古谷田奈月を読んだ

▽10月。読んだことがない作家を読むシリーズで、古谷田奈月。まずは文庫から。面白かったので、既刊の単行本もすべて読んだ。
読んだのは順に、『リリース』(2018、光文社文庫)、『ジュンのための6つの小曲』(2017、新潮文庫)、『無限の玄/風下の朱』(2018、筑摩書房)、『望むのは』(2017、新潮社)、『星の民のクリスマス』(2013、新潮社)、『神前酔狂宴』(2019、河出書房新社)。

▽『リリース』は、革命によって異性愛者がマイノリティになった国に生きる、少数者の物語。
男性の恋人がいたが、性転換(「スイッチ」)で女性の体になる決意を伝えると激しく拒絶されるユキサダ・ビイ。田舎で牛飼いとして母と養父と異父兄弟たちと育つが、首都に住む実父に引き取られ、異性愛者である「ぼくはセクシストだ。ぼくは性差別が好きなんだ」(「好き」に傍点)と気付くオリオノ・エンダ。エンダの大学の同級生のタキナミ・ボナと歌手のアラフネ・ロロは、男性と女性で恋人関係にある。やがてボナはロロと結婚するためにエンダの計画にのり、精子バンクでテロを起こし公衆の面前で死んだと見せかけ、新しい戸籍を得る。
この国では精子バンク(オーセル・スパームバンク)によって同性のカップルが子を持つのが一般的で、18歳から42歳の男性は精子を提供し、それは10人の子供を上限として使用される。ビイの親である女性カップルがバンクで得た精子は、エンダの実父のものだった。序盤のボナとエンダによる狂言テロと、終盤のロロによるコンサートは、ともにバンクのバルコニーで行われ、エンダはテロの後、バンクに勤務する。バンクが主要な舞台になっている。
この作品では、登場人物、国や町、身体の部位などに、独特な名称が与えられている。小説はビイの命名の挿話からはじまる。これらの名称が、いい。たとえば女性器はスリットで、男性器はダガー(縮めてダグ)。こうした固有名が世界を支えている。

『ジュンのための6つの小曲』でも、主人公の少年ジュンが彼の小さな世界で出会うものに独特な名前を付ける。自転車(クロスバイク)、クラスメイトのトクが持っているギター、指揮棒、ピアノなど。風邪をひいたときの自分にも。名前は世界を作る。

▽『リリース』の世界では(登場人物たちが生きる国の、その時代においては)、異性愛は倒錯としてある。
ところで、わたしはカラオケで山口百恵の「愛染橋」を歌うのだが、その中に「うちは愚かな女やからね 愛なんてよう知らん」という台詞調の一節がある。愚かだとは人に言われにくく、何であれ◯◯な女と自称することはまずなく、そもそも東にしか住んだことがないので西の言葉は自分の言葉ではない。何一つ一致しないのにこの歌を好んで歌うのは、自分と違うから面白いのかと思っていたが、年を重ねるにつれ、徐々に、これは自分の言葉なのかもしれないという妙な感覚が生まれてきた。意味や調子に自分に重なる点はないのだけど、これはわたしが倒錯的に言う(言いたい)言葉なのではないか。どうかとは思うが。
『リリース』が面白いのは、ビイやエンダというこの異世界における異性愛者たちの自己意識が、異性愛だからではなく倒錯であることによって、この作品の世界の外の、つまり現実の異性愛者と(いや異性愛者じゃなくても)同じものである、と感じられる点である。
この作品の主人公は、ビイとエンダで、ボナとロロ、あるいはエンダの養父のシュウも主要な登場人物ではあるが、異性愛者で夫婦になっている彼らは、焦点化の対象にはならない。読者が苦悩や歓喜をともにするのはビイとエンダである。つまり、対になる相手がいない異性愛者。たとえばボナが主人公(の一人)だったら、この作品はラブストーリーになる。そうではなく、自己意識の物語。

最新作の『神前酔狂宴』は、軍人を祀る神社の会館の披露宴会場(モデルは明治神宮か)で働く青年浜野の、2003年からの16年間の物語で、浜野の結婚式(それはつまり結婚という制度のことでもある)の捉え方は、時期を追って変化する。序盤は「また結婚してる……」と思う。中盤は、「「おれの新郎」という意識」を持ち、「最新の新郎」を求めて働くことで認められていく(フレーズがいちいち面白い)。そして終盤には、「自分の本心と結婚」(傍点つき)するという女性客の結婚式を取り仕切る。この作品もまた、『リリース』と同じく、ラブストーリーではない、愛の規範に対する省察の物語である。

