悪魔の棲む家 後編

高瀬 甚太

 「解せないのは、小林から相談を受ける前、私の元へ加藤院長から電話がかかって来たことだ。私は死者から電話をもらったことになる。あれはどのように考えたらいいのだろうか? 丸物不動産の件もそうだ。私は間違いなく小林と共に不動産会社へ行き、そこで橿原専務と話をした――」
 慧眼和尚はしばしの沈黙の後、井森に言った。
 「冥界という言葉を知っているかね。死後に行くとされている世界のことだ。霊魂が行くとされている世界だが――」
 「知っていますとも。和尚もご存じのように、私はこれまで霊の世界を体験したことが何度もある」
 「そうだな。冥界は、超常的な観念や表象によって作り出されたもので、死後の生という経験的に立証することのできない事象が人々の心象世界にある種の実在感を持って根を下ろすと言われている。わしが思うことは一つ、編集長は稀有な体験をしたということだ。
 まず、小林が冥界に引き寄せられ、その小林が編集長を呼び込んだ。そこにあるのは、加藤院長の無念の死だ。加藤院長は自分を殺害した人間が誰かわからないまま、強い怨恨を抱きながら、長い間、冥界をさ迷い続け、成仏できないでいたことと思う。冥界のことなど知る由もないが、考えられることは、さまざまな偶然が、成仏できずにいた院長の霊魂を呼び起こしたではないかと私は考えた」
 「さまざまな偶然?」
 「想像するに、芦原と橿原は、警察の手から逃れるために、長い間、土地の処分が出来なかった。奪った金は使い果たしただろうが、土地は売ることが出来なかった。土地を売れば、立ちどころに足が付く。二人はそう考えたと思う。だが、時間の経過と共に背に腹を替えられなくなった芦原と橿原は、警察に気取られない方法で、すっかり荒れ地になっていた加藤院長の土地を更地にし、売却しようと考えた。不動産業者の橿原のことだ。長い時間をかけて自身に疑いがかからないよう巧妙に土地の売却を行ったのだろう。だが、土地を売却したものの、地鎮祭を行う段になって異変が起きた」
 井森が「アッ」と声を上げて慧眼和尚に聞いた。
 「それがさ迷える加藤院長の霊魂をこの世に呼び戻したそもそもの偶然なのか?」
 「そうだ。霊魂となってさ迷っていた加藤院長は、地鎮祭が行われたことによって、初めて自分を殺害したのが芦原と橿原(専務の祖父)であることを知ったのだろう。怒りに狂った院長の霊魂は土地に異変を起こし、建物を建立させないよう謀った。この時、憎悪のエネルギーを蓄積した院長の魂は悪魔の化身に化したと思われる」
 「だが、仮にそうだとして、なぜ、芦原の住まいを購入した人間が次々と不幸な目に遭ったのだ。しかも私まで巻き込まれてしまった」
 「悪魔の化身となった加藤院長の霊魂は、芦原の住まいに棲みついたと思われる。その証拠に、小林以前の人間たちは次々と不幸な目に遭い、小林も同様に不幸な世界に導かれた」
 「私に連絡が来たのはどういうわけなのだろうか? 私は加藤院長に電話をもらい、知り合いである可能性が強いと判断して、小林の依頼を無下に断ることが出来ず、引き受けた。加藤院長はなぜ、私をここへ呼び寄せたのか――」
 「これはわしの勝手な想像だが、多分、編集長はずいぶん以前に加藤院長と出会っている可能性が高い。その時の印象がよほど強かったのだろう、院長は診察に訪れた小林に編集長を紹介した」
 「だが、小林が訪れた時、すでに病院はなく辺り一帯空き地だったのではないか」
 「小林は芦原の住まいに住むようになってすぐに冥界に引き込まれ、悪魔に化身した院長に惑わされ、ありもしない病院に引き込まれ、院長の亡霊に診察を受けた可能性が高い」
 井森の脳裏にその時の情景が過る。
 小林は、院長から井森の名刺を渡されたといった。仕事柄、井森はたくさんの人間に出会う。加藤院長にもどこかで会って名刺を交換している可能性があっても不思議ではない。事務所に戻れば、院長の名刺が見つかるかも知れない。
 しかし、和尚が言うように、井森が小林と共に冥界に引き込まれたとしたら、一体、どの時点でのことなのだろうか。井森の脳裏を再び回想が巡る。

