演した桜マミはまた、「花電車女優」の異名を持つ。すなわちアソコで瞬間芸をやるわけだ。一時はこのキャッチフレーズで人気を博す。と同時に70年代の混沌とした政治の時代に「新右翼」の青年と出会い、行動をともにする。ピンクと憂国。この両極端を行き来できるところに桜マミの生命力があるのだろう。
忘れ去られた映画人や作品を追う傑作ルポ『桃色じかけのフィルム ――失われた映画を探せ』(ちくま文庫)が絶賛発売中の鈴木義昭氏による貴重な記事を公開!
イラストで生計を立てるつもりが、いつのまにかピンク女優になっていた
民族派の野村秋介が朝日新聞本社に乗り込み「自決」をした事件を憶えているだろうか。あの時、最初の報道から数時間、事件の詳細が掴めぬまま「メンバーに女性が一人いるようだ」との誤報が流れた。その「女性」というのが、実は桜マミである。なぜ、桃色映画の女優だった「桜マミ」の名前が事件で取り沙汰されたのか。それには理由があった……。
桜マミは、ピンク映画の世界では六〇年代後半からの黄金期トップスターの一人である。時は高度経済成長、世はまさに昭和元禄。街にはフーテンやゲバ学生が溢れ、先頃亡くなった藤圭子の「夢は夜ひらく」が流れていた。アングラ文化が花ひらき、斜陽いっぽうの日本映画ではピンク映画館だけが一杯だった。彼女は、そんな時代に「女優」になった。
「地元の甲府のハンバーガー屋さんでバイトをしてた時に、私の描いたポスターに『上手いね』って声をかけてくれた人がいたの。レオプロっていう会社の社長で、『ウチで絵を描かないか』って言われ、東京に出て来たの。アニメのトレースとか彩色をしていたのよ。寝る暇もないくらい忙しくて。高校は行かなかったしね、絵を描きたいっていう一心で上京した。だから、夢破れたっていうか(笑)」
レオプロは、劇場アニメ『浮世絵千一夜○秘劇画』の製作やテレビアニメ『オバケのQ太郎』の下請け等をやる一方で、人知れずピンク映画も製作するプロダクションだった。
ある日、会社の作るピンク映画に女優が足りないという。「合気道のできる娘役で出てくれないか」「裸はないから」というので、数シーン出演した。女優に憧れがあった訳でもない。来る日も来る日も寝不足で働いたが、想像していた仕事とはかけ離れた環境に嫌気がさしていた頃だったから、ちょっとした興味本位だった。ところが、それがきっかけで、気がつけば「ピンク映画」で脱ぐことになっていた。「初めてのベッドシーン」について、当時の雑誌に彼女自身が答えている。
「すごく不安だったけど覚悟決めてたから、度胸はすわってた。それに仕事として割り切ったから平気だった。相手役は坂本昭さんだった」(月刊「成人映画」71年12月号)
アニメーター時代、宿舎の隣室から男女の喘ぎ声。社長の息子たちが女の子を連れ込んでは夜毎のセックスに励んでいた。初々しい美少女だった彼女は、ビックリ仰天。性の目覚めは、少女を桃色女優に変身させた。
「映画に出たのと同時に舞台にも出たの。映画館のショートコントとか盛んだった頃だから。ストリップ劇場で、お姉さんたちの踊りの合間に、男優さんと組んでお色気コントにも出たわ。女の子三、四人と男優さん一人くらいとで組んで、劇場や映画館を回るの」
初めて脱いだ映画のタイトルは、『無軌道娘・性教育肌あわせ』(71年公開・ワールド映画・佐々木元監督)。人前で裸になるのも、割り切れば簡単だった。物怖じしない、その度胸の良さは天性のもの。小柄だが筋肉質でナイスプロポーション、自由奔放な性格で忽ち人気女優になった。芸名の桜マミは、共演した九重京司が付けてくれた。『明治天皇と日露大戦争』で乃木大将の副官を演じていた老名優は、「キミには桜が似合う」と言った。
当時、「ピンク女優」を二分していたのは、日宝プロと火石プロという二つのプロダクションだった。少しでも演技のできる女優はみな日宝プロ、脱いで犯されるのだけが専門の女優はヌードモデル系の火石プロにそれぞれ属していた。日宝プロの女優は、顔はみんな整形させられるから美人揃い。対する火石プロの女優たちは胸の大きいボインばかりだが、お世辞にも美人とは言えない娘も多い。桜マミは、演技ができると見られたのだろう。デビュー後、レオプロを経て、すぐに日宝プロに所属している。キュートな新人だった。
「私のいたプロダクションの社長のIさん、所属の女優はみんな乗っちゃうから、撮影現場で女優さんどうしが喧嘩になっちゃうのよ(笑)。私は、喧嘩の止め役。大変だったよ。手が付いてなかったのは、先輩の香取環さんと私くらいじゃなかったかしら。社長は、私のこと、興味がなかったみたい(笑)。たぶんタイプじゃなかったんじゃない」
