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vol.1 水の記憶(布施 雪・17歳)

布施 雪(ふせ・ゆき)17歳、高校生

あたしのいちばん古い記憶は、この家の玄関で失禁したこと。おそらく3歳頃だったと思う。もう漏れそうなのにそのことを言い出せなくて、トイレに間に合わなかったのだ。尿が脚をつたっていく嫌な感覚は今も鮮明に思い出せる。それより幼い頃のことは覚えていない。ママいわく、あたしは生まれも育ちもまごうことなく神通川だ。だけど多分、この街に骨を埋めることはしないと思う。理由はわからないけどそう思う。

浴室から水の音がする。お風呂にお湯をためている音だ。これは、今日ママに何かがあるサイン。うちは基本的にシャワーのみだけど、ママがたまにお風呂をはる日は、何か大切なことがあるから気合いを入れる日なのだ。具体的には、太い客の誕生日とか、アフターがありそうな日とか。ママは水商売であたしを養ってくれている。あたしは知らなかったけど、高校に進学したタイミングでママはそのことを教えてくれた。それまでのママは「深夜帯に働いているOL」ということになっていた。今思えば、深夜帯に働くOLっていったいどんな職業だったんだろう。ママは水商売の『隠語』として「深夜帯に働くOL」という言い方をしていただけかもしれない。

あたしの部屋の窓からは遠くに電車が見える。夜のとばりが降りた景色を、連なった光がスーッと走ってゆく。きれいだ。あれは神通ライナーという路線で、特急に1時間くらい乗っていけば新宿に出られる。使わないからよく知らないけど、かなり本数は少ないみたいだ。なぜかというと、神通川の人々に電車は必要ないから。学校とか病院とか大きめの駅ビルとか、必要なものはすべて神通川に揃っているのだ。本当に何もかもがこの街にはある。それに、神通川の人たちはみんなこの街がとても好きだ。それがヤバイ種類の郷土愛だと気付いてしまったのは中1のときなんだけど。かくいうあたしも、別にこの街は嫌いではない。でも多分、ここに骨を埋めることはしないと思う。そのことはうっすらと、確信している。

これから近い将来、もしも大学に行けるなら、そのタイミングで神通川を出て遠くの大学に行きたい。知り合いがひとりもいないような。あとこれは誰にも言ってないけど、できれば宗教学の専攻があるところへ。

布施 雪(ふせ・ゆき) 死因:溺死 享年17

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