 ――二階建ての丸物不動産は、県道に添って立つ大きな建物だった。交通量が意外に多い場所なので、駐車場も広く、確かにクルマが停めやすい、誰もが寄りやすい場所であった。
 しかし、その場所に不動産会社はなかった。井森が訪問してから、それほど時間が経っているわけではない。
 丸物不動産の担当者に小林の住まいの前の持主を尋ねた時、担当者はいかにも面倒だというふうに「わからない」と答えた。井森が「人の命がかかっている」と語気を荒げて言って、初めて担当者は上司を読んだ。それが橿原専務だった。
 橿原専務は恰幅のいい中年男性で、最初のうちは個人情報に抵触すると言って、逃げようとしたが、井森が、
 「住人の小林さんは、あの家の霊に囚われて、今、大変な目に遭っています。このまま放置しておくと間違いなく、小林さんは命を奪われます」
 と訴え、
 「小林さんの前に住んでいた住人はどうなりましたか? その前は? そのことを小林さんに最初に説明していますか。おそらく何も説明していないでしょうね。事故物件を購入者に説明しないで売ると、これは完全に違反になります。どうですか。訴えてもいいんですよ」
 と言って初めて橿原専務は胸襟を開き、井森にすべてを説明した。
 その時、橿原専務の言った言葉が以下だった。

 「あの建物は、二〇年ほど前、船場で繊維問屋を経営していた芦原正人さんという社長が建てたものです。芦原さんは、資産家で芦屋や大阪の帝塚山にも豪壮な家を持っていたのですが、繊維不況が災いして急激に没落し、その上、株の暴落などで、手痛い打撃を受け、経営していた会社のほとんどが倒産し、資産のほとんどを失ってしまいました。唯一残されたのがあの建物です。そこで夫婦二人で住んでいたのですが、その奥さんにも先立たれ、芦原さんは、ひっそりと暮らしていました。
 ある時、そんな芦原さんの元へ、芦原さんの元愛人の息子と名乗る男が現れました。その愛人とは確かに一時期付き合い、面倒をみて来たことあったようですが、子供が産まれたなど聞いていなかったので芦原さんは大そう驚いたようです。自分の息子である証拠をみせるよう、迫ったそうですが、その息子と名乗る男は何も証明することなく、芦原さんの家に居座ったのです。
 芦原さんの生活は一気に破たんを来しました。と言うのも、芦原さんの息子を名乗るその男は芦原さんに対して異常な行動を起こしたのです。遺産を根こそぎ奪おうとしただけでなく、家の改造を勝手に始めてしまったのです。
 小林さんが住まっているあの建物も、元は和の建築様式でした。息子を名乗るその男が、芦原さんの了解を得ずに家の半分を無理やり洋式の家に建て替えさせようとしたものですが、突然、息子が失踪し、途中で頓挫しています。
 私共は芦原さんとは先代からの付き合いで、かねがね芦原さんから息子に対する苦情を聞いていましたので、いなくなったことを手放しで喜んでいました。
 ところが、そんなある日、芦原さんの元愛人が訪ねて来て、息子を殺したんじゃないかと芦原さんに迫ったのです。芦原さんはその頃、すでに90歳近い高齢で、とても人を殺せるような体力などないし、またそんな人ではありません。しかし、元愛人は、息子が殺されている、調べてほしいと執拗に警察に願い出て、警察が芦原さんの家を捜査した経緯があります。しかし、殺害の痕跡など当然のことながらどこにもなく、警察の捜査は終了しています。
 その後、ほどなくして芦原さんは死因が不明の不審死を遂げています。家の名義は芦原さんの孫に継がれましたが、その孫も交通事故で死亡し、持ち主不明になっていた家を私の父親が買い取ったというわけです」
 橿原専務が語ったあの言葉、そのすべてが虚構であったとは到底、思えなかった。
 愛人の息子と名乗った男は未だに見つかっていない。芦原の死も、不審死と言われているが、その死の要因が何であったか、未だにわかっていない。芦原の家に住んだ三人の居住者も不審死を遂げているのも不思議だ。
 「一人は杉本さんというガソリンスタンドを手広く経営されていた方で、家を買われて一年目に不審な死に方をしています。一応、死因は心臓麻痺ということになっていますが、芦原さんと同様に疑わしい点がたくさん見られました。共通しているのが、三人共、本人を残して全員、家族が家を飛び出して離婚しているということですね。一人だけ残って不審死をする。このパターンです。もちろん何度もお祓いし、呪われた家という噂が立たないよう気を付けて来ましたが、効き目はありませんでした。小林さんの場合、あの家を買いたいと言って来られた時、何度か考え直すように進めてきた経緯があります。それでも小林さんの決心が固かったので売却しましたが――」
 とあの時、専務は語った。
 その小林もまた、離婚を余儀なくされ、自身も霊的現象に見舞われている。井森が、先住者に不幸な出来事が相次いでいることをなぜ、小林に告げなかったのかと諭すと、専務は言った。
 「手を打てなかった、というのが正直なところです。私たちが第一の住居人や第二、第三の住居人の力になろうとすると、なぜか邪魔が入ります。小林さんからも再三、家の元の持ち主について尋ねられましたが、私たちは一切、口に出しませんでした。そうしなければ、私たちが呪われる、そう思ったからです」
 丸物不動産の担当社員が第一番目の居住者に元の持ち主の話をして聞かせると、第一居住者が不審死を遂げた後、その担当者も不審死をしたのだと専務は語り、第二の居住者に、別の担当者が元の持主について聞かせた時も、その担当者も同様に不審な死に方をした。話せば呪われる、そう感じたことで、その後、一切、元の持主について話すことはしなくなったのだと、専務は語った。
 しかし、そこに書かれていた内容は、特別なものではなかった。洋式の住まいへのリフォームの指示が主なものであったからだ。
 ――それらのすべてが冥界の作った虚構世界であったとは、井森はすぐには信じることが出来なかった。

