黒いネクタイの女を探せ!

高瀬 甚太

 細い黒いネクタイをした女性が時折、場末の立ち飲み屋「えびす亭」に顔を出すことを、大阪府警察本部天満署の捜査二課、帆足一郎刑事が知ったのはつい最近のことだ。
 帆足がその女性に注目したのは過去の犯罪事件に関連してのもので、未解決のまま二年の時を経た事件の重要容疑者にその女性の風体が酷似していたことによる。
 二年前、帆足はある窃盗事件を追っていた。路上やバー、スナックなどで酔客を誘惑し、ホテルへ誘導して、睡眠薬入りの酒を呑ませ、こん睡させた後、財布や金品を奪って逃走する。そういった事件が大阪キタで多発していた。
 監視カメラの映像などから、その女性の服装に特徴のあることがわかった。ほとんどの場合、白いブラウスに細い黒いネクタイ、まるでアメディオ・モディリアーニの代表作『黒いネクタイの女』を彷彿させ、退廃的な雰囲気を醸し出していたことを帆足は記憶していた。
 それほど特徴がはっきりしていたにも関わらず、捜査二課は逮捕することができなかった。大阪キタに関わらず当時、広範囲に亘って粘り強く捜査したものの、容疑者を特定することができず現在に至っている。
 帆足が「えびす亭」に足を向けることなど珍しく、非番の日、たまに出入りするぐらいだったから顔見知りもおらず、帆足の職業が刑事だと知る者など誰もいなかった。
 非番のその日、帆足の妻は、実母が入院したということで岡山の実家の方へ子供と共に急いで帰った。幸い大した病気ではなかったようで、帰郷してすぐに、三日ほど様子をみてから帰ると帆足に連絡があった。
 仕事が仕事だから、非番でも呼び出されることは度々だったから、酒を呑んで酔っ払うというわけにもいかなかったが、家に帰っても誰もいないということも手伝って、この日、帆足は午後七時ごろからえびす亭で一人、立ち飲みの酒を呑んでいた。
 「すんまへん。ちょっとよろしいか」
 えびす亭で酒を呑んでいると、なぜか隣で呑む人に声をかけられることがよくあった。帆足が顔を上げて隣を見ると、五十過ぎの小太りの中年が欠けた歯をむきだしにして、笑顔を向けていた。
 「ええ……」
 帆足が曖昧に返事をすると、小太りの中年男が脈絡もなく突然、話し始めた。泥酔しているのだとわかったが、帆足はそのまま男の話に耳を傾けた。
 「わたし、株をやってまんねんけど、株で儲けたら絵を買うのが趣味ですねん。特に好きなんがアメディオ・モディリアーニです。知ってまっか? モディリアーニ。フランスの画家ですわ。わたし、この人の絵に惚れましてな、何とか手に入れたいと思って頑張ってまんねんけど、あきまへん。複製画が精一杯ですわ。ところがでんなぁ、この間、この店でえらいもんに出会うて、びっくりしましたわ」
 空になったグラスに帆足がビールを注いでやると、男は「おおきに、おおきに」と頭を振って、欠けた歯をまるだしにしてまた笑った。
 「モディリアーニの作品に『黒いネクタイの女』という作品がおますねん。その絵にそっくりの女がこの店にやって来たんですわ。びっくりしましたわ」
 黒いネクタイの女……? 帆足は男の話の中に突然、その言葉が飛び出したので驚いた。
 「そっくりというのはどういうことですか?」
 「モディリアーニの『黒いネクタイの女』の絵みたいに、白いブラウスに細い黒いネクタイの女ですがな。顔も何やしらん、よう似てるんですわ。髪の毛は少し違いまっけど、ほんまびっくりしましたわ」
 帆足は、男の話に食いついた。
 「すみません。もう少し詳しく、その話を聞かせてもらえませんか?」

