2015年1月11日 お茶の水女子大シンポジウムから

お茶の水女子大学主催シンポジウム・シリーズ「現代の音楽を巡る言説の半世紀1965-2014」(近藤譲:司会、石塚潤一、木村元、長木誠司、沼野雄司)での、石塚の発言部分を抜き出したものです。シンポジウムの全容は、お茶ノ水女子大が作成した報告書にありますが、一般での入手は難しいと考え、私の発言の一部(基調講演と、討議での発言の一部)のみ、ここに転載します。

注)お茶の水女子大学の上杉奈央子さんに文字起こし頂いたものに、若干の訂正を加えてあります。

注)山本裕之作曲「想像風景」についての完全なネタバレがあります。

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(3人の話者に続いての発言)

石塚:私が何のお話をさせていただくかと言いますと、このシンポジウムのチラシに、「それらの言説が現代の音楽の創造と聴取、そして現代の音楽文化にどのような力を及ぼしたのか(或いは及ぼさなかったのか)」、という文言があります。ならば実際、批評というものは、音楽体験に力を及ぼすのだろうか、あるいは、そうでないのだろうか、ということに関して思うところがありましたので、この点についてより、始めさせて頂こうかと思います。

まず、私が思い当たったのは、山本裕之さんという作曲家の、無伴奏モノ・オペラ《想像風景》という作品でした。山本裕之さんは、1967年生まれ、ここお茶の水女子大学でも講師を務められている作曲家であります。和声を教えてらっしゃるそうです。《想像風景》は、その山本さんが、2000年に作曲。初演は2000年の10月24日、北とぴあさくらホールでされました。この後に2回再演されています。この《想像風景》について語るということは、あたかも推理小説の批評を始めるにあたって、犯人は誰だということを言ってネタバレするのとほぼ変わらなく、ちょっと悩ましいところもあるのですが、もう既に2回再演されていることを免罪符として、説明させていただくことに致しましょう。

《想像風景》は一人のパフォーマーのための作品です。誰もいない舞台上に設置されたスピーカーから、何やら音が流れている。非常にローファイな音声で、女性の声で歌っているような音声が。それと何か打楽器のような、素性のよく分からない音がポヨヨヨーンと間歇的に鳴っている。そのようにして演奏は始まり、それがしばらく続きます。演奏時間が大体15分なんですが、15分間のうちそうした音風景が8分間くらいずっと続いていて、何なんだろうこれは、いつまで続くんだ、と半ばうんざりしてきたころに、舞台上にパフォーマーが登場します。そこで観客は全てを悟るわけです。それまで流れていた音声は、そのパフォーマーが、実際に歌ったり、打楽器を鳴らしたりしていて、これらが、携帯電話での通話を通じて会場に流されていた、ということを。しかもパフォーマーは、公道を走るには奇抜にすぎる衣装を着ておりまして、その後、ステージ上から去り、さらには会場建物からも外へ去り、公道を走っていくのです。そうしますと、曲の前半と後半で、決定的な認知の差異が生じるわけですね。それまで8分間、スピーカーから流れる音の正体がまったく分からなかったわけですが、そのパフォーマーの姿を見たら、これは紛れもなくその彼女が発した音声を私たちは聴いているってことが分かる。しかも彼女は非常に恥ずかしい恰好をして公道を走っている。そうなると、今まで認識できなかった、たとえば、北とぴあさくらホールは北区の王子にありますから、王子の駅前の雑踏の賑わいみたいなものであるとか、王子には都電が走っていまして、都電の駅はさくらホールからちょっと距離があるんですが、ああ、都電の方まで、しかもあの恰好で行っているのか、という具合に、背景ノイズの詳細まで、その中継される音声から聴き取れるようになるわけです。

