神隠しの村

高瀬 甚太
 
 井森が古くから親しくしている友人に八幡利明という男がいる。井森が八幡と知り合ったのは高校生の頃だからずいぶん長い付き合いになる。
 その彼が引きこもりになって困っているとの報せが、つい最近、八幡の妻から井森の元に届いた。
 「主人が突然、会社に行かないと言い出して、とうとう三月末で退職してしまいました。理由がわからず、会社でも困惑したようで、一応引き留めてくださったんですが、強引に退職してしまい、それ以来、主人は外に出ることもなく、ずっと部屋の中に引きこもっています。病院に連れて行こうと思っても応じませんし、お医者様に相談したところ、鬱が原因だろうということでした。主人は、毎朝、夜が明ける前に家を出るのですが、明るくなると帰ってきて、そのまま部屋に閉じこもり、深夜になって人が寝静まる時間を待って、また、外へ出ます。ずっとそんな生活を続けています。その間、主人が部屋の中で何をしているのか、ドアを閉め切っているのでまるでわかりません。会社の方から電話がかかってきても出ようとしないし、知人が訪ねて来られても会おうとはしません。一体、どうなっているのか見当もつかず、困っています。井森さん、あなたなら主人もきっと気を許すと思います。どうか主人を助けてやっていただけませんでしょうか」
 八幡の妻の悲痛な願いを聞き、いたたまれなくなった井森は、すぐさま駆けつけることにした。
 阪急沿線、豊中市の閑静な住宅街の一角にある八幡家は、駅から歩いてそう遠くない便利な場所にあった。ずいぶん昔だが、何度か訪問したことがあったので、道に迷うことなく到着することができた。
 八幡の妻、公子さんは、私の顔を見るなり堰を切ったように泣き始め、しばらくその泣き声は止むことがなかった。その様子を見ただけでも八幡の重い症状が伝わってくる。医師でもない私に一体何が出来るだろうかと、疑問を持ったが、ともかく話を聞くことにした。。
 八幡家には三人の子どもがいたが、今はそれぞれ独立して別に暮らしている。この家には八幡と公子さんの二人しか住んでおらず、そのためかひっそりと静まりかえっていた。公子さんは私を二階にある八幡の部屋に案内した。
 「あなた、井森さんが来てくれましたよ」
 ドア越しに公子さんが呼びかけるが返事がない。数分待って、再び公子さんが、
 「井森さんが来てくれていますよ」
 と少し大きな声で呼びかけた。だが、やはり返事は返ってこなかった。
 「八幡、おれだ。久しぶりだなあ。せっかく来たんだ。ドアを開けろよ」
 今度は井森が呼びかけた。だが、やはり返事がなく、ドアが開く気配もなかった。
 井森はしばらくじっと待つことにした。その時、ドアの内側で何やらガサゴソと物音がした。
 「八幡っ!」
 井森はもう一度、呼びかけた。するといきなりドアが開いた。
 「八幡……!?」
 ドアが開いて顔を出した八幡の顔を見て絶句した。土気色に染まったその 顔は、まるで死人のようであったからだ。
 八幡は無言のまま、井森を部屋の中へ招き入れた。それを見て、公子さんは少し安堵した表情をみせ、井森に向かって小さく頭を下げた。
 部屋の中に入ると、暗い部屋の中に一冊の画集が置かれていた。八幡はどうやらその画集を眺めていたようだ。
 「会社をやめたんだってな。奥さんが心配していたぞ。大丈夫か?」
 井森の声が聞こえたのかどうか、八幡はもぞもぞと口を動かして、目の前にある画集を指差した。焦点の定まらない瞳、青白い顔、しきりに膝を揺らして落ち着かない動作、八幡の症状はかなり重く厳しいように感じられた。
井森は、八幡の指差す画集を手に取り眺めてみた。
 『青白き炎』と題したその作品集は、B4判サイズで作者は、「賀正園龍一」となっていた。聞いたことのない画家の作品だったので、八幡に聞いた。
 「この本がどうかしたのか?」
 八幡は、幾分落ち着いたのか、暗く沈んだ声で私に言った。
 「本を開いてみてくれ」
 タイトルだけが印字された表紙からは何も窺うことができない。井森はその画集をゆっくりと開いた。
 見開いた紙面一杯に、光りが描かれていた。いや、光りのように見えたが正しくは炎だった。しかもその炎は青白く揺らめいている。周囲は漆黒に彩られ、炎だけが象徴的に中心に描かれていた。
 ページをめくると、同じような炎の絵があった。ただ、前ページの炎と違うのは、その色彩だ。青から薄い緑に移行している。そして大きさも、その炎の姿も著しく変化していた。背景もまた、くすんだ緑、いやよく見るとそれは深い草花の群生する姿だったが、それとわからないほど中心の炎のインパクトが強かった。
