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「父親の愛が欲しかった…」死刑囚の共犯となった16歳少女A、母と娘の履歴書|熊谷男女4人拉致殺傷事件

週刊誌記者として殺人現場を東へ西へ。事件一筋40年のベテラン記者が掴んだもうひとつの事件の真相。報道の裏で見た、あの凶悪犯の素顔とは……。

小林俊之『前略、殺人者たち 週刊誌記者の取材ノート』より

元ヤクザと不良少女

 2003年8月18日午後1時過ぎ、猛暑で有名な埼玉県熊谷市も、この日の気温は25度止まりだった。
 ゲーム喫茶店主の尾形英紀(26)は、愛人の少女A(16)と少年(15)を引き連れ、少女が寝泊まりしていた熊谷市内のアパートを訪ねた。部屋の住人は、飲食店従業員の田中均さん(仮名・28)だった。
「俺の女に手を出したんだ。お前、俺の女とやろうとしただろう。ヤクザをなめてんのか」
 尾形は持ってきた包丁で田中さんをメッタ刺し、失血死させた。同じアパートに住む女性3人を「口封じ」のため拉致した尾形は、1人を殺害し2人に重傷を負わせた。埼玉県警担当記者の話。
「少女と少年は、前年11月に市内で男性ホームレスを暴行死させた少年3人と遊び仲間だった。熊谷で相次ぐ少年の凶悪事件に、全国の注目が集まった」
 熊谷市で生まれた尾形英紀は私立高校建築科を1年で退学、塗装工などを経て一時期、他県の暴力団に所属した。犯行当時、市内の戸建てに両親と妻、長女と暮らしていた。妻は第2子を妊娠していた。近所の話。
「お子さんとよく遊んでいました。よきパパという印象でしたがね……」

 少女Aが尾形と知り合ったのは事件の1ヶ月前、市内で尾形にナンパされその日に肉体関係を持った。家出中のAは、遊び仲間や知り合った田中さんのアパートなどを転々としていた。県警担当記者が続ける。
「更生させようと田中さんは、帰ってこないAの携帯に電話やメールを頻繁にしていた。それをウザイと感じたAは尾形に相談、脅された田中さんはやむなく別れた。少女と肉体関係はなかったそうだ」
 だが田中さんの部屋に衣類を置いていたAは、不在を見計らって部屋に入り、そのまま寝入った。帰宅した田中さんに体を触られたことをAは尾形に告げる。
「あの野郎、俺をなめやがって。今から奴のとこ行って、やっちゃうべ」
「そうだよ、やっちゃってよ。やっちゃえ、やっちゃえ」
 尾形に殺害を決意させたとして、Aは殺人幇助、殺人未遂幇助で起訴された。事件の構図は単純なものだった。

 2004年1月26日、さいたま地裁で尾形の初公判が開かれた。名古屋出張前にダメ元で浦和に行くと運良く傍聴できた。法廷には親分と奥さんらしい女性が居た。尾形は親分に会釈、笑顔を見せ被告席に座った。
 検察側の冒頭陳述が明らかにした犯行は、酸鼻の極みだった。
〈包丁で田中(仮名)の腹部を数回突き刺したほか、腹部から突出した臓器を包丁で弄びながら「ほら、腸出てるよ」などと田中に見せ付けつけるなどした上、さらに「早く死ね。くたばれ」などと(略)包丁で突き刺した〉
 さらに被害女性には、こんな慮辱行為まで行っていた。
〈包丁の刃を女性の左頬に押し当て脅し、さらに左手を着衣内に差し入れ、乳房及び性器を弄ぶなどした〉
〈自己の陰茎を露出して口淫するよう命ずるなどした〉
 殺人という修羅の中でも欲情するものか。常人には理解できない。起訴事実を認めた尾形だったが、Aは公判で「やっちゃえ」と煽ったことはないと否認、尾形の殺意について「わからなかった」と述べた。