 「和尚、もう一度、丸物不動産のあった場所に行きませんか? 私はあの場所に謎を解く鍵があるような気がしているのです」
 慧眼和尚は、井森を見つめて言った。
 「小林の家だが、今は鎮まっているが完全に収まったわけではない。わしの霊力では完全に抑えきれることが出来ない。出来るだけ早く次の手を打たなければ、編集長、きみにも危険が迫る」
 井森もそれは感じていた。未だに目を覚ましていない小林のことも心配だ。だからこそ、井森はもう一度、丸物不動産のあった場所に行ってみたいと思ったのだ。
 「しかし、あの場所には何もなかったじゃないか。無駄だと思うのだが――」
 慧眼和尚はそう言いながらも井森の提案を尊重し、タクシーを拾って再びあの場所に向うことにした。
 県道に沿って走り、丸物不動産のあった場所に近付いたところで、井森は運転手に尋ねた。
 「この辺りに不動産会社がありませんでしたか? 丸物不動産という名前です」
 年嵩の言った運転手は記憶を探るように目を瞑ると、ハッと思い出したかのように、
 「そう言えば、その名前だったかどうか、記憶が定かではありませんが、県道沿いに不動産会社が一軒ありました」と声高に言った。
 「それはどこにありましたか?」
 「この県道沿いをもうしばらく云ったところです」
 「もうしばらく行った――? そこへ私たちを案内してください」
 県道は緩いカーブが幾重にも続いていて、その風景はどこも同じに見えた。井森は自分が思い違いをしていたことに、その時、初めて気が付いた。
 ――数百メートルほど行ったところに建物があった。いや、建物というよりはそれは残骸のようなものでしかなかった。残骸のそばに朽ち果てた看板が崩れ落ちていた。そこにはっきりと『丸物不動産』の文字があった。
「いつ頃、潰れたものかわかりますか?」
 井森が聞くと、運転手は考える間もなく首を振った。
 「私がタクシーの運転手をやり始めた頃はもうこの状態でした」
 ここが不動産会社であったことなどわからないくらい朽ち果てた建物を呆然と見送りながら、井森は混迷した。やはり、自分は冥界に操られていたのかと――。
 「編集長、気になることがある。車を降りて建物に近付いてみよう」
 慧眼和尚に急かされるようにして井森は下車した。
 「どうしましょう。このままここで待っておいたほうがいいですか? それとも時間がかかるようでしたら別のタクシーに乗り換えますか?」
と運転手が井森に聞いた。
 「料金を払っておくよ。ありがとう。時間がかかりそうだ」
 料金を支払っているうちに、いつの間にか和尚の姿が見えなくなっていた。
 倒壊寸前の建物の中に和尚は先に入ってしまったようだ。井森も慌てて和尚を追いかけた。
 二階建ての建物だが、二階部分はほとんど朽ち果てていて、一階部分がわずかに原型をとどめている。いつ何時、崩れ落ちるかわからない、そんな怖さがこの建物にはあった。
 ――小林と自分は、ここへやって来て、朽ち果てた建物の中で専務と話をしたのだ。
 そう考えると身体が芯から震えた。小林から電話をもらった瞬間に、自分は冥界に嵌ってしまっていたのだ。それを井森は改めて認識した。
 小林からの電話相談、加藤院長からの電話、どこからどこまでが真実でどこからどこまでが冥界なのか、今となっては見当も付かない。今もそうだ。操られ続けているのかも知れない。それでも、井森がこの地に呼ばれて、冥界に招かれたのには何か理由があるはずだ。そうでなければ、何の縁もない井森をこの地に招くはずがない。
 「編集長、これを見たまえ」
 廃墟と化した一階の奥まった場所に立った慧眼和尚が井森を呼んだ。
 薄暗く、どんよりとした空気が漂っている。和尚の指さす先に、一枚の白い紙が無造作に置かれてあった。
 「これは?」
 「手紙ではないか。編集長がこの不動産会社の専務に見せてもらった何かではないのか」
 あの時、専務は棚の奥から封書を取り出し、それを井森に見せた。
 ――芦原さんから祖父に送られてきた手紙です。
 と、専務は言った。封書の中身を読むと、何の変哲もないリフォームの指示書だった。井森もあの時、それを見て、なぜ、こんなものを大切に仕舞っておいたのか、不思議に思ったものだ。
 その手紙を改めて読んだ井森の表情がみるみるうちに変わった。
 「和尚、この手紙だが、もしかしたら――」
 手紙を握りしめた井森は、和尚に向かって大声を上げた。

