闇に向かって叫ぶ

高瀬 甚太
 
 見知らぬ人から手紙が届くことは、出版の世界ではそう珍しいことではない。
 出版した本に対する意見や中傷、あるいは感想など、もらえばそれなりに手応えを感じて嬉しいものだ。
 ただ、稀に不思議な手紙が届くことがある。たとえば、つい先日のことだ。極楽出版の井森の元にこんな手紙が届いた。
 
 ――編集長様、初めてお便りさせていただく失礼をお許しください。
 私は、神戸に住む、もうすぐ五十歳になる主婦です。うちの主人が、あなたの出版する本のファンで、私も主人から借りて時折読ませていただいています。
 出版された本の中で1冊、とても気になる記述がありましたのでご連絡させていただきました。
 『霧の思考、霞の思考』というタイトルの本ですが、その一節に「闇に向かって叫んでごらん。その声を闇が吸い取ってくれ、願いを叶えてくれる」の一節がありました。多分、何かの比喩ではないかとは思いましたが、それを読んだお調子者の主人が、窓を開け放って闇夜の外に大声で「俺を課長にしてくれーっ!」と大声で叫んだのです。私の家は少し山深い場所にあって近隣の住宅とは少し距離が離れています。だから大声を出しても近隣の迷惑にはならないのですが、声を上げて叫んだ後、主人は私の方を見て大笑いしました。
 主人は会社で、不遇をかこっています。真面目で仕事もよく出来るのですが、要領が悪くて損をしているとよく言われます。万年係長といった評判が私の耳にも届くほどです。
 そんな主人ですが四十代半ばになってからは、さすがに焦りが目立つようです。同期が次々と課長や部長になっているのですから無理もないと思います。
 ところが不思議なことって本当にあるものですね。主人が暗闇に向かって大声で叫んだその翌日、突然、辞令が下りて、総務課長に推挙されたのです。
 その夜のことです。家でお祝いをしている時、主人が、
 「昨夜、暗闇に向かって叫んだのがよかったのかもしれない。試しに今日も叫んでみようか」
 と言い始め、私が止めるも聞かず、大声で、
 「俺を金持ちにしてくれ」
 と叫んだのです。もちろん私も主人もそれが現実になるなど端から信じていませんでした。ところが、翌日の日曜日のことです。主人が普段は行かない競馬場へ行き、なんとそこで大穴を当て、百万円を手に入れたのです。競馬の知識などない主人の大当たりに驚きました。
 「いやあ、たまたまウインズの前を通りかかったものだから、昨夜のことを思い出して馬券を千円で3連単を一枚、買ってみたんだよ。驚いたの何のって」
 大喜びの主人は、帰宅するなりその百万円を私の前に置きました。二日連続でこうしたことが起きるなんて、まさかとは思いましたが、その時はまだ、暗闇に叫んだことで幸運を得たなどとは、私も主人も信じていませんでした。
 その日から三日が過ぎた夜のことです。帰宅した主人の顔色が土気色であまりにもよくなかったので、どうかしたのですか、と尋ねました。しかし、主人は、無言で何も答えません。でも、私には、会社で何かあっただろうことはすぐにわかりましたので、それ以上聞くことはできませんでした。
 食事の用意をする時には、すでに主人の顔色は元に戻っていました。主人の会社は中小の会社ですが、派閥争いが激しくて、足の引っ張り合いが多くて困ると、以前から主人はよくぼやいておりました。社長派と専務派と分かれて、勢力争いは五分五分だと聞いたことがあります。主人はそのどちらにも属せず高見の見物を決め込んでいたようですが、課長に抜擢されたことでそうもいかなくなったようです。それが原因なのかと思いましたが、食事中も主人は相変わらず無言で、黙々とご飯を食べています。ご飯を食べ終え、片付けようと私が席を立った時、突然主人が聞くのです。
 「定年まであと七年ほどだが、今、おれが会社を辞めたら困るか?」