 総ページ九六ページに至る画集のほとんどが、さまざまな炎で埋め尽くされていた。淡いピンクの炎があれば、深紅の炎もあり、原色に近い黄色い炎もあれば、茶褐色に近い炎もあった。木々の乱立した風景が描かれているものもあれば、海を思わせる岩礁の風景もあった。だが、それらすべての風景はかなり目を凝らしてみないとわからないほどで、風景に重なって上塗りした炎の色の方が濃く強く彩られていた。
 「炎の画家か。八幡、この画集に何か意味があるのか?」
 井森には、単なる炎の画集としか映らなかった。画力的にもどの程度のものか、見当がつかなかった。
 「もう一度、よく見てくれないか」
 八幡が言った。仕方なく、井森はもう一度、その画集を見直した。すると、どうだろう。見直しているうちに炎の揺らめきが何等かの意味を持って迫ってくるのを感じた。炎に魅入られるというか、炎の中に吸い込まれるというか、不思議な感覚に襲われて、慌てて本を閉じた。
 「これはどういうことなんだ――?」
 八幡に聞いた。八幡はニヤリと笑って、
 「マリファナや大麻をやったときの感覚に似ていないか」と言った。
 「マリファナや大麻?」
 井森が聞き返すと、八幡はまた、ニヤリと笑った。
 八幡は、大学を卒業して商社に就職し、三年ほどアメリカに転勤したことがある。その時、アメリカでマリファナや大麻を味わったと聞いたことがあった。
 さすがに日本へ帰ってからはやめたようだが、井森には、その時のクスリの快感が忘れられないのだとよく話していた。 
 「確かに、脳が痺れるような感じになって、肉体が異次元にトリップしそうな感じになった。マリファナや大麻はやったことはないが、それに近い感覚かも知れないと思う」
初めて画集を眺めた時は感じなかったのに、再見すると突然、異様な感覚に襲われた。それが不思議でならなかった。
 「おれもそうだった。この本を購入して、最初、眺めた時は何も感じなかった。だが、二度目、三度目と見直したところではまってしまった。今はもうこの画集の虜になって、この場所から動くことができなくなった」
 八幡は無表情のまま天井を見やった。そこには、エネルギッシュに活動していた頃の八幡の面影はまったくなかった。土気色の顔をして、何かに取り憑かれたような哀れな男の姿だけがそこにあった。
 一度目は初めて見る画集だから客観的に見ることができる。だが、二度目は、主観が入る。それがこの画集に感情移入する最大の要因なのだろうと思った。
 このままでは、八幡は間違いなく廃人になってしまう。そう思った井森は、八幡に言った。
 「八幡、この画集を捨てることは出来ないのか?」
 八幡は力無く応えた。
 「それができれば苦労はしない。おれはもう駄目だ。この画集の魔力から逃れることができない」
 結局、井森は何もできずに八幡の部屋から出た。
 「どうでしたか? 主人の様子は――」
 公子さんに聞かれた際も、井森はただ頭を横に振るだけだった。
 「井森さんのお力で何とかなりませんか? 主人を助けてやってください」
 自信はなかったが、井森は小さく首を振った。公子さんのためにも、八幡のためにもこのまま放っておくわけにはいかなかった。
 
 その日のうちに井森は、『青白い炎』の出版社である、美馬出版に電話をした。
 ――美馬出版です。
 三度の呼び出し音の後、男性が電話に出た。井森は、『青白い炎』について、購入した友人の現状を話し、作者のことや販売数、他にも友人と同様の人がいないかを聞いてみた。
 ――『青白い炎』は限定本で、百部制作しましたが、現在半数ほどが売れています。購入されたお客様の現状はわかりませんが、制作に関わった当社の編集スタッフ数人が、現在、病院に入院して治療を受けています。まさか、画集にそんな力があるとは思っていませんから、お話を聞いて驚いているというのが偽りのない話です。また、この本の作者は『青白い炎』が完成した後、病気が悪化して一週間後にお亡くなりになっています。
 編集部の制作スタッフが病気で入院しているという話を聞いて、井森は、いよいよあの画集には何かがあるのではと確信した。
 しかし、絵にそのような力があるなど聞いたことがなかったし、もしそうであったとしても信じられない話だ。だが、実際に井森も体感した。あの画集には確かに秘められた力があった。井森はそれを探りたいと思った。何とかしなければ、このままでは八幡の命が危ない――。
 「賀正園龍一」、その名前には一向に心当たりがなかった。ネットで検索しても『青白い炎』のタイトルと紹介だけで、画家については一言も触れられていない。編集部に再度、問い合わせをした井森は、賀正園の住所と電話番号を確認し、電話をすることにした。
 賀正園の電話番号に連絡をすると、年老いた女性が電話に出て、
 ――賀正園は亡くなりましたが……。
 と消え入りそうな声で応えた。井森が名前を告げ、一度お邪魔したい旨を伝えると、
 ――何かご用でしょうか?
