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【追悼】PANTA 猛きロックスピリット<前編>頭脳警察、三里塚幻野祭、日劇事件…「規則正しい不良生活を送ってたね」

 それは、七月七日、七夕だというのに突然の「臨時ニュース」だった。ロック黎明期から、日本の音楽シーンを牽引したPANTA(パンタ)が旅立った。鮎川誠、坂本龍一など昭和ロック史の先駆者が次々に亡くなったが、パンタの死(享年73歳)で大きな時のうねりが迫って来るようだ。急な訃報があまりにも悲しい。ロック馬鹿を自称した内田裕也に大きな影響を与え、混沌と暴力の前世紀・昭和を過激なスタンスと切々としたメロディラインで駆け抜けた。パンタとトシの頭脳警察は、赤軍派シンパといわれ、その楽曲は発売禁止や放送禁止に。創成期のロックシーンがGSサウンドに収斂されても孤塁を守り、80年代にはPANTA&HALで、和製ロックの可能性を極限まで推し進めた。
 東京ローカルを生きるロッカーとして、世界史に挑戦する詩人として、パンクに拮抗し歴史の闇から飛び出した。頭脳警察の再結成。生き方としてのロック屋を貫き、動向が注目され続けた。
 さよなら、パンタ! 追悼の思いを込めて、1987年秋、ロック史の頂点にあったパンタに聞いたインタビューを再録する。拙著『風の中の男たち』(絶版)の冒頭に置かれた拙稿である。パンタの軌跡に思いをめぐらす、そのよすがとしていただければ幸いである。

撮影=坂本禎久/初出=「ザ・ナイスマガジン」1987年11月号

パンタを語らずして、日本のロック史を語ることなかれ。日本語で歌うロックバンドとして、まさに草分け的存在であり、かつ幾多の伝説を持つ「頭脳警察」──。そして、七〇年代の日本のロックの頂上を極めた「PANTA&HAL」──。 
 常にアヴァンギャルドであり続けて来た。ある人は、「マークボランの異国の双生児だった」と言った。「僕達世代の意地を代表するようなアーティストである」という全共闘エイジもいる。
 時代そのものの持つ問題意識を、ストレートかつ大胆に、しかし、パーソナルで詩的な暴力性を中心にしながら捉まえて回転していく。日本のオイルロードをテーマにした『マラッカ』(七九年)以来、久しぶりに彼は昨年の『R☆E☆D』でグローバルな視野に戦線を戻して来た感がある。アジアを歌いこんでおいて、ついに、構想十年の『クリスタル・ナハト』をぶち込んで来た。これは、一九三八年十一月八日、ナチス党員によるベルリン西部のユダヤ人商店街破壊事件が起きた夜、暴行の残虐さとは裏腹に飛び散ったショーウィンドーのガラスの破片が水晶のように美しく輝いた夜をモチーフに作られたアルバムである。その夜を皮切りにナチスドイツの六百万人にもおよぶユダヤ人虐殺は始まった。今、世界、現代史の闇にドリルするパンタに、さまざまな注目が集中しつつある。

 思い入れが強ければ強いほど悔いが残るんだよね。後少しあれば、ここああしたいこうしたいっていうのがね、それがね、今回ものすごい多かったの。特に多かったの。だからね、だからいいアルバムなんだろうというね(笑)。
 いろんないい言葉もらってるんだけど、ボクにも全然わからなかったようなことを書いてくれてね、いい評価得てるんだけど、問題は同世代感というか、そういう感覚で捉えれば受け入れてもらえたアルバムだとは思うんだけども、世代を乗り越えた時にね、中高生とか、逆にそういうことにあまりに身近にいた人たちが聞いた時に、はたしてどういう響きがあるかなあってことは知りたい。
 向こうのドイツで、「クリスタル・ナハト」と言った時に、現場にいた、今爺さん婆さんになってるだろうけど、そういう人たちにとっては口に出すのもおぞましいくらいの言葉の響きとかがあるわけじゃない。
 また日本の戦中派、南京・重慶の虐殺にからんでた人とかね、逆に全然そういうことは無縁の十六、七、八のティーンエイジャーがこのアルバムを聴いて、はたして素通りしてしまうのか、それとも完全に拒否されるのか、何らかのものを与えうるのか、その辺の感想はまだこっちに届いてないから、できうるならば、そっちの方にマーケットとか、耳に届くようにしてね、感想を聞きたいというのがあるね。
「クリスタル・ナハト」って題材は、あくまでも仮のものでしょう。極端にいえば。そこから人生観なり世界観なり、答えは出ていないかもしれないけれども、自分に対する、自分に疑問をぶつけるという形は、頭脳警察からずうーっと同じだよね。