「事件が起きて初めて娘の気持ちが分かるなんて…」

 事件発生時、わたしは少女Aの取材を担当した。埼玉県大里郡に住む実母(44)が苦しい胸の内を語った。
「Aが小学校へ上がる前に離婚。わたしはクラブホステスとし働き、Aは寂しかったと思います。6年生の頃には髪を染め学校へ行かなくなりました。娘は中学1年生の頃から遊びだしたのです。髪を染めたり服装が他の子と違って派手になっていきました。2年生のときには盗んだバイクに3人乗りをして補導されました。3年になって深谷市のパブで働いたり、そんなことがあって1年8ヶ月施設に入っていたんです」
 2003年3月に実家に戻りレジ打ちや弁当屋の早朝パートにつくが、長続きしなかった。
「そのうちに熊谷の友達と連絡を取るようになって、6月には家を出て熊谷に行ってしまいました。熊谷に居るとは私には一切言わないんです。というのは、2年前にも熊谷で遊んで家に帰らなかったことがあり、怒ったことがあるからなんです」
母は、娘を取り巻く男たちを把握していたのだろうか。
「いい彼氏が出来たとは娘から聞いていましたが、私は尾形のことは知りません。26歳と言っていたので田中さんではなくて尾形のことだと思います。私に紹介したいと言っていたので、娘は真剣だったのではないでしょうか。亡くなられた田中さんは娘を更生させたいと言っていたそうですが、娘はクスリをやってなかったし、本当にそういう気持ちがあれば私に連絡して欲しかった。2人の大人がいたのに、なんで殺人事件まで行ってしまったのか、非常に残念でなりません。娘がクスリをやってないことは警察で確認しました。事件後、手紙を通して初めて娘の気持がわかるようになりました。私の子育てが悪かったのです……」

 実家に戻った5ヶ月後に事件は起きた。事件後、母娘が初めて対面したのは9月3日、川越警察署だった。
「私の顔を見て『ごめんなさい』と一言いったあと泣いていました。私も込み上げてきて15分の面会の間、なにも喋られませんでした。娘は心細そうで、なにか小さくなったような感じでした。川越署で7回、鑑別所で1回会いました。私は面会するたびに、亡くなった人たちのことを娘に教えていかなければならないと感じています。娘は口数が少なく、気を許した人しか話さないのですが、婦警さんにはきちんと今の気持ちを伝えているようです。『反省しているよ。ちゃんと分かっているから』と私に言いました。髪はストレートの金髪ですが、生え際は黒くなってきましたね。表情に険が取れ、年相応の顔になりましたね」

 口下手なAは、その心情を手紙に綴っている。
「今までに3通来ています。『自分の所為で事件に巻き込んだ』と一緒にいた少年のことで随分悩んでいるようです。手紙は自分が素直になれるようで、正直な気持ちを綴ってきています。たまにうちに帰ってきた時も、わたしが小言を言うものだから、娘は『荷物を取りに来ただけだ』って反抗するのです。本当は家族に会いたくて帰ってきていたんですね。そういう手紙を読むと、娘の気持ちを分かってやれなくて本当に申し訳なかったと、後悔ばかりしています。お互いに突っ張っていたんですよ」
 自宅の居間には観音様が祀ってある。
「亡くなった人たちは、どんなにか恐ろしい思いをしただろうかと、朝晩に手を合わせています。伊藤薫さん(仮名)が亡くなられた場所をお参りに行ったときに、お寺の住職に事情を話したら、拝むことであなたも救われるでしょうと言葉を掛けて頂きました。何かしなければ居た堪れなかったのです。伊藤さんの両親に手紙を書きましたが、封も切られずに戻ってきました。当然だと思います」
 母親によると尾形は離婚して、奥さんが子供を引き取ったそうだ。それを確かめるため尾形の実家近所を取材するも、まったく知らないという返事だった。実家の雨戸は閉まったままだが、電気のメーターは忙しく動いていた。

 11月17日、検察への逆送が決定した。面会した母が言う。
「長女と一緒だったの、娘は嬉しかったようでニコニコしていました。娘の事件に対する気持ちが、私と同じような気持ちになって来ているなと最近感じています。『家に自分の居場所がなかった。いま家族のあたたかさを感じているが、幸せだと思うと被害者に後ろめたさを感じる』、『一緒に獅子座流星群を見に行こう』と書いてありました。事件が起きて初めて娘の気持ちが分かるなんて、本当に悲しいですね」