 と聞く。
 ――賀正園先生の画集についてお聞きしたいことがあります。
 ――私にお応えできることであればいいのですが……。 
 ためらいがちに女性は応え、来訪を許してくれた。
 賀正園龍一の自宅は西宮市にあった。海浜に近い旧い一戸建ての家で、賀正園はこの辺りでは結構名高い名家だと聞いた。
 電話に出たと思われる老女は、意外にも井森の訪問を快く迎えてくれた。浜風のなびく庭を通り抜け、家の中へ足を踏み入れると、家の構えこそ旧かったが内部は近代的なインテリアで内装されていることに驚いた。応接室へ入ると、その豪華な設えに再び驚かされた。
 「龍一が亡くなって一年になります」
 老女は龍一の母ですと名乗った後、落ち着いた口調で井森に語った。
 「差し支えなければ、賀正園先生がお亡くなりになった様子を教えていただけませんでしょうか?」
 単刀直入に申し出、井森は、賀正園の作品『青白い炎』を購入した八幡の現況を話し、龍一の母に理解を求めた。
 「そうですか……。そういう方がおられることは時々、お聞きします。何とかお力になれればいいのですが、私にはその力がなくて……。
 龍一は、あの作品を描き始めるまでは本当に健康でした。病気一つしたことがない子で、作品も風景画が多く、明るい牧歌的な風景を得意としていました。それが、作品の構想とスケッチをするために飛騨へ一カ月ほど行って、帰って来てからのことです。急に作風が変わってあの作品に取り組むようになりました。
 憑かれたように絵を描き始め、寝食を惜しんで取り組み、やがて龍一は病気になってしまいました。顔色が悪くなり、日に日に痩せていき、わけのわからないことを口走るようになったのです。病院に連れて行き、お医者様に診ていただきましたが、医師の診断では特に悪いところはないとのことでした。
 絵が完成に近付くに従って、さらに龍一の言動が怪しくなり、完成と同時に寝込んでしまいました。よほど疲れたのだろう、そう思って一日、そっとしておきました。でも、二日目も起きて来ず、慌てた私は眠り続ける龍一を起こしました。しかし、龍一は目を覚ましませんでした。一週間後、命の炎が断ち切れるように静かに息を引き取りました」
 龍一の母は、一年経った今もなお、息子の龍一が恋しいのか、話し終わると、頬を流れる涙の粒をハンカチで恥ずかしそうに拭った。
 
 賀正園の家を出た井森はその足で、賀正園がスケッチに出かけたという、飛騨に向かうことにした。生前の龍一がスケッチと構想のために向かったという場所を龍一の母から聞き、居ても立っても居られなくなったのだ。
 飛騨山脈の麓近く、辺鄙な山間の過疎地に龍一は旅をしている。旧い民家の点在する山間の地は、出会う人すらほとんどいない静かな土地だ。この地に龍一は居を構え、数カ月、スケッチと構想に励んでいる。
 龍一が居を構えたという家は、村のほぼ中央に当たる位置にあった。「近藤」という表札を構えたその家を訪ねると、折悪しく不在で、家には誰もいなかった。数メートル離れた隣の人家を訪ねると、その家にも人がいなかった。廃屋というわけでもなく、電気が点きっ放しになっているところをみると、人が住んでいるということだけは間違いなかった。
 寂しい廃村に近い村を井森はしばらく散策した。小高い山に覆われた場所にひっそりと佇む数軒の人家、だが、どの家も無人のように思われた。車の往来などまるでなく、アクセスが最悪のこの場所へ、井森はバスを降りた後、1時間近く歩いてやって来た。この村へ来る途中、まるで人の気配がしなかったので、井森は何度も、道を間違えたのではと不安に駆られながらやって来た。それほど寂しい場所だった。
 賀正園龍一は、この村の近藤という人と面識があり、その人の縁でこの村にやって来たようだ。だが、ここはスケッチをするにはあまりにも風景が偏り過ぎていた。それに食指をそそるような風景が少なすぎる。
 1時間ほど散策した後、再び近藤家を訪ねると、家の中から人の声がした。
 「近藤さん、こんにちは」