これに僕は非常な衝撃を受けまして、なぜかというと、一瞬の認知によって、人間の音に対する認識というものがそこまで変わるのか、ってことが、この作品によって驚くべき形で私に突き付けられたからなのです。それを逆に展開するなら、視覚情報を欠いた場合には、たとえば伝統的な音楽でも、本来分かることが分からなかったりすることが得てしてあるものでして、ストラヴィンスキーは、目をつぶって――これはライブでの演奏のことですけど――音楽を聴く者は愚か者であるとまで言っているといますから、これをもって、視覚情報が音楽の認識に与える影響が絶大であると言えるでしょう。このことを踏まえるに、視覚情報が認知に対してそこまでの影響を与えるのだったら、当然言語は脳内の情報処理と密接に結びついているわけですから、批評と限定しないまでも、言語活動というものが、やはり音楽に対する認識に、相当影響を与えているということは疑いようのない事実ではないかと思われるわけです。私も自らの書く批評というものが、山本作品における一瞬の認知のように、音楽に対する認識を刷新するようなものであってほしいと思いつつ、まあ書いていることは書いているのですが、それがどこまで上手くいっているかはひとまず不問にするとして、音楽批評に関して、そうした効果が期待できるのではないかと考えるわけです。よって、私がこのチラシにある文言、「音楽文化に対して力を及ぼしたのか、あるいは及ぼさなかったのか」という、この問いに答えるならば、「及ぼさないはずがない」というのが、私の回答ということになります。

その上で次の段階の話を致しますと、かくも認識総体への、批評なり言語なりの影響力というものがあるわけですが、音楽批評について過去の作曲家がどのように発言したかというと、対してそれは惨憺たるものなのです。たとえば、私が尊敬する松平頼則さんという作曲家がいらっしゃいます。1907年に生まれて、2001年に亡くなった、西洋の前衛音楽の流儀、たとえば12音技法だとか、トータル・セリエルなど、と、日本の雅楽を結合させた、非常に独特な作品を書き続けた方ですが、その方が相当に、音楽批評についてネガティブな発言を繰り返されていた。さらに遡って、シベリウスは、「批評家の言うことに耳を傾けてはいけない、これまで批評家の銅像など建てられたためしがないのだから」ということを言って、批評家を批判しているわけです。ただこれはちょっと分からない。吉田秀和氏の銅像が、水戸あたりに建つかもしれないから(笑)。ただ、そのようなことを作曲家はおっしゃるわけだけど、でも実際、音楽の認知に対して言語が非常な影響力を持っているわけだから、批評の仕事もそれなりに重要なものであるだろうということは言えると思います。

そこで、ここでもう一つ、三輪眞弘さんの、《村松ギヤ・エンジンによる、ボレロ》という作品と、それに対する私の批評が、配られたこれ(レジュメ)の裏面にあるのですが、これらを比べることによって、批評のある側面について語ってみようかと思います。すいません。村松ギヤ・エンジンをかけてみて下さい。(音源CD『村松ギヤ(春の祭典)』FOCD2573 / fontec / 2012)これはですね、三輪眞弘さんの、《村松ギヤ・エンジンによる、ボレロ》(2003)という作品です、お聴きのように、一聴して、弦楽器のグリッサンドが耳に入ってくる作品であります。この作品はですね、具体的な音の高さは決められているものの、演奏者にわからないような形で書かれている。どういう形になっているかといいますと、各楽器弾きはじめの音だけが指定されていて、そこからは音が下がる、上がる、という非常に特殊な、相対表示でのノーテーションで終始書かれていて、つまりパート譜を見ても、自分が弾くべき音が、一見して分からないわけです。あ、もう(音源止めて)いいです、しばらくはこのままなので。ずっと聴いていると管楽器なども入ってくるのですが。三輪眞弘さんは1958年生れの作曲家ですね…ちょっと今補足して下さいという話でした。

