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国際秩序におけるウクライナ戦争――小泉悠『ウクライナ戦争』『現代ロシアの軍事戦略』書評 ――

※以下の論考は、2023年1月4日に行われた遠藤乾先生の社会科学ゼミナールにおいて、小泉悠先生をお招きして『ウクライナ戦争』(以下①)・『現代ロシアの軍事戦略』(以下②)についての議論を行った際、事前に提出したものです。二冊の書評という形をとって、「国際秩序」という観点から筆者のウクライナ戦争についての見解を論じています。

1.   「ハイブリッドだが古典的な戦争」としてのウクライナ戦争――本書の意義

 『ウクライナ戦争』は、日本随一のロシアの軍事・安全保障の専門家である著者が、目下進行中の戦争についてその原因と経過を網羅的に論じたものであり、『現代ロシアの軍事戦略』は、その背景となるロシアの軍事戦略について体系的に、本戦争の前段階と言える2014年のウクライナ危機を踏まえつつ論じたものである。ウクライナ戦争に関する現時点での日本語で最良の文献と言えるこの二冊を併せて読むことで、本戦争についての多角的な理解を醸成できるのは言うまでもない。

 本書で特筆すべきは、戦争における「特徴(character)」と「性質(nature)」を区別して論じている点であろう(① 194頁、② 62-63頁)。「特徴」が戦闘様態に関わるもの、「性質」が戦争という現象そのものに関わるもの、と整理した上で、著者はウクライナ戦争の「性質」について批判的に検討している。

 そして、「ハイブリッド戦争」を「暴力(軍事手段)が非軍事手段と同時かつ密接な連携の下に行使され、主として『戦場の外部』(特に人々の認識)に働き掛けることで政治的目的を達成しようとする闘争形態」と定義し、単に主体や手段が多様なだけで戦争の勝敗は「戦場の内部」で決する「ハイブリッドな戦争」と厳密に区別する(① 201-202頁)。その上で、第二次ロシア・ウクライナ戦争では火力や兵力がものをいい、非国家主体や非軍事手段の活用はその補助手段に過ぎないとする(① 203頁)。

 以上のような著者の議論を総合すると、ウクライナ戦争は「ハイブリッドだが古典的な戦争」と結論づけられるように思われる。つまり、「特徴」はハイブリッドだが「性質」は古典的であるということであり、その意味で「性質」としての「ハイブリッド戦争」ではない。

 実際②において著者は、「非軍事的手段は戦争の『特徴』を変えるものではあっても、『性質』の変化にまで及ぶものとは言い難い」(② 116頁)と述べた上で、ロシアの軍事戦略を「クラウゼヴィッツ的な戦争をそのコアとしつつ、非クラウゼヴィッツ的なそれにも備えた『ハイブリッドな戦争』戦略」と総括している(② 286頁)。ここに見られるように、軍事戦略という観点からの著者の議論は、第一次ロシア・ウクライナ戦争、第二次ロシア・ウクライナ戦争を通して一貫しており、二冊を併せて読むことで連続的な理解が可能になる。一方、非軍事的手段それ自体は第一次ロシア・ウクライナ戦争において闘争手段として機能しなかったのにも関わらず(② 133頁)、ロシアが第二次ロシア・ウクライナ戦争でもう一度、電撃的にゼレンシキー指導部を排除してウクライナを占領する「斬首作戦」をプランAとして実行しようとした(① 107頁)のはなぜなのか、という疑問は残る。

 

2.   国際秩序という視角――著者の知的誠実さの裏返し

 では、国際政治におけるウクライナ戦争という観点から本書を評価すると、どうなるであろうか。ケネス・ウォルツによる分析枠組みに準じるならば、国際政治の3つの分析レベルは「人間」「国家」「国際システム」である[1]。このうち「国家」については、前節で見たように、ロシアをウクライナ戦争に駆り立てた原因と戦争の経過について、軍事戦略という観点から十全な説明が尽くされているのは言うまでもない。

 「人間」についても、著者はプーチンの民族主義的野望について折に触れて言及している。本戦争の原因について著者は、「自分の代でルーシ民族の再統一を成し遂げるのだ」というプーチンのウクライナに対する民族主義的野望のようなものを想定しないと、ロシアの戦争動機は説明がつかないと論じている(① 226頁)。加えてプーチンの価値観に関しても、「『自発的な意志を持った市民』というアイデアそのものへの深い懐疑」(① 41頁)や「社会を徹底的に監視し、不満分子を抑え込み、若者に愛国教育を施しておかなければ、ロシアの社会は西側の『非線形戦争』にあっさりと屈し、政権が転覆させられてしまうに違いない―そうした強烈な猜疑心」(② 101頁)の存在を指摘する。デイヴィッド・ウェルチは、「個人の性格」をほとんど無視したことが国際関係論の大きな間違いだったと指摘したが[2]、その点に関して本書は的確に捉えていると言える。

 これらに対し、「国際システム」について、即ちウクライナ戦争がマクロな国際秩序から見てどのように捉えられるか、またウクライナ戦争が国際秩序にどのような影響を及ぼすかについては、相対的に言及が薄いと言えるだろう。尤も、これは著者の知的誠実さの裏返しであるということを見逃してはならない。小泉は①のまえがきにおいて、歴史的経緯に関する言及について次のように述べる(① 24頁)。