 小太りで歯の欠けた中年男の話を聞いてわかったことがいくつかあった。黒いネクタイの女の年恰好が、帆足の追っている窃盗犯に酷似していること、話を聞く限り、監視カメラが捕らえた女に服装が酷似していること。男がその女を見たのが一週間前の金曜日、午後八時であったこと、男はその女を一度しか見かけていないことなどであった。
 金曜日といえば明後日だ。一応、その女が現れるのをここで張ってみる価値はあると帆足は判断し、捜査二課係長の友永に連絡を取った。
 捜査二課係長の友永は慎重派で知られる男である。帆足の報告を聞いた友永は、「明日、早速、捜査会議を開くことにする」、と何の逡巡もなく答えた。帆足は、一応、立ち呑みの店でのことで、酔っぱらいから聞いた話だと告げたが、友永はそれには答えず、「明日九時に会議を開く」と再び口にして電話を切った。
 友永が急ぐのも無理はなかった。黒いネクタイの女の情報はこの二年間皆無で何の手がかりも掴めずにいた。監視カメラが鮮明にとらえているのになぜか見つけられない、友永は上から度々せっつかれて焦っていた。
 しかし、えびす亭に現れた女が、容疑者と同一人物であるかどうかはわからない。白いブラウスと黒いネクタイなど、よくあるといえばよくあるスタイルだ。決して特別なものではなかった。友永に連絡をしたことを帆足は少し悔やんだ。
 帆足は酒が嫌いな方ではない。立ち呑みのような店も嫌いではなかった。しかし、えびす亭の雰囲気には驚かされた。帆足はどちらかといえば一人で寡黙に呑みたい方だったが、この店では常にだれかに話しかけられる。時にはうるさいと思うこともあったが、嫌な顔もできず、調子を合わせて相槌を打つと、ますます図に乗って話がほとんどエンドレスになる。職業上、帆足は相手を選別する癖がついている。見かけはぼんやりした男でも、裏を返せば凶悪な犯罪者だったこともある。えびす亭に来てもその癖が抜けない。雑多な人が訪れるこの店には、多分、犯罪者も多くやって来るのではないか、帆足は職業柄そんな風に店の客を見ていた。黒いネクタイの女の情報を提供してくれた歯の欠けた中年の小太り男にしても、人のよさそうな顔こそしているがその実態はわからない。もしかしたら稀代の悪党かも……。そんなことを考えているとこの店に集まる客の誰もが怪しく思えてくる。
 翌日、捜査係長友永の発議で緊急捜査会議が行われた。
 帆足が指名され、迷宮入り状態になっている、こん睡強盗の容疑者、黒いネクタイの女の情報について報告をした。捜査会議に出席したのは、捜査二課課長と本部長、捜査課の刑事一〇名の計十三名であった。
 「えびす亭という立ち呑み店で、こん睡窃盗事件の容疑者、黒いネクタイの女によく似た女が先週の金曜日午後八時、客として現れたとの情報を得ました。その女が我々の追っている容疑者と同一人物かどうかについては判然としておりませんが、えびす亭の客の目撃情報によれば年齢、スタイル、服装が酷似しているように思われます。先週、金曜日に現れたからといって明後日の金曜日に現れるかどうかはわかりませんし、もしかしたら今日にでも現れるかもしれません。しばらく網を張る必要があるのではないか、と私は考えております」
 帆足の説明が終わると、参加した刑事の中から質問が飛んだ。
 「呑み屋で聞いた話ですよね。酔っ払いの言葉に踊らされるのはどうかと思いますがね」
 帆足は笑みを称えて答えた。
 「その通りです。しかし、その男は非常によくえびす亭に現れた黒いネクタイの女を観察していました。話を聞いていて、もしやと思うものがありましたので私はすぐに係長に連絡いたしました」
 「その女が監視カメラの映像と違った場合、どうしますか?」
 「その場合も一応、事情聴取をさせていただこうと思っています。何にしてもこれまで途絶えて久しかった手がかりです。当たってみる価値があるのではないでしょうか」
 一時間程度で会議は終了した。帆足は、会議終了と同時に、二年前のこん睡窃盗について当時の記録を洗い出してみた。