 2004年2月19日午後1時10分からさいたま地裁でAの初公判が行われた。背中に大きな犬の刺繍がされている、ガルフィーの黒のトレーナーを着たAは、聞き取れないほど小さな声で人定質問に答えた。逮捕当時金髪だった頭はすその部分だけを残し、ほとんど黒髪に変わっていた。緊張しているのか、両指でせわしなくパンツを上下させていた。
 罪状認否で飲食店員田中均さん殺害の幇助について「(尾形英紀被告)に『やっちゃって』とは言っていない」と否認。女性3人についても『やるしかないでしょ』と言っていないし、監視もしていない」と起訴事実を否認した。裁判長に尾形の殺意を問われたAは「尾形は殺すかもしれないと半々の気持ちだった」と答えた。Aは、傍聴席に一度も視線を向けなかった。
 Aの派手な衣装や態度を、翌日の新聞は良く書かなかった。母は心情を吐露した。
「以前、共犯の少年のことを手紙に書いたら『わたしもやっちゃえとは言ってないと検察や警察に言ったが、分かってくれなかった』と返事が来ました。だから裁判で自分の本当の気持ちを語ったのだと思います。手紙からは反省している姿が伺えるのですが、娘は言葉が足りないので心配はしています」

男が暴力を振るっても、黙っているしかなかった

 2月26日(木)午後1時10分、さいたま地裁で尾形英紀の第2回公判が開かれた。この日は尾形に重傷を負わされたBさん(25)、Cさん(20)の2人が証人として出廷。301号法廷には白色のついたてを置き、被害者の目から尾形を遠ざける処置を取った。銀縁メガネに白の上下のトレーナーを着た尾形は、遺族に頭を下げるでもなく、うなだれることもなく、ふてぶてしい態度を取った。時折ノートにメモを書き、後ろの2人の弁護士に渡していた。
 最初にBさんが証言台に立った。「入院中に夜寝ていると、ナイフを持った尾形ら3人がやって来て、殺される夢を見た。今でも胸の部分がえぐれている。死刑にして欲しい」とはっきりとした言葉で語った。
 休憩後、Cさんが証言に立つが、言葉につまる場面がほとんどだった。尾形という固有名詞を口にできないため検察官が「今でも尾形に対する恐怖で名前が言えないのか」と聞くと、弱々しい小さな声で「ハイ」と答えた。
 2歳の子供がいるBさんは、尾形にフェラチオを強要されたことや胸を触られたことなどをはっきり証言したが、Cさんは猥褻行為や事件の生々しい場面を言葉にできなかった。尾形被告の処罰をどう望むかという質問には「人を殺してのうのうと生きているのは許せない。死刑にして欲しい」とこの時だけははっきりと答え、涙を流した。

 5月31日午後1時10分からさいたま地裁301号法廷で少女Aの第4回公判が行われた。この日、Aの母親が弁護側の証人として出廷した。Aはいつもの、背中に大きな犬の刺繍が入った白とピンクのスウェットを着ていた。髪を長く伸ばし、茶色と黒が半々になっていた。父親にも証言を要請していたが拒否されたようだ。
 母親は証言台に立つ前、被害者の遺族に深々と頭を下げた。ジーンズに黒のノースリーブ、白のカーディガンを着ていた母親は、弁護士から自身の生い立ちを問われた。
「私は2歳のときに養子に出されました。養父は染色工場で働き、無口で真面目な人。養母は口うるさく、傷つくようなことを平気で言いました。お前を欲しくて貰ったわけではない、2千円で私を買ったと養母は言っていました。家族という感じがないまま大人になりました。なんで私だけひとりぼっちなのだろうと、ちょっといじけた子供時代でした。 女子高等学校に通っていましたが、2年で退学しました」
 生活は乱れていたのか、と弁護士は問う。
「大いに乱れていました。中学卒業くらいから母親に反抗しました。うるさく言われるのがいやで、悪くなることによって母親にモノを言わせないぞと。わたしが不良になれば、怖気づいてうるさく言わないだろうと。外泊はしなかったが、夜遊びをしたり悪い仲間と遊んでいました。高校を辞めてから長女を身ごもり出産しました。妊娠が高校を辞めた理由ではありません。産む以外考えませんでした。首が据わった生後3ヶ月後くらいに長女を養母に預け、昼はプレス工場、夜はスナックで働き子供を養いました」