 パトカーが数台、列を成して小林の自宅前に急停車した。刑事課の人間と鑑識係が数名、小林の自宅に慌ただしく駆け込む。
 「もし、何も出て来なかったら大問題ですよ」
 所轄の刑事は井森に釘を刺し、鑑識に指示を出した。
 「大阪府警の原野警部から依頼されたから来たのです。いいですね。もし、何も出て来なかったら、あなたに責任を取ってもらいますよ」
 井森は、自分が依頼しても警察が行動を起こさないことをこれまでの経験で知っていた。そこで旧知の大阪府警の原野警部に理由を話して、地元の警察に声かけしてもらった。
 原野警部は、大阪府警の警部ではあるが、関西一円に名高い検挙率の高い警部としてつとに知られている。その警部のたってのお願いということになれば、いかに尻の重たい警察であっても動かないわけには行かない。
 丸物不動産の廃墟で見つけた一枚の手紙は、芦原が橿原専務の祖父に宛てたリフォームを指示した手紙だった。従来であれば、建築や内装とは専門外の芦原が口を出すようなものではなかったが、わざわざそれを橿原の祖父に指示している。それを改めて見た井森は、その指示書が何を意味するものであったか、この時、初めて理解した。
 ――解体された壁の中から三体の遺体が現れた。警察関係者が挙って驚きの声を上げたことは言うまでもない。
 手紙に書かれていたのは、死体の隠し場所がわからないようにと暗示した文章だった。
 遺体は、井森が案じていた通り、DNA鑑定の結果、芦原の愛人の息子と母の遺体であることが判明した。だが、もう一体の遺体が誰であるか、すぐには判明しなかった。
 愛人の息子の暴挙に業を煮やした芦原が、橿原の祖父の手を借りて二人を殺害し、壁に埋めたものだという推理は容易に成り立つ。共同正犯として橿原の祖父の名が挙がった。
 しかし、二人を手にかけた殺人者である芦原と橿原の祖父はすでに亡くなっている。この事件は、被疑者死亡のまま送検されることになった。