ただ、軍事専門家である筆者はこの点に関して語る上で明らかに適任者ではなく、歴史的側面についてはやはり先行研究に譲るほかないと判断した。

 

 ロシアの軍事・安全保障の専門家として、分析の射程を自らが責任を持って語り得る範囲に限定する。この姿勢は、国際秩序という国際政治のマクロな動態についても同様であると思われる。しかし、国際秩序という視角からの考察を加えなければ、ウクライナ戦争が現在及び今後の世界において持つ意味をより的確に把捉することは難しいと考える。そこで本稿では筆者の力不足を承知して、小泉の議論に即しながら、「国際秩序」という観点からウクライナ戦争を論じてみたい。


3.   「リベラル国際秩序」の完全なる終焉

 ここで筆者が指摘したいのは、ウクライナ戦争は、著者が指摘するような「古典的な戦争」であったがゆえに、「リベラル国際秩序」の完全なる終焉を告げたのではないか、という点である。

 「リベラル国際秩序」はアイケンベリーらによって提唱された概念で、開放的で法とルールに基づいた緩やかで互恵的な秩序を指す[3]。リベラル国際秩序は、民主主義、開放的な経済、ルールに基づく多国間主義に支えられて第二次世界大戦後に広がり、特に冷戦後にアメリカの覇権の下での秩序として協調的な関係を実現してきたとされる。フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と論じたように、冷戦終結後はこのような秩序が世界を覆うという楽観的な予測が広がったが、同時多発テロによって軍事的に、リーマン・ショックによって経済的にアメリカの覇権が揺らぐ中で、またグローバル・サウスの台頭による価値の押し付けへの異議申し立て[4]、ポピュリズムや自国第一主義の台頭などによって、リベラル国際秩序は動揺しているとされてきた。しかし、今回のウクライナ戦争は、21世紀に入ってからは最大規模の戦争であり(① 19頁)、国連安保理の常任理事国が主権国家への侵略というあからさまな国際法違反を行ったという点において[5]、これまでの危機とは質の異なる国際秩序への挑戦である。21世紀に「古典的な」大戦争が再び生起したという事実自体が、リベラル国際秩序という幻想を打ち砕き、勢力均衡への回帰をもたらした。このような「リベラル国際秩序の終焉」は、著者の「ポスト・ポスト冷戦への突入」(② 13頁)という指摘と軌を一にするように思われる。

 互恵的な関係は幕を閉じ、力の論理が優位に立つ時代に完全に移行したと言えるだろう。実際、その中核たる抑止は機能しており、プーチンはNATOとウクライナを区別して考えた上で(① 90頁)、核同盟たるNATOとの直接衝突は避けなければならないからこそ、「エスカレーション抑止」のための核使用に踏み切っていない(① 230頁)。これらを踏まえて著者は、「第二次ロシア・ウクライナ戦争は、大国間の戦略抑止が機能する状況下で行われる、核戦争に及ばない範囲であらゆる能力を駆使する戦争だということである」(① 191頁)と結論づける。これは、核抑止が成立して大国間では安定的な状況が生まれるがゆえに、通常兵器による小規模な戦争が頻発するという「安定・不安定パラドックス」の典型的な状況と言える。国際秩序の観点からは、スウェーデン・フィンランドのNATO加盟も、不安定から安定に移る動きとしてこの枠組みで理解できる。


4.   「『負け組』の包摂」?

 ウクライナ戦争が国際秩序において持つ意味を検討した次は、戦争終結後の国際秩序の構想について考える必要があろう。藤原帰一は大規模な戦争の終結が国際秩序を組み直す契機になると指摘した上で、冷戦に「不戦勝」を収めた西側諸国が資本主義と民主主義の優位に溺れ、冷戦後に「負け組」たるロシアを包摂する国際秩序を作れなかったことを問題視し、負け組と共存し大国が自制する秩序を作る必要性を訴えた[6]。それに対し、遠藤乾はこの議論をむしろ大国中心主義に陥っているとして暗に批判し、ヘルシンキ宣言に基づく欧州安全保障協力機構(OSCE)の設立、欧州評議会へのロシアの加盟、「G8」へのロシアの参加、NATO・ロシア理事会の設置など、西側諸国はロシアの包摂を試みてきたと指摘する[7]。むしろ、冷戦後のNATOがロシアとの戦争を念頭に置いた軍事態勢から急速に脱却し、NATO東方拡大においてもロシアの封じ込めではなく不安定な旧社会主義国の自由民主主義体制への取り込みという文脈を強調したように(② 38頁)、第一次ロシア・ウクライナ戦争に至るまでNATOがロシアの脅威を深刻に認識できていなかったように見えるのは、経済発展による民主化の期待によってオバマ政権の末期までアメリカが中国への関与政策を転換できなかったのと同様に、ロシアへの過度な希望に基づいていたとも言えるかもしれない。

