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アルプス乙女ユニオンズ「どん底」

2023/5/18(土) 13:00
上土劇場、公開ゲネ

チラシ表
チラシ裏

私はまだ原作を未読だったし、他の公演でも観たことのない演目だったので、楽しみに劇場へ赴いた。
上土劇場には平台が組まれ、高低差のある舞台が木賃宿となって客を迎える。

昭和、平成、令和と生きてきて、私はまだどん底と言われる状況に陥ったことはない。
食べるものも着るものも、棲むところも、ありがたいことに困ったことはない。
ご存知、どん底は、1900年初頭の帝政ロシアを描く。
その頃のロシアから見れば、現代に住む私たちなど貴族のようである。
その貴族のような人々が演じるどん底に、私は若干の違和感を抱いていた。
木賃宿にいる登場人物たちは、酒と歌が人生の中心のルンペンプロレタリアートだ。
このどん底は、ゴーリキーの「ルンペン時代を葬る挽歌、訣別の辞として知られている」らしい。Wikipedia調べ。

役者個々人でみれば、魅力的な役者たちだった。
ワシリーサ(覇月讃良)は常に不満気にしていて、貧民ながらの高潔さが滲む。
ナターシャ(作田令子)はかわいさがある。ペーぺルを信用していいか悪いか揺れていた絶妙な演技は賞賛に能う。ペーペルの告白シーン前のナターシャが2人きりになった時の空気感の切り替えも見事だったし、ペーペルに対しての最初の警戒も上手に表現できていた。欲を言えば、ラストシーンの客への訴え「私も一緒に逮捕して」近辺こそ言葉の端々を丸くし、ヒステリックさを抑え、健気の化身にしてほしかった。件のセリフを聴くまで健気さの塊ではなく、糾弾と恨みつらみだと思っていた。たぶんそうなんだろうけど。裏切られた絶望感が牙を剥いて、最後はナターシャとしての健気さをぶつけてきた。印象に残るシーンの一つだったことは確かだが、薄寒さも残った。
メドヴェージェフ(林正弥)は公務員の固さや面倒ごとを嫌う性質をよく写していた。
ペーペル(神田健太)は粗野さとナターシャを想う恋心がうまく働きギャップを産む。ぶっきらぼうさと誰かに対して訴える、わかってほしいという芝居がうまい俳優だ。誰も信じるに値しないという猜疑的な演技は粗野さに繋がっていたように思う。それから自分が求めるものをワシリーサやナターシャへの投影していたが、それを狙ってやっていたのだろうか。ただエッセンスとして、彼には「産まれてから一度として理解者がいなかった」というところをどん底として加えて欲しかった。また、もしかしたら農奴解放された者の二世だったかもしれない。その辺も取り入れられたら面白かったかもなと考えてしまう。
ミートリイチ(大久保学)は、当時の暗さを存分に背負い、二束三文にしかならないであろう錠前を黙々と作っていた。誰かのセリフにあった錠前屋としての矜持を持ち、あるかもしれない希望を抱いて。
アンナ(若月彩音)は病を患っていたが、死ぬ手前の病人としての表現をとるか、セリフを劇場中に響かせるか迷うところだ。
ナスチャ(星屑莉奈)は恋に恋する乙女で、売春婦。24歳という設定だが、売春婦としてはとうが立っている。堂々とセリフを発し、役割としての役の表現方法がこの役者を輝かせる。
クヴァシニャ(河野晴美)は場数を踏んでいる役者がやっていてたため、自分の見せ所、そしておそらく演出の意図を一番汲んでいただろう。前に伺ったこたさんの演出像が垣間見えた。真面目さの中の決して嫌味にならないユーモアさが印象に残る。巡査に擦り寄った時の演技は、思わずクスリと笑ってしまった。
ブブノフ(二村明音)は、持ち前の素直な演技で観るものの心を掴む。観終わる頃には、彼女を愛せずにいられないだろう。原作でのブブノフは45歳の帽子屋だ。これを二村明音という役者が演じたことで、このどん底には別の側面が加わったように思う。
サーチン(桝本貫太)は、そのスタイルの良さで視線を集める。常々思うが、目立つ役者はその舞台で少し動いただけで印象を残してしまい、求められる役割は大きい。また、今回は関西弁で喋っていたため、関西圏ではないこちらにすると目立ちが大きくなっていた。
俳優(おしだコージ)は最初緊張からなのか、周りの役者と芝居が噛み合わず、ハラハラしてしまった。しかし、シーンが進むにつれ、足元はしっかりと踏みしめられていく。個人的には、俳優としての演技のシーンと素のシーンでの輝き方を磨いて欲しいと思った。最後もあれだけ見事な「思い詰めた顔」をしてみせたのだ。最後のセリフを印象に残してほしかった。
男爵(あんこ熊王)は、能天気な没落貴族を演じさせたら松本一かもしれない。失礼な言い回しかも知れないが、日和見な貧乏貴族と言われても違和感がない。今最も忙しい俳優の一人で間違いないだろうが、昔観た芝居の臭みがマイルドになっていた。
ダッタン人(カミ)をあのポジションにするなんて、なんという天才的発想だろう。喋り方が役柄に合っていた。「一語一語をきちんと話すこと」を意識していたのか、こちらまでセリフが飛んできていた。そして、いつもの奇抜な動きは抑えられつつ、時にはスパイスとして働き、誠実なダッタン人があそこに誕生していた。そして、最初のカードの時に周りにバカにされた時の憤怒の表情がピカイチで良かった。あれはなかなか出来ない。全身で怒っているを表現していて衝撃だった。思うのは、帝政ロシアでのダッタン人の在り方ってどんなだったのか。周りが彼を仲間として受け入れていたが、木賃宿に住まうとみんな仲間になったのだろうか。
また、ルカ(竹内一成)という巡礼者を歌として起用したことはヒトクセあるなと感じた。歌詞をしっかり聴いた人は、胸に来るものがあったのではないだろうか。私がチラリと見始めたどん底ではそういう役回りだと理解している。