 「壁から遺体が掘り起こされたことで、一応、事件は解決したものの、これで霊魂は鎮まったのでしょうか?」
 不安を隠せない井森の問いに対して、慧眼和尚は厳しい表情のまま天を仰いだ。
 「わからない。だが、まだ何かある。それが何かはわからないが――」
何かとは一体何か? 事件は解決したはずだ、と井森は思った。
 その時、和尚がいきなり大声を上げた。
 「編集長、小林はどうした? 目を覚ましたか」
 そういえば小林はどうしているのだろうか。意識不明のまま病室で眠っているはずなのだが――。
 「意識不明の状態が続いているはずですが……」
 「小林が収容されている病院へ行こう。不吉な予感がする」
 慧眼和尚に急かされるようにして、井森は病院へ急いだ。小林の住まいから病院までは三キロほどの距離だ。警察の車に便乗して、二人は病院へ向かった。
 しかし、ICUの中で点滴を受け、意識不明の状態が続いているはずの小林の姿がどこにもなく、空のベッドの傍らに意識を失い倒れている看護師の姿があった。
 「しまった!」
 慧眼和尚が唇を噛んだ。
 「なぜ、もっと早く気が付かなかったのだろうか――」
 歯ぎしりする和尚を見て、井森は意外に思った。小林は言ってみれば被害者だ。意識を回復して、ベッドから抜け出ただけのことではないか。看護師が倒れていたことの説明はつかないが、もしかすると小林は誰かにさらわれて行ったのではないか。そんなふうに井森は考えていた。
 「編集長、大変だ。一刻も早く小林を捕まえなければ――」
 「捕まえる?」
 和尚の口から飛び出した意外な言葉に井森は驚きを隠せなかった。
 「小林が今回の件の張本人なんだ。急いで捕まえなければ大変なことになる」
 わけがわからないまま、井森は小林を探すべく病院の周囲を探し回った。
どうして小林が――。
 しかし、井森の問いに答えようともせず、和尚は病院の外へ飛び出した。
小林はすぐに見つかった。病院のすぐそばにある公園のベンチに座り、追ってくる井森と和尚をじっと見つめていた。
 「よくわかったな。大したものだ」
 血走った目、青い肌、小林とは思えないその姿に井森は驚きを隠せなかった。
 「小林、一体、どうしたんだ?」
 近寄ろうとする井森を和尚が制した。
 「編集長、近付いてはいけない。小林の姿を借りた奴は、すでに悪魔の化身だ」
 「悪魔の化身?」
 井森が驚きの声を上げると同時に、悪魔の化身と化した小林が姿を豹変させ、すさまじい勢いで井森に飛びかかって来た。
 「キエーッ」
 怒髪天を衝く和尚の声がこだますると同時に、和尚の手から放たれた大粒の数珠が悪魔と化した小林の脳天を貫いた。
 すべては一瞬の出来事だった。小林の姿を借りた悪魔は雲散霧消した。
 呆然と立ち尽くす井森は和尚に聞いた。
 「和尚、一体、これは――?」
 慧眼和尚は、流れる風に身を任せ、つぶやくように言った。
 「すべては仕組まれていたんだよ」と。

 芦原の洋館の壁に埋められていた遺体のうち二体は、芦原の愛人と愛人の息子であることはDNA鑑定ですぐに判明したが、もう一体の遺体、それが誰であるか、すぐには判明しなかった。やがて、その一体は比較的新しいものであることが判明し、慎重な鑑定の結果、小林の遺体であるという意外な事実が判明した。
 住居の持主である小林の遺体がなぜ、壁に埋められていたのか――。それは井森にとっても大きな謎だった。