 井森が呼ぶが返答がない。戸を叩いてもやはり誰も出て来ない。しかし、確かに家の中から声がした。さらに強く戸を叩き、もう一度この家の主の名を呼んだ。
 やはり家の中から声がする。それだけではない。人のいる気配もした。井森は、そっと戸を開けてみた。すると、鍵はかかっておらず戸は簡単に開いた。中を覗きながら井森は再び「近藤さん」と呼びかけた。
 部屋の電気は点いている。しかし誰もいない。何度呼びかけても応答がなかった。あきらめた井森は一度、家から出ようとした。その時、
 「どなた?」と声がした。
 老齢の巡査が近藤家の家の外にいて、井森を不審な表情で見つめていた。
 井森は、老巡査に、近藤家を訪問したいきさつを説明し、いくら呼んでも返事がなく、電気が点いているので戸を開けたと話した。老巡査は、しばらく井森を見つめていたが、「まあ、こっちに来てくれ」と言ってパトカーに案内した。
 空き巣と間違われ疑われたのではと思った井森は、パトカーの中で繰り返し説明をしようとした。
 「それはわかりました。実は近藤さん宅ですが、今は誰も住んではいませんよ。いや、近藤さんだけではありません。この村の人たちはみんないなくなりました」
 と老巡査が説明をする。
 「いなくなった? どうしてですか」
 老巡査の話が飲み込めなかった。
 「信じられんでしょうが、神隠しに合いました」
 「神隠し?」
 「そうとしか考えられないんです。ある日、急に全員、いなくなってしまったんです」
 「それはいつ頃のことですか?」
 「そうですね。一年少し前になりますかねえ。こうやって居なくなった時の状態にしているのは、もしかして、ある日、突然、帰って来た時、困らないようにと思ってのことなんです」
 「神隠しって、そんなこと――」
 俄には信じられなかった。科学が発達したこの時代に神隠しなど、信じられるはずがない。
 「そうでしょうなあ。無理もありません。でも、この地域には昔からそうした話が伝わっていましてな。三十年前にも一度ありましたし、戦前にもあったようです」
 「神隠しにあった人たちは、その後、どうなったんですか?」
 「今までは帰ってきています」
 「えっ……! 生還しているのですか?」
 「三十年前、私、この地域に赴任したばかりでしてね。村人が全員、いなくなった時は本当に慌てましたよ。全員が失踪なんて、前代未聞のことですからね。でも、捜査をあきらめた三年後、私がいつものようにこの地域を巡回していると、驚いたことに全員、帰っていたんです。何ごともなかったように、私に向かって『いい天気でよかったですなあ』と挨拶をするではありませんか。私は、村人たちに訊ねました。『どこへ行かれていたんですか』と。村人は、『えっ……?』という顔で私をみて、怪訝な顔をします。あの時は本当に面食らいました」
 「じゃあ、今回もまた同じようなことが起きると……」
 「私はそう思っております。だから時折、こうやって巡回をして確認しているんです」
 井森は、老巡査に、
 「賀正園龍一という画家が一年前、この村に一カ月ほど滞在していたはずなんですが、ご存知ありませんか?」
 と聞いた。
 老巡査は、しばらく考えていたが、「あっ」と声を上げると、
 「近藤さんのお宅に滞在していた画家の方ですね。覚えています」
と応え、「でも、あの方は村から追放されたはずですよ」と言った。
 「追放? どうしてですか」
 「この村の祭りには独特の風習がありましてね。夜、しかも午前0時を過ぎた時間に祭りが始まるんです。それだけでも変わっているんですが、決して村人以外のよそ者は参加できませんし、その禁を破った者は、災いがおよぶと伝えられています。画家の方は、その祭りに興味があったんでしょうね。禁を破って隠れて見に行ったようです。それで、村人の怒りを買ってしまい、この村を追放されました」
 「その祭りというのは?」
 「実は私も参加したことがないし見たこともないんです。この村に大昔から伝わる風習のようで、夜半に漆黒の闇の中でさまざまな色と形の炎を燃やし、その炎に無病息災、家内安全をお願いするというものです。その炎は、それはもう人智を超えた美しさのようですよ」