それについて書いた私の批評がこのようなものです。

私はこの特殊なノーテーションによって、弦楽器の個々の演奏家が、もはや正しい演奏ができない、より踏み込んで言うなら、正しい演奏をすることが積極的に妨げられているということを、非常に肯定的に評価した批評を書きました。というのは、ある一点から三分音下がる、三分音上がるとか、そういう指示が書かれていても、三分音というのは全音の三分の一ですから、半音の三分の二の音程ですね、そういう音程は、半音の音程間隔なら身体に染みついているプロのオーケストラの奏者でも、身体にはない音程なんですね。ですので、三分音下がる、三分音上がる、三分音下がって下がって下がって下がって…っというように指示されていても、その指示を演奏家が守れるかっていうと、守れるわけがないんです、少なくとも現時点のオーケストラの能力においては。そうしますと、どんどん個々の演奏家がやっていることがそれぞれに変わってくるんです。最初は特定の音から始まった音というのが、次第に広がりを持ってくる。要するに、誤差がそれぞれの奏者において蓄積されるにしたがって、線的なグリッサンドがクラスターの束みたいなものにどんどんどんどん変容していく、そこを僕は非常に肯定的に評価して批評したのがこの資料にある文章でした。

この批評に関して、直接、三輪さんから何かコメントされたりしたことはありません。しかし、池田拓実さんという作曲家がいらっしゃいまして、その方を通じて聞いたところによると、三輪さんはあくまでも、この曲が正確に演奏されることが理想だと語されていたというのです。そうしますと僕の考えとは違ってくる。僕がこの曲に関して面白いと思ったことは先ほど申し上げた通り、演奏するにしたがってどんどんどんどん間違う奴がいるってことです。そのことが音楽の面白さにちゃんと結びついているということを評価したわけなので、これが、たとえば超絶的な絶対音感を持つ弦楽器奏者を集めて、何日もわたってリハーサルで特訓したら、本当にこれを最後まで、――三分音下がって三分音下がる、そこで三分音上がったり、オクターブ上がったり下がったりということも、指示されていますけど、演奏されるべき音というのは実は決定されているわけですよね、それを、演奏家が間違うように書かれているっていうのが私の意見でしたが、本当にちゃんと正確に演奏しようと思ったら、ほとんど無理だと思いますけど、出来る可能性もあるかもしれない。三輪さんは、そのように正確に演奏する、「理想的な」演奏こそが自分の目指すところである、ということをおっしゃる。そうすると、私が批評で肯定的に評価したことと、三輪さんが肯定的に評価することに多少のずれがあるわけです。

三輪さんがそう思っているということを聞いても、僕は自分の見解を変えることはないですよ。なぜかといえば、この曲って正確に演奏されてどこが面白いんだろうと、正直思ってしまうところがまずあるし。実際、正確に演奏されることが理想ならば、もうちょっと違ったノーテーション(書き方)をすべきなのでは、とも思うし。だから、こういう書き方だからこそ、起こる音響現象というものをもっと肯定的に評価した方がいいじゃないかということになるわけです。それは三輪さんの考え方とは違うかもしれない。だけど、こういうふうに双方の考え方が微妙にずれたところで、それなりの理由づけをもってぶつかるということは、非常に、たとえばこの作品に向かう聴き手にとって、有益なことなんではないか、と私は思うのです。そういうわけで、この評は三輪さんの見解をうけても修正することなく、未だそのままweb-criという野々村禎彦さんが主宰されているインターネット批評サイトに載り続けているわけです。

