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[コンポージアム関連公演]近藤譲室内楽作品による個展 合唱作品による個展を制作するに当たって

#プロデューサーノートのようなもの

 かつて、15歳のアンドラーシュ・シフがはじめてジェルジ・クルターグを訪ねたとき、3時間に及ぶレッスンでバッハのホ短調のシンフォニア(ピアノ学習者が初級から中級へとレベルアップした頃に取り組む楽曲だ)が3分の1しか進まなかったという逸話がある。15歳とはいえ、相手はアンドラーシュ・シフである。そんな超一流ピアニストの卵に対し、わずか2ページのシンフォニアの一部分について、3時間に亘って事細かくディレクションする智恵を作曲家は持っている/持ち得る、という点に奇妙な感動を覚えた。

 現代、特に日本においては、たとえクルターグのような作曲家が存在したとしても、そのメチエが演奏に反映することはほとんど望みえない。演奏と作曲の現場がどれほど断絶しているかは、いわゆる人気指揮者が振りたがる現代作品の散々たるラインナップをみればわかるはずだ。日本には、コンテンポラリーな作曲家で、かつオーケストラの定期演奏会を振れる存在が永く欠落していた。当TRANSIENTのメンバーでもある杉山洋一によって、その欠落はどうにか埋められていく予感はあるが、杉山はミラノ在住である。杉山だけに頼っていられる状態でもない。二の矢・三の矢の準備が必要である。

 現代音楽の演奏において、しばしば軽視されがちだが、もっとも重要なのは、いかに適切にディレクションしていくか、ということに他ならない。優れた演奏家を登用しても、ディレクションなく奏者に任せたなら、良い結果が得られると考えるのは間違いである。演奏家の持つプレイヤー・スピリットが、必ずしも演奏される音楽に寄り添うとは限らない。特に現代作品においては、奏者はしばしば、全体を構成する一つの要素として、息の長い持続の中に潜まなくてはならない。その演奏家の意欲と作品の方向性がかみ合わず、見るも無残な結果へと堕ちた演奏を目の当たりにしてきた。だからこそ、どのような演奏家を集めるかはもちろん、集めた演奏家をどのようにディレクションしていくか、が重要なのだ。

 それではディレクションに当たって、優秀な指揮者をひとりつれてくれば良いのか、といえば、そう単純でもない。特に近藤譲の作品においては、その感性はアメリカ実験音楽の影響を強く受けている。よって、近藤譲を演奏する場合、通常のクラシック音楽をディレクションするのとは異なった、時空を音でレイアウトしていくかのような、独自の感性が求められる。ただ、この感性は一般的な教育を受けた指揮者にはまず求め得ない。まずは、ディレクションする立場にある指揮者が、いかに感性を涵養するかが問題となろう。

 ならば、クルターグがシフを指導したように、近藤作品や実験音楽を良く知る作曲家が(なんならば近藤譲自らが)直接演奏家を指導すれば良いのではないか?しかしながら、それも多くの場合、上手くはいかない。演奏家という、それぞれに明確な主張を持つプロ集団をディレクションするには、それを行うに特化した知識と経験が必要なのだ。作曲家がピアノで弾く自作自演は、音楽的に興味深いものとなり得るが(そう思い、2017年の演奏会では近藤譲自身にピアノを弾いてもらった)、現代の観客に聴かせられるだけのコントロール力が足りないことも多い。指揮者として演奏家の集団をディレクションするに必要なメチエは、一つの楽器を習得するのに似ている。よって、今回の演奏会では、近藤譲作品という、クラシック音楽の文脈からは些か特異な音楽を適切にディレクションするために、リハーサル前の段階で、石塚、渡辺俊哉、星谷丈生、石川征太郎らが徹底的に議論。石川はその議論の結果を取捨選択しながら、演奏家のディレクションに取り組む体制を、庭園想楽との共同制作という形で実現する構えである。

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 近藤譲がモートン・フェルドマンについての講演で、次のようなことを話していたことを思いだす。フェルドマンには、ニューヨーク・スクールをはじめとした画家/美術家の友人が大勢いた。音楽家の友人より画家の友人の方が多いくらいでもあった。フェルドマンはそうした友人のアトリエで、ちょっとした手伝いをして小銭を稼ぐことがあったという。マーク・ロスコは、キャンバスの大きさがしっくり決まらないと、描くべきイメージを掴めない人だった。フェルドマンに手伝ってもらいつつ、ロスコはキャンバスの大きさを様々に変えて吟味する。そして、自らがこれと思うサイズを見つけるまで、ひたすらその調整を続けていく。

