見出し画像

あのころ、下北沢で 【蜂屋】

20年近くを東海地方で過ごして東京へ戻ってきた私は、今でも東京のあちこちで思い出の答え合わせに夢中になることがある。あの店はまだ残っているだろうか。あの道はまだくねくねしているのだろうか。あの駅は、あの商店街は、あのおじさんは、あのパンは...と、記憶と現実を照らし合わせる行為はとても楽しい。

先日も久しぶりに表参道から原宿へ向かう裏路地を歩いていた。若い頃バイトしていたDCブランドのアトリエは跡形もなく、たらこスパゲティ目当てで通ったスペイン料理屋のビルは地形が変わってもはや場所さえわからない。ランチは懐かしのたらこスパを食べようと予定していたけど仕方ない。私は適当に裏道を進み、適当な店に入り、適当なランチを食べた。

適当に入った割にはとても満足したので、私はまた来ることもあろうかとショップカードを手にした。すると驚いた。「1978年創業」と書かれているではないか。え、待って。78年て。私が原宿に通い詰めてた時にはすでに存在してたってこと? ちょっと待って。当時の原宿にはめっちゃ詳しかったこの原宿通の私が知らないんだけど。

自分で言うのもなんだが、私がその街に「詳しい」と自称するときはその時点での飲食店はほぼ網羅してるということだ。各種雑誌を読みあさり、カネはないが時間と体力だけはたっぷりある若さにまかせ、大きな通りから路地裏までくまなく歩きまくってつかんだ土地勘と店の配置。お金の問題で行ける気がしない高級店だろうが、店の前まで一度は行って確認する。それが自称〇〇通を名乗る上での矜持だ。その包囲網から逃れる店があるとは。

...と、ここで気づいた。このあたり、昔は原宿の範疇ではなかったのだ。

雑誌で「原宿特集」とか組まれても、ここまでは取材に来ないのだ。プチセブンの原宿マップの範囲外になるのだ。おそらく当時は単なる住宅街だったことだろう。街がどんどん増殖拡張していった結果、このあたりまで「原宿」ということになったのだろう。新宿も渋谷も軽井沢も、そして下北沢もそうして広がっていった。

ラーメン

前回も書いたように、昔の下北沢は狭かった。
前回も書いたように、昔の一番街は暗かった。
一番街までくると「シモキタのはずれ」感はぬぐえなかったし、お目当てにするような店もそうそうなかった。

そんな一番街で当時から圧倒的に集客し、いつも満席だったのが「蜂屋」だ。

地図

蜂屋は一番街の端っこにあり、界隈で遊んでいる「街の先輩」から誰ともなく教えてもらういい店だ。バイト先の先輩から教えてもらった私と、美容師さんから聞いたという友達がここで偶然出会ったりした。向こうのテーブルで食べてる誰かの顔を、明日は別の焼き鳥屋で見かけたりした。街角ですれ違った人の顔に見覚えがありすぎて「誰だ、誰だっけ」と3日間くらい悩んでいたら、蜂屋でバイトしていたお兄さんだったこともあった。

金のない若者が集う街・下北沢の中でも、蜂屋はとにかくその安さで群を抜いていた。餃子は100円、ラーメンやチャーハンは150円。1番高かったのがカツ丼で、確か250円だったように思う。私の記憶はそうなってる。だが人によって「ラーメンも100円だろ」とか「カツ丼は150円!」とかまちまちなので、それなりに値上げしていたのか、みんなの思い出補正が強すぎて事実が歪んでいるのかはわからない。ともかく異常な安さであった。

カウンターの中では餃子包み係の人が必死の形相でひたすら餃子を包んでいたが、とにかく餃子は入場者全員が頼むものだから包んでも包んでも瞬時に消えてしまう。包んだものをいったん置いておく箱に少したまったかな...と思った瞬間にガサッと消える餃子のことを私たちは「賽の河原」などと呼んでいた。

餃子

初めて蜂屋を知った10代の時から、私は蜂屋のトリコだった。何よりまずその値段が理由ではあるが、それだけではない。米を炒める、麺を茹でる、肉を揚げる、餃子を焼く、そのすべてが丸見えのオープンすぎる調理場を眺めるのが大好きだったからだ。無愛想だけど失礼ではない客あしらいにほっとできたからだ。さらに繰り出される料理がどれもちゃんと美味しいからでもあった。

そして大人になるにつれ、蜂屋は別な用途にも使われるようになった。それは「大食らいのやつと飲むときにワリカン負けしないようにあらかじめそいつを蜂屋に送り込む」という、ちょっといやらしい作戦だ。500円、いや300円でいい。それくらいあれば若い男の腹をそこそこふくらませることができる。大食らいサイドの方も目の前にラーメン餃子チャーハンがあったなら、それを断るってことはまずない。これぞwin-win。

昭和のその日も私は蜂屋の前にいた。弟とその親友との3人で飲む予定で、いつものように若い衆を蜂屋へ送り込み、私は店の前で待っていた。出てきた彼らに「何食べた?」と聞くと「カツ丼と餃子」「俺はラーメンとチャーハン」という。よし。これでよし。ワリカン負けなし。さあ行こう、飲み屋へ行こう、お姉ちゃんは腹ペコだ。

私たちは踏切を越え、あずま通りへ入り、ジャンプ亭という飲み屋へ入った。そして彼らはまるでカツ丼など食べてないかのようにガンガン注文し、ガンガン食べ、ガンガン追加し、私は若い男の底無し腹の恐ろしさを嫌というほど叩き込まれたのである。ワリカン? 大負けだ。

こちらは雑誌「angle(アングル・主婦と生活社)」に掲載された、1979年の下北沢マップである。私が下北沢で遊んでいたのは80年代だったからすでに知らない店が多々あるが、すごく楽しい。

地図2


めちゃくちゃくだらないことに使いたいと思います。よろしくお願いします。