「応諾」とは何か
今日は「応諾」について書きたいと思います。
日頃、ヨーガをしているとよく耳にする応諾という言葉があります。
しかし、応諾というのは定義が曖昧で、例えばスプーンや猫というように誰がみてもすぐにわかる対象ではありません。
だからこそ考えるのが面白いので、私はわりとよく「応諾とは何か」と考えています。特に、何か事がある度に「この場合の応諾ってなんだろう」と思いますね。
実は、先日このようなことがありました。
関係者の方々がこのブログをおそらく見てくださっているから、あまり詳しく書くといろいろとあるので控えめに書きますが・・それでも大切なことなので書けることは書きますけども、ある仕事をし続けていて、ひとつの傾向が見えたのです。
それは何かというと、「無理しすぎてる人があまりに多すぎるのではないか」ということ。
だって、眠りが浅くなったり、身体に様々なサインが出ていたり、大切な人とちゃんと向き合う時間がなかったり、食生活が乱れまくり、部屋もぐっちゃぐちゃなのが当たり前。
それって、ちょっと無理しすぎていませんか。
それでも、「応諾」という魔法の言葉があるから、ついつい受け入れてしまう。「事が起きる→応諾→無理する」というループによって、日常で無理しすぎるのが当たり前になってしまい、気づくと脳疲労を起こしてしまうほどにヘトヘトだったりする傾向が多くあるのではないか、ということをふと気づいたのです。
では、ここでちょっと立ち止まって考えたいのですが、そもそも応諾とはなんだろう。
言われたことをそのまま受け入れることでしょうか。
辞書をひくと
おうだく【応諾】
《名・ス他》(人の頼み・申込みを)ききいれること。承知。
となっています。これってどういうことだろう。何でも受け入れる事も含むのでしょうか。でもそれをやると、ちょっと危ない気がする。だって、いろんな人がいますから。そして、人間は誰でも過ちを犯す可能性があります。
それと、「応諾=すべて受け入れる」の軸で動くと、そのうち受け入れ続ける側が潰れる可能性大。だって、こっちにはこっちの事情があるので、それをないがしろにして受け入れ続けた時、上に書いたような様々な問題が起きやすくなるのではないでしょうか。
うーん・・・とすると、応諾とはなんだろう。
ちなみに、私が考える応諾とは、以下の順序で成り立つものだとしています。
①現状を認識し、理解しようと努める(そのためには情報収集が必須)
②できる範囲でできることを行なう、できないことは人に頼む、時には断る勇気も必要
※ 補足ですが、行いが社会(共同体)への破壊的行為に繋がってる時は受け入れないですよ!(笑)断る勇気が必要です。
このような順序を経ていくことで、事の理解と社会(共同体)への貢献に向けた具体的な動きが可能となり、ようやく応諾になるのではと私は個人的に考えています。
ちなみに、何か思いがけないことが起きた時に「こんなこともあるさ!」と安易に受け入れたふりして応諾したようなふるまいをすると、それは見事に自分の思いや感情をおきざりにしてしまうので、どこかで心のくすぶりが起きてしまう。そしてその思いがずっとどこかに残るので、今ここを生きるのは極めて難しくなると思うのです。消化不良ということでしょうね。それはアーユルヴェーダでいうアーマかな。これはのちのちかなりの痛手になっていくかと。
向き合う時には向き合う。これをしてこそ、その事象と自分自身を応諾できると考えます。
ここで出てきそうな意見としては、特に伝統を重んじる文化の世界ではありがちなのですが、「師匠がいうことは絶対なので、師匠がいうことは応諾!」ということです。これは上下・支配関係で成り立つ旧時代には合った考え方だと思いますが、横のつながりを大切にする今の時代には不向きでしょうね。この古い価値観に固執していくと、今後おそらくもっと生きづらくなるのではと、私は率直に思います。それでもいいと思う人は貫くのもひとつですが。
なので、応諾という言葉にはちょっと気をつけたほうがいい気がしています。
今を生きぬくためには、自分が何を感じて何を考えたのか、ありのままを否定も肯定もせずに、認識することが大切だよね。これについてはよくいわれていますが、どなたか特別な人に頼まれると、ここの部分を思いっきりをすっぽぬかして受け入れちゃう人が案外多いのです。
応諾。これ面白いですね。
ー今生を生き抜くための智慧を身につけようー
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