 三里塚の幻野祭(七一年)は、最初に学生諸君から話が来たと思うんだけど、その時の理由というのがね、現地のお百姓さんたちが闘争闘争に明け暮れてて、ここ何年も祭りというものをしたことがないと、だから「祭り」をやりたいんだということで来たんだよ。
 それを、まあにべもなく断ったんだよ。その理由というのは、祭りをやるんだったら盆踊りをやれと。ロックをやるのは学生たちのマスターベーションじゃないかと断ってたんだけども、青年行動隊の諸君が出て来てすごく熱心だったんだよ。
 オレは、どっちかっていうと、イデオロギーとか自分の考えよりは情の方を優先させちゃうタイプだから(笑)。「よし、じゃあ、やろうか!」って言うんでね。
「ただし、オレたちはチャリティはやらないよ」ということで、ギャラがカボチャ六個と米一袋というね、契約書かわしたわけじゃないけど(笑)。それでOKして、二日にわたって「幻野祭」っていうのをやったってことなんだけども。
 結果的には、ゼロ次元は出て来るわクリシナは出て来るわ、武田節を踊っている盆踊りもあるわ、ありとあらゆるものがあって良かったんじゃないのかなってね。最近また、16ミリから起こしたビデオを見てね、懐かしがって笑ってたんだけどもね……。
 極端に言えば、最初は自分で詩を書いて歌えばそれが頭脳警察だったんたけれども、時がたつにつれて頭脳警察っていうイメージのために歌を書かなきゃいけなくなっちゃって、ウソも書かなきゃいけない。それがすごく負担になって来て。だから、あまり醜くなんないうちに、頭脳警察も抹消してあげようよ、お葬式をあげてやろうよということで七五年に解散しちゃったんだけどもね。

 中学の頃から、もう、バイクとか、車の道に進みたくてね。で、高校一年の時に、バイクが元で刑事事件にまきこまれてしまって、そいで退学になって。
 バイクにふれられなくなっちゃって、自分の目の前まっ白になっちゃって、そしたらそばにあったのが音楽だったんだよね。それからなしくずし的に、そっちの方へ進むようになった。高校時代は、月曜から金曜までは、とりあえず、受験勉強してた。で、土日はもう新宿で、家にも帰らず不良してたという、そんな、自分なりにけじめのついた、けじめのついた不良かな(笑)。親に公認の。
 うん、不純異性交遊から、クスリから、喧嘩から。カツアゲはやんなかったけどね、やられたことはあったけど、オレはただそばにいただけで実際に被害にあわなかったけど。
 オレはただこう、チェーンでまかれておさえつけられてて何もされなかったんだけど、オレの仲間内の一人がメッタうちにされてさ(笑)。ツイてんだよなーけっこう。
 学校は、中学、高校って海城だったんだけども、高一の時に退学になって錦城っていう、小平のね。だから、たいへんだよ、甲子園の時なんかいっばい応援する学校があるから(笑)。
 中学頃かな、友だちが持って来たギターを弾いてて。高校時代、アマチュアでなんだかんだやってて、ドラム叩きながら歌ったこともあるし、ベースずーっとやってて、頭脳警察の前の「スパルタクスブント」っていうバンドの時は、ボクがベース弾いて、トシがドラムで、キーボードがいて……。
 ギターを持ち出したのは、頭脳警察になってから、それまでは、ボーカルだったから。四人メンバーいたうち三人やめさせちゃったから、フォローつかなくなっちゃって仕方なくさ。ささいなことだよ、やめさせた理由はおぼえてないな。
 頭脳警察はすごかったよ、十七回ぐらいメンバーチェンジやってるもん。おぼえてない。「頭脳警察見た」っていうと、「何人の時?」って(笑)。誰がいたか、おぼえてない(笑)。
 で、ドラムとボーカルが残っちゃって、オレ、ギター弾くからおまえボンゴやれってさ、それで頭脳警察なっちゃったもんね。
 高校時代っていうと、夜、寝る前に詩を一篇か二篇書いて、朝起きて学校へ行く前に曲をつけてね。規則正しい生活。規則正しい不良生活を送ってたね(笑)。