▽古谷田奈月の魅力の一つに、人物を動物にたとえる表現がある。『リリース』では、エンダは牛飼いとして育ち、牛、特に種牛が終盤で重要な意味を持つ。
物語に関わる牛以外にも、たとえば、「ただのー普通よりちょっと鹿っぽいだけの、かわいい奴だと思ってたんだ」。これはビイが女性になることを恋人に告げて拒絶される場面で言われる言葉だが、後に再会したとき、彼は「鹿っぽい奴がさ、トットコ走っていくのが見えたんだ。アラフネ・ロロのライブ会場にいる鹿なんて、あいつしかいないって思った、絶対そうだと思ったよ」と言う。「鹿っぽい」は、「女っぽいとか、そんなふうに思ったことなかったし、女っぽさがどういうものかなんて、第一、よくわからない」「女って、別に鹿っぽくないよな? それが女らしさってわけじゃないよな? 鹿っぽいのより、熊っぽい女のほうが多いし、ヒョウアザラシっぽいのもいるし……」と、混乱した恋人が「女っぽい」の代わりにビイのことを形容した言葉である。短い遭遇の場面で口にされたこの動物の名前は、彼のビイへの愛着(の記憶)をそのうちに含むものであり、再会のなごやかさがこれによって示される。
魅力的な箇所をもう一つ引いておく。今度は鳥。
「「でも、こっちの言い方が悪かったかも。ごめん。今のじゃまるで鳥に向かって、あんた羽が生えてるよって言ってるようなもんだね」/意味より先に、たとえの愛らしさがきた。手が大きいのも、胴が長いのも、よく似合っててかっこいいよとその後はっきり告げられて、やっと意味が追いついた。「ありがとう」と、妹に言いそびれたぶんも込め、小鳥の落とした綿毛の軽さでほほ笑んだ。」

『望むのは』は、15歳の少女と隣家の同い年の少年の高校生活の話で、その限りではよくある青春小説のようだが、少年の母はゴリラで、担任の先生の恋人で少女が入部することになる美術部の顧問の先生はハクビシンである。動物は、珍しい存在ではあるけれど、世界の中に人物としている。ラスト、クライマックスのシーンで実現する、これまで言及はされていたけれど姿をあらわしていなかったある人物の登場の、堂々として美しいこと。この美しさは、動物が人間たちの中に人物として混在するこの世界ならではのものである。

日本ファンタジーノベル大賞を受賞したデビュー作の『星の民のクリスマス』(原題「今夜の贈り物」)の人間と動物の関係に、この作家の動物の登場人物、また動物にたとえられる登場人物という発想の原型を見ることができる。
『星の民のクリスマス』では、歴史小説家が娘のために物語を創作する。あるとき娘はその世界の中に入り、父も娘を追う。その世界はたしかに彼が創造したものなのが、動物の登場人物が人間になっていた。
その一人、キツツキの子という愛称の少年は、最後にこう叫ぶ。「クソくらえの擬人法!(略)『外』には擬人法以外の小説作法がないのかよ!」、「どうしてテキストの中ではトナカイやキツツキだったものが、実際には人間なんだと思う? 答えは単純、人間じゃなきゃあの役の使命は果たせないからだよ!」、「成人としての権利がすべて手に入る十八になったら、僕は必ず『創作物における擬人法撤廃法案』を議会に通して可決してやるからな!」(クソくらえの擬人法と、人間じゃなきゃ〜果たせないまでには傍点)。「外」というのが、歴史小説家や娘がかつていた世界で、彼(ら)が創作した物語は、動物を人間に換えて、この世界になっている。でもそれは単に人間なのではなく、テキストにおいて動物だったことに由来する性質(仕事とか)を持っている。

▽『無限の玄/風下の朱』は、二作を並べて表題作という扱いにしている(収録作は二作で、どちらも「早稲田文学」掲載)。
『無限の玄』は、玄という名前の父の死が毎日反復されるようになるという話。父は祖父の仕事を継いで息子たち、叔父とその息子でストリングバンドを組んで演奏旅行をして暮らしていた。この男性だけの一家、集団を反転させるように、『風下の朱』は、強豪のソフトボール部を脇目に、野球部を作って野球をしようとする女子大の学生たち四人、特に主人公を勧誘するフレアスカートをはいた一人の先輩の話。どちらも、マイナーな内容で小さい集団を作り、他のメンバーに狂信的にある担当(ポジションや楽器)を強制しようとする人の話で、その集団の中にいて強制される(従う、強い意志の人についていく)側が主人公。
読んだなかではこの二作だけが中篇サイズ。あとは長篇(『ジュン』は各章がある程度独立的で短篇連作に近いが)。『風下の朱』が芥川賞候補になっているのは、分量も理由の一つだろう。長さだけでなく、『風下の朱』と『無限の玄』はこの作家の中では相対的に(現代の)純文学っぽいテイストである。身も蓋もなく言うと、この場合の純文学っぽさというのは「よくわからない感じ」、最後まで読んだけどよくわからない、という感触である。長篇にも、たとえばファンタジーで児童文学っぽいテイストの『星の民のクリスマス』にも、実はよくわからないところはあるのだが、力技で展開して着地あるいは離陸させていて、読後感にもやもやは残らない(と思う)。

▽長篇を動かす力技の何段階かの展開も、華麗な文体も、現代文学の中では珍しい。現代の純文学は、総じて口語・俗語化のほうに進んでいて、少なめの語彙で、シンプルな、ぶっきらぼうな文体を採用する作家が多い。そういう作家が技巧的でないわけではなくて、視点が切り替わって構文がねじれるなど、むしろ技巧的なんだが、一見すると稚拙な文章に見える。ストレートに複雑な構文で、独特な固有名、フレーズを入れて、決めどころは傍点を振って強調する古谷田奈月は、異色だと思う。
読んだことがない作家の場合、その本を手にとるかどうかは、タイトルやごく短い内容紹介、賞の受賞や候補歴、書評や評判、出版社など、少ない情報で判断することになる。当たり前だが、読んでみるまでわからない。古谷田奈月、わりとノーマークというか、こんなに気に入ると思わなかった。読んでみるもんだ。一作一作のよしあしでなく、信頼して、今後継続して全部読むことになる作家だ。

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