驚きました。そんなことを主人が言うのは初めてのことでしたから。でも、主人の決心が固ければ、それでも構わないと思いました。
 「困るけれど、何とかなるでしょう。貯金も少しはありますから」
 私がそう言って笑うと、主人は「ありがとう」と言って小さく頷きました。
 その夜のことです。ふと目を覚ますと、主人が窓辺に立っているので驚きました。
 「どうされたのですか?」
 と聞くと、主人は突然、窓を開け、大声で叫んだのです。
 「高田常務を殺してくれ!」
 確か、そう叫んだと思います。私は主人に、
 「何てことを言うんですか」
 と咎めました。でも、私の声が聞こえたかどうか、主人は窓を閉めるとそのまま布団に入ってしまいました。一度目が覚めるとなかなか眠ることができません。特に主人が叫んだ言葉が気になって余計に眠れなくなりました。
翌日の朝、主人は夜中に叫んだことなどすっかり忘れたように、普段通り食事をし、いつもの時間に出掛けました。
 その日の午後のことです。主人から電話がありました。昼間に電話をして来ることなど滅多になかったので、驚いて電話に出ると、
 「高田常務が心臓麻痺で亡くなった。今日が通夜で明日が葬式だ。服を用意しておいてくれ」
 と言うではありませんか。
 高田常務が亡くなった――、主人は確かに電話でそう言いました。何ということでしょうか。昨夜、主人は窓辺に立ち、闇夜に向かって「高田常務を殺してくれ!」と確かに叫びました。決して私の勘違いではありません。課長の件といい、競馬の件といい、三度も重なると偶然にしては出来すぎています。
 恐くなった私は、何とかしなければ、そう思って主人の服を用意すると、その足ですぐに家を出て、高名な霊媒師の元を訪ねました。
 私の住まいから二つ目の駅で下車して、タクシーで10分ほどの距離にその霊媒師の家があります。以前、近所の方に頼まれてついて行ってあげたことがあり、場所はよく覚えていました。
 家を出る時、電話をして予約をしましたから、インターフォンを鳴らすとすぐにドアを開けてくれ、中へ通してくれました。
 七十歳を少し過ぎたぐらいの霊媒師の女性は、この辺りではよく当たると評判の人でした。
 霊媒師の女性は、
 「どうかしましたか?」
 と私の顔色を見て尋ねました。
 私は正直に今回のことを話しました。多分、信じてくれないだろうと思いましたが、霊媒師は神妙な顔で私を見つめ、
 「これは偶然ではありませんよ」
 と言います。
 「窓の下に庭があって、そこに小さな水槽を作っていませんか?」
 というので、私は、
 「窓の下に庭があって、そこに小さいけれど水を張った水槽のようなものを置いています。水槽の中には数匹の鯉と金魚を飼っています」
 と答えました。
 「そうですか。その水槽を一度みていただけませんか。魚以外の何かがその水槽に入っているはずです」
 「魚以外の何か――ですか?」
 驚いて聞き直しました。
 「そうです。多分、それが今回の一連の出来事に関係していると思います。一刻も早く水を掻き出して水槽の中にいるそれを取り出し、成仏させてあげることです。そうしなければあなた方にとって大変なことが起こります」
 わかったようなわからない話でしたが、霊媒師が私の家の様子をわかっていることに驚き、信じるしかないと思いました。礼もそこそこに急いで帰宅し、霊媒師に言われるままに庭の水槽の水を掻き出しました。
 錦鯉が三匹、金魚が五匹、それ以外には何もないように思いました。しかし、水のなくなった水槽をじっくり見ているうちに、蠢くものを見つけました。
 小さな黒い虫のようなものでしたが、よく見ると虫ではありません。私の小指の先ほどの小さな黒い物体が水槽の底にへばりついていました。
 私はその場で霊媒師に携帯電話で連絡をしました。
 ――おっしゃった通り、水槽の中に得体の知れない小さな黒い物体が潜んでいました。どうしたらよろしいでしょうか?