 「司直の手では永久に解決出来ずにいた今回の事件――。つまり、加藤院長を殺害した犯人が誰であるか、迷宮入りしてしまったこの事件、それを世の中にさらけ出して欲しいというのが、冥界に棲む院長の霊魂の大きな目的であったと思う。
 それまでも土地の建設を妨げたり、芦原の元の住まいに住む人間を死に至らしめたり、さまざまな方法を講じて来たものの、一向に事件の謎は解明されずにいた。
 芦原と橿原への院長の憎悪は、二人だけにとどまらず、その血縁まで及んだと思う。その証拠に、丸物不動産は消滅し、芦原の家に住む者もそれぞれ呪われた。他にも血縁を辿っていけばさらにその被害は広まるだろう。悪魔と化した院長の霊魂が最終的に求めたものは何であったのか、私は、それは自分を殺害した理不尽な殺人者を告発することにあったのではないかと想像する。
 警察関係の捜査では多分、この事件の本質は導きだせない。そう思った院長の霊魂は、芦原の住居に住むようになった小林を追込み、殺害し、その小林の姿を借りて井森編集長、きみをこの地に招いたのだ。
 小林に化身した院長の霊魂は、きみを巧みに誘導し、最終的に事件の解明に導くと共に、壁に埋もれていた二人の遺体と、小林の遺体を発見させることに成功した。
 ただ、成功と同時に、悪魔の化身と化した院長は、きみも同時に冥界に追い込もうとした。たまたま私が、今回の霊魂と対等に戦えたからよかったものの、そうでなければ、君は今、この世には存在していない」
 慧眼和尚の解説には異論を挟む余地がなかったものの、不可思議な点は幾重にも亘ってあった。まず、なぜ、井森がこの地に呼ばれたのか。もっと相応しい人物がいたのではないか、と井森は考えた。だが、和尚はそれを一蹴した。
 「何かの用件で院長がきみに会っていたこと、名刺を交わしていたことが大きかったのではないか。それと、きみはこの世界では結構、有名人なのだよ。私は危険人物だが、きみはそうではない。この世で果たせなかったものをきみなら晴らしてくれる。その期待もあったのだと思う」
 信じられない話だと、井森は思った。自分にはそんな力はない。ただ、利用しやすい人間であっただけの話だと、和尚の言葉を訂正した。
 「小林に悪魔の化身が乗り移っていたとわかったのはいつのことだ?」
井森の問いに、和尚は笑みを湛えて答えた。
 「芦原の元の住まいでわしは悪魔と戦った。その時、わしは霊力で悪魔を退散させた。それなのに悪魔の気配が消えていない。あの時、おかしいと思ったのだ。だが、その時わしはまだ気付いていなかった。悪魔が化身していた小林はあの時、わしの強い霊力を受けて意識不明の状態に陥り、病院に運ばれた。もう少し気付くのが遅ければ、回復した悪魔の化身に二人共、やられていたかも知れない。幸い、回復途上で、逃げ出していたため、倒すことが出来たが――」
 慧眼和尚の霊力の威力は井森もよく知るところだが、あれほどの強い魔界の能力を持つ、悪魔が、和尚の霊力を受けて、いとも簡単に消失してしまったことが不思議でならなかった。
 「小林は悪魔に殺され、壁の中に埋められたのか?」
 「悪魔が殺したかどうかは定かではない。悪魔が誰か第三者の手を借りて、壁の中に埋めるよう唆した可能性はある。壁に埋めさせたのは、芦原の犯行をさらけ出す意味もあっただろうが――」
 「もし、その第三者が悪魔に唆されて小林を殺害したとしたら」
 「いずれどこかで死体となって発見されるだろうよ」
 「それにしてもわけのわからない事件だった」
 井森が感慨深げに語ると、和尚はまた笑い、
 「冥界が絡む事件は常にそんなものさ。善悪を超えた人間の理知を超えたところにあるからな。今回の事件は、執念が起こさせた事件といっても過言ではない」

 和尚の言った通り、一週間後、芦原の住まいから少し離れた空家の中で、前科を持つ男性の変死体が発見された。自殺とも他殺ともつかないその死体を見て、今回の事件と関連付ける者など誰もいなかった。
《了》

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