沼田真佑を読んだ

▽9月。読んだのは、『影裏』(2019、文春文庫)。文学界新人賞&芥川賞受賞作である表題作と、そのあとに書かれた『廃屋の眺め』、『陶片』という短篇小説が収録されている。

▽『影裏』、文章の密度が高くて、これがデビュー作かと驚く。とはいえ、若いわけではなく(わたしと同い年のようだ)、『影裏』でも他の短篇でも、主人公の生活を埋める仕事以外の要素(『影裏』であれば釣りと酒、『陶片』であれば浜辺で白い陶片を拾うこと)の描写の具体性、主人公が他の人物を理解しているかどうかの加減などに、年齢に見合ったものを感じる。緻密で、テンションは低め。

▽三作とも、「わたし」を語り手にする一人称小説。ただし、「わたし」の基本的な設定は異なり、三十代初めの男性(『影裏』)、五十代手前の男性(『廃屋の眺め』)、四十代の女性(『陶片』)。三人の「わたし」に共通するのは、未婚で、複数の職業・職場を経ていて、お酒を飲むことか。あと、きょうだいの結婚話が出てくることも共通している。
『影裏』の「わたし」は、互助会の会員獲得のための営業をしている元同僚の日浅に頼まれて、結婚式のサービスが受けられる会員になる。「わたし」は花嫁のイメージとして、妹と、過去の同性の恋人の顔を思い浮かべる。『廃屋の眺め』の「わたし」は、最近結婚式ラッシュだという話からはじまって、友人の持ちネタになっている風変わりな経験(知り合った直後に心中した年の離れた夫婦の仲人をたまたまつとめた話)、そして別の友人の葬式で知り合った人とその妻の話(混浴の温泉で妻が夫からの虐待のあとを見せてくる)、と続く。『陶片』は、再婚同士の姉夫婦(姉と義兄それぞれの過去の結婚生活と離婚理由の話もある)とよく行き来している「わたし」に若い女優の恋人エムができて、姉に発覚して注意される話。途中、昔の恋人の靖之から連絡があって、結婚すると聞く場面もある。『影裏』の「わたし」にも昔の恋人から連絡がある。
主人公自身の経験ではなく、近い人、きょうだいだったり昔の恋人だったり職場の同僚だったりの結婚話と、遠い知らない人の結婚話とがあって、もちろんすべて異なる夫婦だが、歪つで妙なものだ、と離れて見る感覚が主人公にはある。否定はしていない、でも自分にはないことだ、という感覚なんじゃないかと思う。『影裏』の、花嫁の笑顔は思い浮かぶのに新郎の顔が浮かばない、という箇所はそのことを象徴していると思われる。

▽酒は、種類や量に意味があるようで(わたしは飲まないので違いはよくわからないが)、作中の人間関係において重視されている。
特に『影裏』の日浅が主人公にとって酒の飲み方が合う相手だというのは重要(だから主人公は、日浅を拒否するときはしつこくすすめられても酒を飲まない)。震災後、行方がわからなくなった日浅を探すために、主人公は日浅の父親に会いに行き、捜索願を出すように迫る。父親は息子が犯罪を犯すような種類の人間だという意味のことを言って拒絶する(この場面の父親の言動は複雑で印象深い)。主人公は、元同僚である日浅を探す過程で、彼が元同僚にかなりの額の借金をしていたことや、大学の卒業証書を偽造していたことを知るのだが、どういう人間かということより、釣りをして酒を飲むという関係性によって、主人公は日浅を好んでいた。
主人公は、自分が見つけた川のスポットに日浅を連れて行き、一緒に釣りをして酒を飲んでいた。酒の種類も、魚の種類もその都度具体的に書かれている。どういう人間かというなら、主人公にはそれで十分なのだろう。
一般には趣味とか生活習慣とかに分類されることがらの具体性が、主人公にとっての特定の人物への思い入れと重ねられて描かれている。『影裏』の日浅なら、釣りと酒をともにすること。『陶片』だと、主人公は拾った陶片を砕いて恋人のエムの絵を描いていて、最後に姉の結婚の引き出物の香炉もそれに使うことにする。

▽細かいことだが、「わたし」が平仮名表記であることはわりと重要だと思う。三作とも、年齢(年代)と性別にはっきり言及もして、そのことが作中で意味を持つのだが、一方で、語り手の口調(つまり文体)はニュートラルである。つまり『陶片』が、男性作者による女語りとか異性装とか呼ばれるものにはなっていない。で、それは性別が作者と同じ『影裏』『廃屋の眺め』も同様で、年齢が上の『廃屋の眺め』もそうである。
主人公の年齢と性別は、他の人たちの結婚の挿話がちりばめられていることとも関連して、作中で意味を持つのだが、でもそれはこの年齢らしい/らしくない、この性別らしい/らしくない人物ということではない。らしさという意味でも、逆にらしくなさという意味でも、年齢と性別は、主人公の言動、思考、口調と結びついていない。それぞれの作品の主人公たち、つまり三人の「わたし」は、もっと、単に個人である。

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