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“嫌い”の枠組み

人は誰でも嫌いな人がいる。嫌いな人がいないなんてのは嘘である。なぜなら好きな人がいるのに嫌いな人はいないなんていうのはあり得ないこと。光があるから影は生まれるわけで光は影がなければ光ではないのと同じだからだ。話を戻す。
嫌いな人には必ず何かしら理由が存在する。その理由は人それぞれで同じような特徴をもつ人間がいてもAは嫌い、BはOKなのだからそれは摩訶不思議である。ではこの嫌いというものの仕組みはいったいなんだろうか。AとBの違いはなんだろうか。を僕は今まで考えたことがなかったが、先日メジャーリーグで活躍するダルビッシュ有選手の記事を読んでおもわず舌を打った。
これはあくまでも1つの意見であると理解していただきたい。それは多くの日本人はどんな物事でもある”型”にはめて評価をしたがるという性質がある。例えば全スポーツマンは短髪で黒髪の髪型で清潔である、ハキハキと話す、などの所謂スポーツマンシップに乗っ取った”型”にはめたがる傾向がある。確かにそれは重要なことであるが、それはスポーツマンに限った話ではなく、一般人として大事なことであって何もスポーツマンだけに求められることではない。且、スポーツマンで一番求められるのは外見や内面ではなく”結果”である。でもそれは二の次にされ、髪の毛が~、髪色が~、タトゥーが、を気にする。
今シーズン素晴らしい成績を残したダルビッシュ有選手。メジャーで最多勝のタイトルを取る活躍やサイヤング賞まであと一歩のところまでいった。本当に素晴らしいことだし同じ日本人として誇りに思う。そんな素晴らしい成績を残したダルビッシュ有選手の活躍になぜか批判の声があったそうだ。その批判の中心はダルビッシュ有選手の髪型。帽子を被ってはみでるワサワサした髪の毛を切れとの声があったそうな。髪切って成績が良くなるのであれば全スポーツ選手坊主にしていることであろう。僕らはどこかでスポーツマンは短髪であるべきだ!と思い込んでいる節がある。それは誰かに言われてそう思い込んでいるわけでもなく、「なんとなくスポーツマンってこうだよなぁ」のフワフワした中で勝手にスポーツマンという枠を作っている。その枠からはみ出している人をみな”嫌う”のである。今はスポーツマンを例したが身近な人(友人、家族、上司)みんなに対してそれぞれに自分が勝手に決めた枠があり、その枠からはみ出てない人間を友人なり家族なり、良き上司と思っている(はず)。
そう思うと人は勝手に”嫌いになるゾーン”を自然と作り上げている。ゾーンの広さは各々違うが自然と作っている。つまり”嫌いな人”を作るのはその人次第である。好きな人を作るのと同様である。
でも、嫌いな人は嫌いだよね。

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