 小さな黒い物体は底にへばりついたままジッとしています。それを見つめながら私は不安に駆られました。何とも形容し難い小さな物体は、見つめる私に気付いたのか、ゆっくりとこちらに向かって動きを変えます。
 ――いいですか。触っては駄目ですよ。そのまま監視してください。声が聞こえても聞こえないふりをして、近付いてきても無関心を装ってください。すぐに行きますからね。
 霊媒師はそれだけ言って電話を切りました。小さな黒い物体はゆっくりとした動きで静かに私の方へ近付いてきます。
 〈早く水を入れろよ。お前たちの願いは叶えてやっただろ。水を入れて暗くなったらまた叫ぶがいいさ。どんな願いでも叶えてやるから。その代わり、お前たちはおれに尽くすんだ。まず、ここに水を入れること。その後、おれはお前たちに一つひとつ命令を下していく。お前たちはおれに従うしかないんだ。わかってるな〉
 地の底から響いてくるような、くぐもった声でした。小さな黒い物体は私に向かってゆっくりと歩みをすすめながらそんな言葉を吐いたのです。
 命令って何でしょう。尽くすってどういうことでしょう。私は不安に駆られながら思わず、その小さな黒い物体の言いつけを聞いて水を入れようとしました。
 「待って!」
 その声に驚いて振り返ると霊媒師の女性が立っていました。
 「電車じゃ間に合わないと思ったからタクシーに乗って来たの。そこを離れて! 急いで離れて!」
 私はあわててその場を離れました。霊媒師は小さな黒い物体に向かって、大きな声で、
 「喝!」
 と叫ぶと、呪文のような言葉を大きな声で唱え始めました。
 小さな黒い物体は、そのまましばらくジッとしていましたが、やがて水を抜いた水槽の底に体をこすりつけ、喘ぐような声を上げ、小さな体をバタバタと震わせ始めました。
 なおも霊媒師の呪文は続きました。やがて、その呪文が途絶えたかと思うと、霊媒師は庭の土の上にガクンと膝を落とし、大きなため息をつきました。
 何が起こったかわからず、私はただ見守るしか術がありません。
静かに立ち上がった霊媒師は、水を抜いた水槽を指差して、
 「この水槽は二度と使わないように。土を入れて埋めてください。錦鯉と 金魚はどこか川にでも放してやるといいでしょう」
 といい、
「もう大丈夫ですよ」
 私の肩に手を置いて言いました。
 「いったい何が起こったのでしょうか?」
 私はわけがわからないまま、霊媒師に尋ねました。
 「この小さな黒い物体は、あなた方の悪の想念を吸い取ってそれで成長していく霊の一種です。この家に古くから住み着いて、今までにも同じようなことをやって来たはずです。この家の前の住人のことを土地の人や不動産会社の人に聞いたことがありますか?」
 「いえ、何も聞いていません」
 「そうですか。多分、これまでもこの家の住人は悲惨な最期を遂げているはずです。あなた方もそうなる運命でした。でも、これでしばらくは大丈夫です。封じ込めておきましたから。ただ、あなた方が今後また強欲に駆られると再び姿を現す可能性があります」
 霊媒師の話によれば、人間の悪の想念に吸い寄せられて、その悪の想念で育ち、大きな力を持つようになる霊が稀に存在するということです。私たちが住むこの家は、そうした霊の集まりやすい場所のようで、私たちが抱く、出世欲、金銭欲、人を抹殺したいという欲望がこうした霊を呼び寄せたのだといいます。ただ、この霊は水に住む霊で、そのことが幸いして今回は水を抜くことによって力を失わせることができましたが、心の持ちようではまた新たな霊に取り憑かれる可能性があると霊媒師は私たちに強く忠告をしました。
 主人が帰宅するのを待って今回の話をしました。主人が再びさもしい考えに囚われて闇に叫べば、また何が起こるかわかりません。それを心配したからです。
 主人は、私に言いました。
 「高田常務の死はショックだったよ。あの日、私は高田常務に誘われて食事に出掛けたのだが、そこで社長派か専務派か、はっきりしろ、と高田常務に言われたんだ。元々、口の悪い人だが、あの日はいつにも増して暴言が多かった。高田常務は社長派の先鋒で、私が専務につくことを極端に嫌がっていた。それであれやこれや、仕事のことや今回の課長に推挙したことについて私に恩着せがましく言った。私は常務に、自分の力が認められて課長になったのでなかったら、今回の推挙を辞退しますと言ったんだ。すると、それを常務は自分への反旗と思ったらしくて、クビにしてやる、と言って私を足蹴にしたんだ。悔しかったよ。こいつさえいなければ会社もうまく行くのでは、とその時思ったものだ。だからあの夜、あんな言葉を吐いてしまったのだと思う。だけど、まさか現実のものになるなんて――」
 主人はそう言って後悔しました。二度とあんな言葉を口にしたりしないようにしよう。二人でそう約束しました。
 主人は高田常務の喪が明けるのを待って会社を辞めました。周りからずいぶん引き留められたようですが、主人の決心は固く、私も主人の決意を後押ししました。
 現在、主人は運送会社の事務として再就職し、元気に働いています。悪の想念などとは縁のない生活をしていますから闇に叫ぶなどといったこともなくなりました。
 この手紙を編集長にお送りしたのは、私たちのこの記録を誰かに聞いてほしかったからです。ありがとうございました――。
 こうした手紙をいただくと、好奇心の強い井森はその場所を訪ねてみたくなるくせがある。早速、連絡をしてみると、
 「もう過去のことですから」
 と言って丁重に断られた。
 残念だが、訪問することをあきらめた。いや、あきらめてよかったのかも知れないと井森は思った。好奇心の固まりのような自分が下手に訪問すると、眠っている霊の目を覚ましてしまう可能性がある。今回は断られて正解だった。
〈了〉


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