さらに、批評を語るに当たっては、作曲家がどれだけ特権的な聴き手になり得るか、ということを含めて考えたいのです。もちろん、批評家の方がものが分かっているなんて、傲慢なことを言うつもりはありません。ただ、批評家の意見によってですね、作曲家が思ってもいなかったような作品の聴き方が生まれる可能性もあるわけですし、そこに緊張関係が生じるということが重要なのではないかなと、常々考えているわけです。近藤譲さんが、7月に開かれたトークショーで、ある一つの作品に対して、いくつかの解釈があるということを、たとえば、山があって、それをいくつかの方向から見るというような、そういう譬えをつかって表現されていたことがありました。私もまったく同様だと思います。僕は9月に噴火した御嶽山という山に、年に2回くらい登っていたことがあるのですが、御嶽山には、五つの登山道があります。批評家の仕事の一つというのは、たとえば音楽作品という山があった時に、そのアプローチ、登山道を拓くかのように、それぞれのアプローチを提案していくという仕事でもあると私は考えています。こういうやり方を、文芸批評におけるポストモダン批評的なものとからめて考えることもできるでしょう。文芸批評におけるポストモダン批評というものは、解釈の多様性を許すことで、ほとんど何でもあり、な状況になってしまった――あくまでも私の見解ですが。それは多分に、文学においては一つ一つの単語に非常な意味性があるということが、その大きな理由としてあるのではないかなと思います。

思い出しますのは、ジョン・ゾーンという1952年生れの作曲家にCOBRAという作品がありまして、これをですね、私の友人でもある賃貸人格というパフォーマーが、ヴォーカリストだけをそろえて演奏したことがありました。で、COBRAというのはご存じの方も多いかと思いますが、プロンプターと言われる指示者が、あらかじめ用意されたカードを用い次々と指示を出すことによって、演奏家たちに即興的に何かをやらせ、全体を制御することで音楽を構築していく、一種のゲーム・ピースです。そのヴォーカルのみのCOBRAではですね、言葉が非常な意味性を持っているために、プロンプターが仕切り切れないような色々なことを演奏家がやり始めて、ネタ披露会のような、ほとんど何でもあり、な状態になってしまった。巻上公一さんというCOBRAの日本での紹介に尽力されている方がいらっしゃいますが、その方は舞台袖でずっと、「こんなのCOBRAじゃない、COBRAじゃない」って言い続けていて、それはもう正に、ジョン・ケージの演奏を聴いた矢代秋雄が「こんなの音楽じゃない、音楽じゃない」と言い続けていたような(笑)、そういう姿を私は目の当たりにしたわけですけど、言葉の意味性という複雑なものを制御するシステムとしては、COBRAの規則は不十分だったと、そういうことではないかと思います。

つまり、音楽がより抽象的であるということが、音楽批評にそれなりに多様なアプローチの仕方を許すが、かといってポストモダン批評のように何でもありの状態にはならないという、そういう状況を担保してくれているのではないか思います。と同時に、先ほどの三輪さんの作品に対する私の批評にあるように、作曲家と異なったアプローチで曲を解釈なり批評することによって、最初にお話しした認知の問題とも関連して、「この作品はこういう作品」だと、聴き手の方々に刷り込んでしまうということが、三輪さんにとっては、かえって迷惑である、ということもあり得ないわけではない。音楽批評という場では、確かに色々なことが言えるわけです。責任もって言えば、確かに批評とは、色々なアプローチの仕方をもちろん許すものではありますが、と同時に、演奏や作品に対する認知にとって、非常に害となるような解釈を提供してしまう可能性、そういう危惧がないわけでもない。こういう危険がより意識されるべきではないかと思います。では、僕の話はまずはここまでということで。

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(以下は討議の最中での石塚の発言の抜き出し)

石塚 先月の初め(12/7)、日本現代音楽協会というところが‘競楽’という現代音楽演奏のコンクールを開催し、一日4時間半くらいかけて行われたのを、全11組聴いてきました。ピアノの演奏あり、三味線あり、ということで、そうしますと、結果的に賞は出て、順序もついたわけですが、三味線とピアノって一体どういうふうな観点で順序をつけて評価するんだろうな、という気持ちで聴いていました。このような、異なる価値観を以って演奏される楽器について同じ土俵で評価するっていうことは極めて難しい。この難しさに向き合いつつ審査している人はどれだけいるのだろう、とまず思ったことを思い出しました。あと、たとえば、僕もクラシック、現代音楽を主に批評しておりますが、それだけじゃなくて、たとえば昨年の2月などは、宮崎の山の中で神楽を一昼夜観るとか、そういうこともしているわけです。そうするとやっぱり、神楽というものは、あれを一つの音楽だと考えると、あまりにも西洋音楽と異なっているわけですよね。それでもそれを観に行って、それを音楽、彼らは音楽というより芸能、あるいは宗教行事だと思っている価値観を含め、自分の身体の中にインストールしようと思いつみるわけです。異なる価値観をとりあえずお試しだと思ってインストールしてみるというのは重要なことなのではないかなと私は思います。

