【参加レポ】毎日新聞 ことば茶話 第3回
やあやあどうもふずくです• ᴥ •
ついに大学を卒業しました。
今回は、1月27日に行われた毎日新聞のオンラインイベント「ことば茶話」第3回について、感想を述べていきます。
前回の記事はコチラ
ことば茶話とは
今回のテーマ
円満字さんと歩く漢字の世界
今回のゲストと聞き手
ゲスト:円満字二郎(えんまんじ・じろう)さん
円満字さんは、毎日ことばplusで連載があります。
会員登録(無料)で読むことができます。
聞き手:平山泉(ひらやま・いずみ)さん
感想
漢和辞典は「集めてくる」辞書?
お話の中で登場した外山滋比古先生の「エディターシップ」とは、これですね。
さて、この場面では漢和辞典の基本的なスタンスに触れています。
実は私、辞書ヲタクを名乗っておきながら、漢和辞典に触れたことがほとんどなく……。
漢和辞典ってなんだろう?というところからのスタートでした。
たしかに国語辞典を見てみると、①②③……と意味が細かく分類されています。
(たまにそれ分ける必要ある?というのもありますが)
これにより、ユーザーが知りたい意味を、比較的すぐ見つけ出せるようにできています。
細かく分けていれば、「この文脈ではこの意味があてはまるのかな」みたいなことも少なくて済みますしね。
わりと共通認識として、細分されている=詳細であるような気がしてきます。
辞書って親切にできているなあと。
一方漢和辞典はどうでしょうか。
対談内でもあったとおり、「経由」「神経」「経験」そして「源義経」というように、別の場面で使われるような熟語に共通して「経」ということばが当てられていることが分かります。
これこそが「繋いだところに何が見えるのか」ということです。
実際に漢和辞典を引いてみましょう。
「経」一字にたくさんの意味が含まれていることが分かります。
一見共通点がないように見える先ほどの語たちも、ここに記述されている意味によってつながりがだんだんと見えてきます。
ふだん国語辞典を読んでいると、
「このことばの意味にあの意味が載っていない!」だとか
「この意味とこの意味は微妙に違うのだから、分けるべきだ!」
みたいなことを言いがちですが、これは「切り離す」前提の話ですね。
どちらがすごい!どちらがえらい!みたいなことはもちろんありませんが、両方の視点をもっていることが重要だと考えます。
一緒に考えるための辞書
逆にこちらは国語辞典にも共通していえることだと思います。
「辞書や辞典に載っていることは正しい」と思われがちですが、実際はその限りではありません。
国語辞典の大家である見坊豪紀は、次のようなことばを残しました。
これは「辞書かがみ論」と言われ、辞書を語るうえでは外せません。
「鏡」は、今のことばのありようをそのまま記述するという姿勢、「鑑」はことばの広く正しいとされる用法、規範を示すという姿勢です。
一般に、辞書を使う人々(ユーザー)は、辞書に「鑑」の役割を期待します。しかし、辞書を作る人々(製作者)は、辞書は「鏡」だと説く印象があります。
ここに、辞書に対する認識の乖離があるような気がします。
これを解决するには、以下が重要になります。
第一に、辞書はあくまで「無難な表現を探すためのツール」であることを周知すること(辞書全体の課題)。
第二に、辞書は「鏡」「鑑」の両側面があることから、そこに書いてある意味をうのみにしないこと。書いてあることをもとに自分で考える必要があること(ユーザーの課題)。
第三に、辞書製作者は辞書が「鑑」として期待されているという現状を再認識し、「鏡」とのバランスを保ちつつ反映させること(製作者の課題)。
どこから手をつけたらいいのか分かりませんが、これらが改善されればもっと辞書はよいツールとして人々に受け入れてもらえるはずです。
辞書の未来はどうなるんだ。
おわりに
いかがだったでしょうか。
漢和辞典を通して、国語辞典そして辞書全体のありようを見つめ直す機会になりました。
辞書のユーザーの大半は辞書を使い慣れていない「素人」です。
辞書ヲタクではありません。
辞書がより使いやすいツールとなるには、辞書はどういうものだと認識されているかを問い直す必要がありそうです。
さて、今回の記事で私ふずくは引退となります。
代表業もLakkaのほうに引き継ぎます。
これまでご愛読いただきましてありがとうございます。
ではでは、またどこかで。