 以上のように国際秩序の構想には歴史が照射されるが、ウクライナ戦争の文脈で特に問われるのは、冷戦後ヨーロッパの安全保障をめぐる秩序構想、具体的にはNATO東方拡大の問題に他ならない。

 

5.   国際政治における「認識」

 ここで立ち現れるのは、国際政治における根源的な位相である「認識」の問題である。即ち、実際の国際政治がどのように展開しているかという「現実」の次元と、その現実を国際政治の主体がどのように認識するかという「認識」の次元は、位相が明確に異なる、ということである。

 例えば、抑止の成否が相手の認識に依存するというのは一般的に指摘されているが[8]、これが典型的に現れるのが安全保障のディレンマの問題である。これは小泉も実際に指摘している点であり、ロシアと西側諸国との関係には安全保障のディレンマの悪循環が見出されるとしている(② 104頁)。同様の発想は「エスカレーション抑止」においても指摘できる。エスカレーション抑止が具体的な核使用戦略でなくとも、ロシア側にそのようなアイデアが存在し、そのための手段をロシア軍が保有していることをNATOが認識すれば、そのような核使用を行う可能性をNATOが払拭できなくなり、これ自体が政策の効果になり得るというのである(② 275頁)。

 このような「認識」の重要性の問題は、NATO東方拡大の議論においても顕著に見られる。実際にどのような交渉過程があったかは板橋拓己が詳しく論じているが[9]、そのような現実とは別にして、「NATOを東方に一インチも拡大しないという約束を西側諸国が破った」とロシアないしプーチンが認識したのは事実であろう。

 坂本義和は、このような認識の齟齬に基づく不信の増大から脱却して協調的な関係に移るには、相手の選択によって自らにとって最悪事態が生じるという可能性に賭けるのではなく、相手が自らと協力して共通の利益を追求するかもしれないという可能性の側にまず自ら賭けてみるという意味での「信頼への賭」が必要だと主張する[10]。だが、今回のロシアのように一度非人道的な行為に訴え、国際秩序に挑戦した相手に対して「信頼への賭」を行うのは、極めて難しい。

 しかし、それでもやはり「包摂」を諦めてはならないだろうというのが筆者の立場である。残虐な悪行の限りを尽くしているプーチン政権にも、いずれ必ず終わりは訪れる。「(プーチン政権の)ロシア」と「ロシア国民」は区別しなければならないのであり、小泉が問いかけるように、ロシアの地に生きる人々までは憎むべきではなく、ロシアをもう一度国際秩序の中に引き戻すことを目指すべきである[11]。そしてその先には、「真に包摂的な国際秩序[12]」を作らなければならない。石田淳は、国際社会における共存の枠組みを再建するには、国家の適切な行動の範囲についての期待(即ち認識)の共有を可能にする規範的なフォーカルポイントが必要であると指摘するが[13]、まずは我々が共通の社会に生きており、そして戦争は非人道的なだけでなく、共通の不合理ですらあるという、共有された認識を作る努力から始めなければならないのではないだろうか。その意味でこの戦争では、国際社会に生きる人々の人間性、そして国際関係の社会性が試されている。



[1] ウォルツ, ケネス (2013)『人間・国家・戦争:国際政治の3つのイメージ』勁草書房、ウォルツ, ケネス (2010)『国際政治の理論』勁草書房

[2] ウェルチ, デイヴィッド (2022)「ウクライナ戦争が提起する五つの論点」『アステイオン』97、16-28頁

[3] アイケンベリー, G・ジョン (2012)『リベラルな秩序か帝国か(上):アメリカと世界政治の行方』勁草書房

[4] 秋山信将 (2022)「リアリズムの誘惑、リベラリズムの憂鬱―問われる核の役割」『アステイオン』97、108-121頁

[5] 細谷雄一 (2022)「動揺するリベラル国際秩序」『外交』Vol.72、6-11頁

[6] 藤原帰一 (2022)「国際秩序における覇権とリベラリズム―ロシア・ウクライナ戦争と世界―」東京大学法学部最終講義、2022年3月7日

[7] 遠藤乾 (2022)「ロシアによるウクライナ侵攻―なぜ起きたのか、どう終わらせるのか」北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育研究センター公開講演会、2022年7月21日

[8] 中西寛・石田淳・田所昌幸 (2013)『国際政治学』有斐閣、144-148頁

[9] 板橋拓己 (2022)『分断の克服1989-1990:統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』中公選書

[10] 坂本義和 (2015)「権力政治を超える道」(『権力政治を超える道』(岩波現代文庫)所収)、132-135頁

[11] 小泉悠 (2022)「ウクライナ戦争が問う我々の人間性——『ウクライナ戦争』自著解題」ちくまweb https://www.webchikuma.jp/articles/-/2988

[12] 板橋拓己 (2022)「2度目の大戦を招いた『戦間期』と今の類似点 何に再び失敗したのか」朝日新聞デジタル、2023年1月3日 https://digital.asahi.com/articles/ASQDN5CJ8QDDUPQJ017.html

[13] 石田淳 (2022)「武力による現状の変更―ロシアによるウクライナ侵攻における対立の構図」『国際問題』No.709、6-15頁

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