その日宝プロからは、日活ロマンポルノで人気の出る宮下順子をはじめ多くの桃色女優が生まれた。マミも、脚本をいくつも抱えてロケバスに乗り込む、売れっ子女優となる。
大手映画とは違う系列で量産されたピンク映画は、日増しにエロ度もアップ。撮影所の大部屋女優や劇団、ダンサーからの転身組が主流だった初期の時代とは様相が一変した。街でスカウトした女の子、ヌードモデルからの転向など、フレッシュな肉体派女優が求められる時代に。天真爛漫な性格が監督に親しまれ、彼女に次々に大役が回ってきた。演技に開眼、群を抜いた芝居も見せた。ストリッパー、トルコ嬢、人妻、何をやらせても体当たり。アネゴ肌で熱の入った芝居で魅了した。
「ピンク映画だから、フリーセックスがあったんじゃないかって想ってる人がいるの。そういう人は非常に多かった。事実周りには、そういうことが一杯あった。だから、東映の京都撮影所に行った時、どんだけいろんな人が誘いに来たか。ピンク女優だったら、誰でもやらせてくれると思っちゃうのね」
「フーテンというのが流行っていた時代。私の先輩や仲間には、シンナー遊びとかビニールにボンド入れて吸ってる人もいた。だけど、私の場合、そういうのをやりたいと思ったことは一度もないの」
鬼才・代々木忠が監督した幻の名作『名器の研究』
お酒は酒豪の域だが、男選びは慎重。しつけの厳しい母に育てられたせいか常識家の一面もある。人気の出た頃、桜マミにもうひとつの愛称が生まれた。当時の週刊誌が書き立てたニックネームは、「花電車女優」。
「この世界に入った頃にね、男優の吉田純ちゃんとお風呂に入るシーンがあったの。二人で早いうちから入って遊んでいたのよ。ココにお湯が入るとどうなるんだって、純ちゃんが言うの。私なんかまだ子どもで、経験ないからわかんないって言ったら、やってみろやってみろって言うのよ。やったら、コレできるじゃないかアレできるじゃないかって感じで(笑)。これは仕事になるぞって言われたの。それから花電車に入っていくの」
「花電車は、ちょっと秘密のお仕事ね。お寿司屋さんを貸切でとか、地方の温泉場とか。だって一晩で何百万ってこともあるんだから。だから、随分サインをしてあげました。上でするのより、下の方が多かったかな(笑)。字を書いたり、煙草を吸ったり。でも花電車は特別なショーだから、それ以上はないの。ストリップでもないしね」
映画でも「花電車」を演じ話題を呼んだ。共演は、直木賞作家の田中小実昌。監督は、後にビデオの帝王となる代々木忠。その『セミドキュメント 名器の研究』(75年)は、幻の名作と言える。今では観ることができないのが残念だ。本作以外でも数本を除き、桜マミ出演作品、名演の多くはフィルムが散逸し観ることが叶わない。往年のファンの瞼の裏に焼きついた伝説の作品となってしまった。
……女優として活躍を始めた頃、マミは、一群の若き男たちと出会う。男たちは、やがて「新右翼」といわれ世の中に注目され、発言し活動を深め、それぞれに頭角を現すだろう。マミが出会ったとき、彼らはまだ若き獅子の群れで、多くが二十代前半の若者だった。六〇年代の全国学園紛争や反戦運動を背景に生れた「新左翼」に対比され、七〇年代に生れた右翼の小さく静かなムーブメントは「新右翼」と名付けられた。地方への合宿研究会など勉強会の輪の中に、男たちばかりの中へ一人の女性が混じることがあった。それが、桜マミだった。野村秋介が、長い獄中生活から解放されたのちに出版した著作『獄中十八年 右翼武闘派の回想』で書いている。
「一座には、日活ポルノ女優で、桜マミ君なる女性が一人加わっていた。いかなる因縁があってそうなっているのかは定かでないが、一水会の青年の匂いに魅せられてるのか、この日活ポルノのスターは実に甲斐甲斐しいのである。もっとも美女には程遠い感じの子だったが、天性の明るさがあって、集会場の入口では地元のオニイチャンなど相手に、パンフレットの叩き売りなどに興じていた。瞳が、わずかに異国的な雰囲気を漂わせていた」
草創期の一水会の青年たちと混浴で露天風呂に入ったり、紅一点のヤンチャぶりは今でも語り草らしい。野村秋介が決起したときに一時誤報が流れたのも頷けようか。
野生派でちょっとヤンチャな清純派(?)桃色女優だったマミさんには、全盛期から多くのファンがいた。「爆弾男」といわれたアナキストの牧田吉明、テレビ大河ドラマから大島渚映画までの名優だった佐藤慶など、応援団の男どもの名は多い。その多くが、今ではあの世に旅立ったが。雲の上から、通算五軒目となる酒場のママとなったマミさんを、今も彼らは静かに見守っているに違いない。
(実話裏歴史SPECIAL Vol.23」2014年8月より)
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