 このロスコの逸話が、近藤譲の創作にそのまま通じることに気が付いたのは最近のことだ。近藤にとってキャンバスの大きさに相当するものは何か。それは、楽器編成の大きさであり、どの楽器をこれに含めるのか、という選択に他ならない。ただ、ロスコとは違い、近藤は自らが気に入った編成が決まるまで作曲に取り掛からない、ということはない(音楽作品の委嘱とはそうしたものだ)。しかしながら、編成の大きさと、その中にどのような楽器が含まれているか、を、近藤は作品の造型と関わる本質的な問題と捉えていることは間違いない。

 その結果、近藤の代表作といわれる作品は、オーケストラよりも様々な編成による室内楽により多くみられる。これは、編成がある程度固定しているオーケストラよりも(ただし、そんなオーケストラに対しても、トロンボーンを8本などと、常識はずれの編成を提案するのが近藤であるのだが)、楽曲ごとに異なる編成を一から選択できる室内楽の方が、上記の近藤の作家性に合致していることの証拠ともいえよう。よって、今回の公演を作るに当たっては、オペラシティが制作する管弦楽の個展よりも、むしろ当方が制作する室内楽個展の方が中核である、という意識をもって取り組む心算である。こうした近藤譲という作家の本質を、コンポージアムという国際的な場にあつまる音楽家たちにプレゼンしていくことも、我々の大切な役割ではないか、と考えている。

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 1973年以降、近藤譲の創作は「線の音楽」という、旋律的な線を設定し、それを聴き手に辿らす中で、その感性を擽(くすぐ)る方法論によって作曲されている。当初、単旋律によっていた「線」は、次第に厚い和音の連接となり、あるいは、一定の長さをもつ音楽的塊の連接となるなど、その内実は様々である。しかしながら、近藤は大オーケストラのための作品すら、一本の旋律的な線として発想していると、時にはスケッチまで公開して強調してきた。自作が線的に構成されていると周知させることは、聴き手の注意を集める、近藤の戦略によるものだ。

 しかしながら、2010年頃より、近藤が一貫してきた方法論にはよらない作品が生まれはじめる。近藤がオケヘムなど、ルネサンス期の極めて複雑な対位法音楽の作曲家に深甚な尊敬の念を抱いていることは良く知られているが、近年の近藤の声楽作品の一部に、極めて複雑な対位法的構造を持つ(つまり、一本の旋律的線をもとにした発想によらない)作品が認められるのだ。

 なぜ、声楽作品に特化して、このような作品が書かれるのか。これは、近藤の声楽作品が、日本語による明解な歌詞をもつことと無縁ではない。歌詞の存在が、抽象的な旋律的線に、意味というマーキングを行う。よって、複雑に旋律線が絡み合っても、それぞれをマーキングする歌詞によって弁別可能となり、従来的の方法論とは全く異なる手法による音楽へと踏み込む土台となった。

 こうした近藤の新側面については、未だに十分に知られているとはいえない。多くの音楽評論家、音楽学者も同様ではないだろうか。ここで、西川竜太が厳しく訓練した3つの団体(とくに混声合唱団「空」は、3団体の中で特にアマチュア率が高いが、近藤譲作品の演奏においては、たとえば、東京混声合唱団以上の能力を発揮するだろう)により、近藤譲の合唱作品が披露されることは、25日の管弦楽公演も、26日の室内楽公演もくみ取れなかった、近藤譲の創作の一側面を顕にすることに繋がるだろう。西川竜太の啓く、湯浅譲二、松平頼暁、鈴木治行に続く合唱作品による個展が、ここに開催される。

この結果、3つの公演が鼎立しながら、近藤の音楽を照射することが可能となり、オペラシティ単体の企画では望みえなかった形で、近藤譲の創作を聴き手に俯瞰して頂く機会が生まれ、コンポージアムという企画を一層意義深いものとすると確信している。ぜひ、東京オペラシティ文化財団主催のものを含め、全ての公演へとお出かけ下さりたい。


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