最後に。
これは、完全に私のわがままだが、観た後に胸糞悪くなりたかった。
最後、俳優は首を吊って終わるし、木賃宿の主人や女房、妹、泥棒、巡査と罰が与えられて、いい終わり方ではなかったのに、なぜかハッピーエンドを観た気になっている。
それは、悪いことでは決してない。そういう作り方だった。どん底がどん底である必要はない。
大人数を、しかも初対面の人々が多い中、あらだけの作品に落とし込めたことは、手放しで賞賛したい。
だが、私の好みとして、社会的に価値がない人たちが自分の価値を見つけようともがき、生きる意味を探し、苦しむ。そして、木賃宿に暮らす、命ある人間たちのせめぎ合いを観たかったと求めてしまった。
日露戦争前のロシアは比較的穏やかだったらしい。しかし、あくまで比較的なのだ。農奴解放以降のロシアは暗澹たるものである。
解放された農奴たちは行く当てもなく、どん底にあるような人々になっていく。社会問題だ。
農奴と日本語訳した人は素晴らしいと思う。まさしく、奴隷だ。人権などない。それが約500年の間、当たり前の感覚で扱われてきた。
だがある日突然、農奴から解放する、なおかつ自由と土地を与えると言われる。だが、土地を与えるといえど有償であり、それでさらに元農奴たちの首を絞めた。痩せた土地を与えられたり、土地も狭められてしまう。
教養もなく、経営も運用も農業以外の道を知らぬ人々が突然自分たちでやってみろなんて、私なら無理だ。たぶん、早々に死ぬ。
ワシリーサのセリフに「自由」という単語が出てきたと思ったが、他の登場人物に自由を求める人はいなかったように思う。
農奴解放され、自由になったからこそ、自由ではなく何かになりたい人や今の役割に固執する人がいたような気がする。
自由という言葉がこれだけ無責任に飛び交う令和とは、対照的だと感じた。

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