 Aの実父と知り合ったのは1981年頃だったという。
「高校時代から知っていましたが、私の勤めていたクラブにたまたま飲みに来て付き合うようになりました。結婚後、夫の実家に住みました。夫は暴力的で、長女の生傷は絶えませんでした。今でいう虐待でしょうが、次女がお腹にいる頃から始まりました。暴力は毎日に近く、一歩間違えれば長女は殺されていたかも知れません。ガラス戸に叩きつけたこともあり、今でもみみず腫れの傷が残っています。真冬に凍った池に放り込んだこともあります。自分の子供には、長女にするような暴力は振るいませんでした。いつか別れてやると考えていましたが、子供が小さいのでどうにもならなかった。Aが夫に虐待された記憶はありません」
 1991年9月に離婚。自宅が長男の友達の溜まり場になりそれがAに影響したのか、夜も出歩くようになる。その頃、お父さん子のAはたっての希望で父と再会した。
「Aが髪を染め出した頃だと思いますから、小学校6年です。前夫がスーパーの入り口で屋台をやっていたので、どうしても会いたいというので車で連れて行きました。Aはすごくワクワクしていました。『お父さん、A』と何度も声を掛ける練習をしていました。屋台へ行ってから5分ぐらいしたら、大泣きしながら顔をクチャクチャにして戻ってきました。泣いた理由は聞けませんでした。あとで知ったのですが『お父さんは一度も目を合わせなかった。大人になったらいつでもおいで、えりか(仮名)はがんばっているぞ』と前夫は言ったそうです。えりかというのは、再婚した相手の連れ子の名前です。それからAは外見だけじゃなく、外泊したり何日も家に帰って来なくなり、生活が荒れていきました」

 弁護士は事件の核心を突く。
ーー事件の時、Aは尾形を止めなかったが。
「前の主人に私は包丁で切りつけられたことがあります。Aは4歳でした。私はやめてと言えなかった、止めると次にどうなるか分っていたので言葉が出なかったのです。父親が長女や次女にものすごい暴力を振るっても、止めると自分がやられる。私も黙っているしかなかったのです。そういうことがAの心に焼き付いていたと思います」
 年上の尾形に好意を持った理由を、母はこう答えた。
「どこかに父親を求めていたのかな、愛が欲しかったのかなと思います」

 2004年6月21日、午後1時12分からAの第5回公判が開かれた。白の上下のトレーナーには植物の絵が印刷されていた。この日は弁護側の被告人質問がなされた。
「被害者の人には……自分の性格がだらしなく、その所為でいろいろな人につらい思いをさせて申し訳ないと思います」
ーーどうして(尾形を)止められなかったのか。
「止めたら、もしかしたら自分が殺されるかもしれないと思った」
ーー被害者に今何をしてしるか。
「今できることは、毎日手を合わせて申し訳ない気持ち……。田中さんと伊藤さんに毎日手を合わせています。(社会に出たら)仕事をして少しずつでも償いたい」
ーーもう一度聞きます。今どう思っていますか。
「(涙をぬぐいながら)人生とか奪っちゃって……」
 2004年11月18日、さいたま地裁はAに懲役5年から10年の不定期刑を言い渡した。

 2010年7月、尾形英紀死刑囚に刑が執行された。死刑廃止論者の法務大臣が執行に立ち会う、という特異なケースだった。
「Aは尾形の執行をテレビで知ったそうです。娘は資格を取って頑張っています」(実母)
 更生の結果は、これから問われる。

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小林俊之(こばやし・としゆき)
1953年、北海道生まれ。30歳を機に脱サラし、週刊誌記者となる。以降現在まで、殺人事件を中心に取材・執筆。帝銀事件・平沢貞通氏の再審請求活動に長年関わる。