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スーパー大学職員と呼ばれたくて:その1からその6まで

 そろそろ引退の時が近づいている。
 理事になれば定年がなくなる。だからいつまでも残ろうと思えば残れる。
 組織というのは学校法人でも株式会社でもそういう面がある。一族経営でなくても、ガバナンスの甘い学校法人の場合、日本大学のように去るべき経営者が残ることも多い。強力なリーダーシップのトップでなくても、居座ることはできる。善人が集まる組織では、自分を支持する理事に徐々に入れ替えていって理事長になることも難しいことではない。そしていつまでも居座れる。そのうちに自分の正義を組織の正義と勘違いする人もいる。
 大学を持っている学校法人の場合、選挙で学長や総長を選んでいるところもある。大学自治、民主主義と組織統治(ガバナンス)。矛盾する要素が複雑に入り組んだ議論になる。学校法人のガバナンス改革はとても難しい。トップを辞めさせようと思うのは、誰かが刺し違える覚悟がいる。誰もそんな馬鹿なことはしない。そんなことをするのはホントの阿呆だ。
 でも、そういう阿呆もいる。
 スーパー大学職員と呼ばれたくて、というこの文章を書き始めて気づいたことがある。
 ニーチェの言う「超人」は、神ではない。苦しい体験をして、それでももう一度その体験をしてもいいと思える人だ。「スーパー=超」大学職員というのもそういうものだろう。自らの能力を超えて、挑戦し、失敗し、それでも立ち上がり、今とは違う世界を作ろうとする人だろう。もし自分に神から与えられた才能があると気づいたとき、大事なのはその才能を誰のために使うかということだ。組織の中の、世の中の恵まれない人たちのために使ってほしい。それが自分のためであると思ってほしい。
 偏差値ランキングという馬鹿な価値観に支配されている日本。それで人々、受験生が動いている事実は否定しない。模擬試験の結果で表されるその数字が統計的にある種の学力というものを示すことも嘘ではないだろう。東大に合格する人の記憶力は、Fランクと呼ばれる大学にしか合格できない人より優れているのだろう。それが社会の実力だと思う人々がいる。高額な報酬を手に入れるのは当たり前だと思う人々がいる。
 でも、それらの人々がどういう世界を作ろうとしているのだろうか。どういう感性に共感し、人々のどういう痛みを感じられるのだろうか。
 人類がともに生きる世界を作る。
 それは偏差値ランキングという世界とはまったく別のものだろう。
 大学職員、学校法人の職員になった人は、今の日本の教育を変えようとしてほしい。
 あと何回かで私がこの文章を書くことは終わるだろう。
 暇な人は、一度、通してお読みください。


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