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山間から「未来」を考える

 7/8〜9は1年ぶりに高知へ。高知には毎夏訪れているが、学部時代に必修英語の講義担当であった白岩英樹先生(現・高知県立大学文化学部准教授)を訪ねることが目的である。白岩先生はTwitter (@s_andersonian)のフォロワーが多く、ちょっと有名なので興味があれば覗いてみて頂きたい。
 受講から11年、大学卒業から7年が経過してもなお関係性を継続して頂いていることに毎度感謝するばかりである。

 そして、今回の高知滞在では、白岩先生が司会を務めるシンポジウム「山間から『未来』を考える」を現地で拝聴することになった。

シンポジウム「山間から『未来』を考える」

 このシンポジウムは、奈良県立大学地域創造研究センターの「撤退学ユニット」という研究グループが出版した「山岳新校、ひらきました」の出版記念という位置付けで、共同著者である撤退学ユニットの研究者や、ホスト側の高知県立大学で自由民権を研究しているヨースジョエル先生などが集い、多面的な掛け合いが展開された。
 また、白岩先生の計らいで、登壇される先生方との"前夜祭"にも参加させて頂き、美味しい鰹のたたきと貝料理をいただきながら語らうことができた。

山岳新校、ひらきました

 第1部は3本の対談であった。最初は奈良県立大学の堀田新五郎教授(政治思想史)と高知県立大学のヨース・ジョエル教授(日本思想史)による対談で、テーマは「慣性から知性への『撤退』」。
 様々なものが徐々にダウンサイズしていく日本をソフトランディングしていくことそのものはネガティブな撤退ではなくむしろ世界的に誇れることでは無いかという問いから、"山間"という本来的に知性のない場所と"自由"という矛盾、そして自由と言われるもの自体が本当に自由なのか。そして、人間の本性(本来の自由)に回帰する意味での"外れる力"が重要ではないかというところで話が収束した。

 2つ目の対談は、島根大学の作野広和教授(人文地理学)と高知県内のNPO法人地域文化計画の中村茂生氏(特定非営利活動法人 地域文化計画)による「『縮充』の実現に向けて」。
 現在の世界はローマクラブ「成長の限界」で1972年に提起されていた世界に近い形となっているとの作野先生の指摘と、それに地域活動の実践者の立場から高知の山間の古老による聴き語りを通じて貧しい暮らしにどこか"豊かさを感じる"という中村氏の経験が呼応する。

 それらの相対的な貧しさがこれまでの"標準化"することが正しいという価値観に基づくものであり、それぞれが暮らしの"ものさし"を持つことが重要であると作野先生は指摘する。

 3つ目の対談は、奈良県東吉野村で自宅兼人文系私設図書館「ルチャ・リブロ」を運営する青木真兵氏と土佐町読書推進コーディネーターで高知こどもの図書館の立ち上げにも携わった古川佳代子氏による「山間に図書館をひらくこと」。
 青木氏のキュレーターとしての役割(ありものを結びつける、編集そして直感…)から、数値化と"測れないもの"があることを改めて問い直すことが必要であるという提起から、一方的な消費者からお裾分け的概念の重要性、そして我々の"ものさし"を取り戻すことに話が展開した。

 第2部は白岩先生の司会によるディスカッションであった。第1部の話題にあった"他人と違う"ということを孤立感と捉えずちょうど良いスケールで生きていくにはという話題から始まり、世代変化によるパラダイムシフトが起こる(既に起きている)という期待といった話題に至った。

 人間の持つ本質的な"自由"に回帰するために画一的なシステム(都市、消費者、新自由主義…)から"外れ"、各々のものさしを取り戻す。そして、山間という視点から、"縮充"という形でポジティブに撤退していくあり方を実践されている方々の生の話がとても新鮮かつ刺激を受けた。
 中でも個人的な刺激は、フロアからの質問であった。高知県大豊町で農家を営む男性(70代)から、将来的に"村納め"をしていく必要がある現実と向き合いながら、人間である前に生き物としての自分が尊重される環境こそが農村であるのではないかという発言は新鮮であった。
 また、高知新聞記者(30代)のメインストリームから外れるものの伝え方やポジティブにどう伝えていくかというマスメディアとして共感されにくいものをどう伝えていくかという葛藤もフロアからの共感を得る刺激的な発言であった。

 高知や奈良の山間部のような場所は、我々都市生活者の想像を絶する将来課題を背負っている。基礎自治体の市町村のスケールではなく、人々は集落ごとのスケールで生活しており、一般的には一集落で4世帯を下回ると維持が困難となり人が住まなくなるそうだ。
 「未来」は必ずしも成長とは限らない。縮退していく我が国や人間の豊かさとは何か、元気に成長すべきという価値観そのものを問い直しながら、質的豊かさをrecoverすることが求められている気がしてならない。

 私は、都市から何ができるだろうか。

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