 「炎ですか――。では、画家はきっとその炎を目撃したのでしょうね」
 「おそらく目撃したんでしょうなあ。祭りの翌日、画家は村を出て行きましたが」
 「災いというのは具体的にはどのようなものでしょうか?」
 「さあ、私もよくはわからないのですが、村人以外の人が目撃すると、神の逆鱗に触れて精神がおかしくなると聞いています。今までにも新聞記者が隠れ取材を行ったことがあるんですが、目撃した翌日、精神がおかしくなったんでしょうね、この谷の奥にある滝に身を投げて亡くなっています。これまで興味本位で見学に来た観光客の人たちも同様の目に遭ったと聞いています」
 老巡査は、小さなため息を漏らし、村を見渡すように目を細めた。
 「画家のその後をご存知ですか?」
 「いえ、知りませんが、でも想像はつきます。もし、村人がすぐさま追放していなければ、その画家の命は多分、早晩尽きたことでしょう。村人は、画家のことを思って夜が明ける前に追放したのだと思います。私が危惧するのは、画家ですから、祭りの様子を絵に描いたりしなければいいのになあということです。必ず祟りがおよびます」
 それだけ言うと、老巡査は、
 「バス停の近くまでお送りしますよ」と井森をパトカーに誘った。
 助手席に乗り込んだところで、井森は老巡査に訊いた。
 「災いを解く術はあるのでしょうか?」
 老巡査は、エンジンを吹かしながら、
 「ないことはないと思います」
 と笑顔で言った。
 「どんな方法がありますかね?」
 と訊ね、その画家のその後のことや画集を見た者たちの状況、とりわけ、井森は友人の八幡の話をした。
 老巡査は車を走らせながら、「聞いた話で恐縮ですが」と断り、「その本を燃やすことです。燃やして灰にしないといけません。祟りが画家に及び、本に及んでいる可能性があります。本を燃やし尽くして、その灰を闇に投じることです。そうすれば救われるかもしれません」と説明をした。
井森は老巡査の言葉を手帳に書き留めると、
 「帰阪したら、早速、友人の家へ行き、試してみようと思います」
 と伝えた。
 老巡査は、バス停の前まで井森を送ると、
 「気を付けて帰ってください」と言って、井森を下ろした。
 
 老巡査に聞いた通りのことを実施、本を燃やし、その本の灰を闇に投じると、不思議なことに八幡の症状は一気に回復した。回復した八幡は、元の会社に再雇用されることになり、奥さんの公子さんにも笑顔が戻った。井森は、『青ざめた炎』の出版社にもそのことを伝え、実行するように伝えた。
その後、井森は老巡査から聞いた、村の祭りを市の図書館で調べた。
 年代は定かではなかったが、神世の昔から始まったといわれるその祭りは、飛騨地方では有名な祭りの一つだった。だが、その実態はどの本にも詳しく掲載されていなかった。
 「炎の祭り」と称されるその祭りは、多分、賀正園龍一が描いた『青ざめた炎』がすべてなのだろうと思う。さまざまな色彩、形を繰り広げて、闇の中に炎が躍る。奇しくも八幡が、マリファナや大麻と似た感じと言ったが、そんな魅力があの炎にはあったのだろう。井森もあの本に描かれた炎をみて、精神が怪しく揺れ動いたことをよく覚えている。
 一つ、気になったことは、祭りを紹介する簡単な記事の中で、祭主として掲載されていた写真の人物が、あの老巡査とよく似ていたことが気になった。気のせいだと思い直して本を閉じたものの、今でも時々、そのことを思い出して井森は妙な気分に陥った。
 神隠しの村人たちがその後、無事、生還したかどうかについて井森は多くを知らない。そんな話を誰かに話しても、きっと一笑に付されるだけだろう。村人の無事を祈りながら井森は、八幡に見せてもらった本の、あの美しい炎を時折だが、思い出すことがあった。
〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?