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石塚 さきほど木村さんが、音楽は世界の共通語だと口にされた、否定的にだけど。それ、よく言う人いますよね。僕はこの言葉大嫌いでして、この言葉をナイーブに口にする人たちとは友達になれないとすら思っている。ただ、音楽は世界の共通語、って言う人たちは圧倒的にメジャーな音楽に関係する人たちに多いですよね。まずそこのところをちょっと言っておきたい。戦略的な発言なのではないかと。メジャーな音楽というものは、今メジャーだというふうになっていますけど、たとえばあらゆる表現形態、特にすぐに身体に入ってくるような表現形態が最初からそのようなものであったわけでは必ずしもないということも指摘しておきたいのです。たとえば、今誰でも漫画読みますよね。昔は週刊誌の漫画とか読むと、コマの読む順番に番号がついていた。それは僕の少年時代くらいのことで、最近はもうそんなもの、どこにもないわけですけど、いまだにうちの母親、去年80歳になりましたけど、漫画読めないです。もちろん、本も新聞も読みますが、漫画については、どういう順番でコマやセリフを追っていいのかよく分かっていない。新聞に出ている四コマ漫画だったら上から順に読めばいいから、読むことができるわけだけど、たとえば、週刊少年ジャンプを買ってきて、「ワンピース」がどういうストーリーかってことを認知することは相当に難しいのではないか、と。そういう漫画という、非常にメジャーな表現形態であっても、コマの順番を指定して、こうやって読むんですよという、ある種読者に対しての教育というか啓蒙みたいなことをやっていた時代があったわけですよ。そういうことは忘れない方がいいかなと。だから、今のフォーラムの話ではありますけど、こういうことを実現するのは非常に難しいし、今現代音楽を聴く人、――『エクスムジカ』買う人は300人いなかったという話もあったりするわけだけど、まあそれでも、そうした人に向けてちょっと不可能だと思うけど無茶でもやってみるんだっていう意志で何かをやっていかない限りは、もうちょっと現代音楽そのものがダメですよね、っていう話になりかねないかな、と危惧する次第です。

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石塚 私は批評をやっておりますから、あるひとつの作品、ないしは表現に対して、何らかの評価を行う局面に立たされることが多々あるわけですが、その評価の尺度となる価値観というものが必ずしも一つではないと思っているんです。たとえば、一つの数直線上に小さい方から大きい方に並べていくようなそんな単純なものではなくて、たとえば二次元であるとか三次元・・・n次元であるとか、そうした多元的な座標軸を設定し、その中での位置を決めていく作業が批評なのではないかなと思います。価値観の異なる方と色々と議論することによってですね、自分の座標軸の中に、たとえば今まで持っていなかったような、直交するような新たな座標軸が導入できれば、それは先ほどのインストールの話ではないですけれど、音楽を認識/解釈することに対して、非常なプラスになるんではないかと思います。たとえば、先ほどの現音の‘競楽’におけるピアノと三味線を同じ場で評価しなくてはならない時も、それは必ずしも一つの座標軸で評価しているわけではないと思うんです。ピアノはピアノでの座標軸があって、三味線は三味線での座標軸があって、その中でよりそれぞれの軸で高みに達しているもの、という形で評価することが出来れば、審査も成立すると思うわけです。まあそれが実現できているかどうかは別の話でしょうが。そういう多様な価値観、評価の軸というものをですね、インストールできるような場になるとしたら、フォーラムというものにも十分な可能性があると思うのです。

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