 大学入るのは、どっかの大学に入るとかそういう目的じゃなくて、大学は先生に紹介された大学なんだよ。「そこ行け」って言われてね、で、そのまま行った。要するに大学に入るのは毛を伸ばすため、遊ぶため、音楽をやるため、まあ、そんなようなもの。
 将米の展望とか何もなかったね。考えてなかった、何にも。親父からは二十五まではめんどうみるけど、それ以降はめんどうみないっていうね……。
 大学行ってから、床屋行ったことないね(笑)。でも、学校行く時は目立たない格好で行こうと思って学生服着てったわけ。それが一番目立つんだよ(笑)。
 この前カミさんと話してハタとわかったんだよ、なぜオレが少林寺に好かれたのかなと思ったら学生服着ていたからなんだよ。学生服着てる奴なんていないじゃない、まず運動部以外。だから、学生服で行ったら、少林寺の奴に誘われて、こっちはうるせえなって感じで、つきまといやがってってしてたら、教室にドカドカッと十何人で来て囲まれてさ、「やい、テメエ」って憾じになっちゃった。 意味やっとわかったんだよ、そうか、あの学生服かあとかって(笑)。
 卒業は、してない。でもずいぶんいたけどね。六年ぐらいいたよな。
 まあ楽しかったけど、それなりに。暴れて……。
 親父とぶつかったりってことはなかったね。警告はされたけどね。ボクは、関学(関東学院大学)だから、(国道)16号沿いにあるわけでしょ。で、16号の戦車輸送の阻止でバリケード封鎖した時に、その戦車輸送を指揮してたのが親父なんだよ。
 親父は相模原の基地に勤めてて、ラオス担当してたんだよ。ベトナム戦争真最中の頃。指揮してたのが親父だったから……。普通だったらそこのところで「断絶」って言葉で終るんだろうけど、親父の仕事は親父の仕事、オレのやることはオレのやることって割切ってたからね。そん時に初めて、「タオルで顔隠してたな」っていう感じでCIAのこと持ち出されて警告されたけどね。それだけでしょう。
 CIAがやる気になったら、ボクはここにいないですよ(笑)。簀巻にされて東京湾に、それはCIAじゃないか、違う組織かあ(笑)。

 日劇の話? あれはね、ワイルドワンズの楽屋で話が盛り上がったんだよ。最初から何かしてやろうって気はあったんだけども。テンプ(ターズ)の大口もいたんだよ。そん中で、よし、オレはやるぞってことになって。
 三回ステージなんだよ、一日ね。一回目二回目でやると出られなくなっちゃうから、三回目でやろうと思ってね。マスターベーションね。ソーナニール二錠とハイミナール一錠かな、ラリってたんだよ。腰に来ちゃってるからね、階段降りる時もカクンなんて来ちゃってるからね。
 で、やる前にトイレなんか入ってたら、ショーケンが来て、「パンタ、ホントにやるの?」とかって、「ああ、やるよ」、当人ひっこみがつかないから、もう。そん時には楽屋には誰もいなくて、ステージの袖にスズナリになっててさ、みんなちゃんと見てたっていうんだよね(笑)。
 あれは、(平凡)パンチに出たんだよな、昔。今でいうフォーカスみたいな感じで。すごいブレてたけどね。あんまり、詳しくはおぼえてなかったけどね。ワイルドワンズの後で、ウチらの後がフォーリーブスだったんだよ。だから、もうムチャクチャだよね、ステージが。
 だから、快感に近いんじゃないかな。当時、ナベプロでしょ。天下のナベプロ王国でしょ。そこに滑りこんで……、小賢しいような、しかしな、小賢しいよ。うん、ゲリラでもなんでもないつうんだよ。でも、快感だよね。

 日劇ウエスタンカーニバル(七一年)に出演した頭脳警察のステージ上でのマスターベーション事件は、日劇の“事件記録”にも載っているという。
 成田空港建設反対闘争渦中の三里塚で、全共闘運動高揚期の京都大学西部講堂で、と数々の武勇伝をもつ頭脳警察。
 まさしく、パンタの足跡は、日本のカウンターカルチャーの流れとオーバーラップする。
 世界的視野で歌うパンタに、海外渡航経験がないというのも意外だ。『R☆E☆D』を聞いた人から頼まれて、冒険小説協会の名誉会員にもなったとか。彼の頭の中には、北京ーモスクワー香港ーワルシャワープラハーベルリンーロンドンという架空の海外ツアー計画もある!? パンタの叛逆の軌跡は、新たなページをむかえようとしている。
(一九八七年八月取材)

1991年4月刊行『風の中の男たち』鈴木義昭著・青心社より

<著者プロフィール>
鈴木義昭(すずき・よしあき)

1957年、東京都台東区生まれ。76年に「キネマ旬報事件」で竹中労と出会い、以後師事する。 ルポライター、映画史研究家として芸能・人物ルポ、日本映画史研究などで精力的に執筆活動を展開中。 『新東宝秘話 泉田洋志の世界』(青心社)『日活ロマンポルノ異聞 山口清一郎の世界』『昭和桃色映画館』(ともに社会評論社)、『夢を吐く絵師 竹中英太郞』(弦書房)、『風のアナキスト 竹中労』『若松孝二 性と暴力の革命』(ともに現代書館)、『「世界のクロサワ」をプロデュースした男 本木壮次郎』(山川出版社)『仁義なき戦いの“真実" 美能幸三 遺した言葉』(サイゾー)、『乙女たちが愛した抒情画家 蕗谷虹児』(新評論)など著書多数。