 ――二年前の夏、北区堂山町にあるラブホテルから、窃盗被害にあった男がいると天満署に通報があった。駆けつけると、柿内正五十二歳がぼんやりとベッドに腰をかけていた。
 柿内に事情を聴取すると、柿内は情けなさそうな顔でその時の様子を話し始めた。
 「行きつけのスナック『春の華』に立ち寄り、いつものようにカウンターで酒を呑んでいたんですわ。結構、店が混んでいてママもチーママも相手をしてくれない。その時、ふとカウンターを見ると、一人で呑んでいる若い女性がいました。きれいな女の子だったので声をかけたんですわ。『お一人ですか』って。するとその女性、『ええ、一人です』と言って会釈を返してくれました。きれいな女性だなあ、と思った私は、『お話いいですか』と断って、一緒に酒を呑みました。その女性はエリカと言いました。エリカとしばらく一緒に呑んで、『ここを出て次の店行きませんか』と誘うと、しばらく考えるそぶりをしましたが、『ええ、いいわよ』と言ってついてきました。二軒目の店で『ホテルに行こう』と誘うと、エリカはニッコリ笑って頷きました。
 堂山のラブホテルに入って、エリカに聞きました。『ビジネスか?』って。それならいくらぐらいいるのか聞いておかなければと思ったんです。でも、エリカは首を振って、『私は商売女ではありません』と言いました。白い長袖のブラウスに細い黒いネクタイと黒のスカート……、清楚な感じがしてとても商売女には見えなかったので、私は納得して風呂に入りました。一緒に風呂に入ろうと言ったのですが、エリカは恥ずかしいから後で入る、と言いましたので、一人でシャワーを浴びました。バスから出ると、エリカは冷蔵庫から取り出したビールをグラスに注いで私を待っていました。乾杯をしてよく冷えたビールを一息に飲んだ私は、それ以後の記憶がありません。気が付くと朝で、エリカはいませんでした。慌てて背広の内ポケットに入れておいた財布を探しましたが、跡形もなく消えていました。ビールの中に睡眠薬を混入して、私が眠った隙に財布を奪った……。財布の中には二十五万円入っていました」
 それが最初の事件だった。続いて、ほとんど間をおかずに同様の事件が発生し、一カ月で七件のこん睡窃盗事件が勃発している。
 いずれも犯人は白い長袖のブラウスに黒いネクタイ、エリカと名乗る女性の犯行だった。
 しかし、こん睡窃盗事件は七件目が最後になった。その後、同様の事件は発生していない――。

 夕方になって署を出た帆足は、後輩の荒木啓二と共にえびす亭に向かった。
 黒いネクタイの女はいつ現れるかわからない。念のためえびす亭を見張っておく必要があった。
 一般サラリーマンと言ったスタイルで帆足は荒木と共にえびす亭のカウンターの前に立った。マスターには予め警察であることを話し、事情を説明しておいた。
 マスターは、えびす亭にやって来た黒いネクタイの女のことをあまり覚えていなかったが、客の迷惑にならないように気を付けてください、とだけ言って渋々承諾した。帆足も店の迷惑になることは避けるつもりでいた。店の中で捕り物になれば店の印象を悪くする。店の外に出たところで捕まえるようにしよう、荒木にそう話しておいた。
 その日の夜、閉店まで粘ったが黒いネクタイの女は現れなかった。帆足はマスターに礼を言って荒木と共に店を後にした。
 「本当に現れますかね」
 荒木は帰りの電車の中で不安を口にした。帆足も不安であった。捜査会議の席上、自信を持って答えたが、自信の裏付けになるようなものは何も持っていなかった。自分の勘、それしかなかった。
 「ぼく、立ち呑みの店、初めてなんですけど、立ち呑みっていいものですね」 
 荒木の言葉が帆足の癇に障った。
 「立ち呑み店のどこがいいんだね」
 帆足が強い口調で問うと、荒木はえびす亭でのことを思い出すようにして言った。
 「えびす亭だったからかも知れませんが、何となく店全体が和気藹々としていていい感じでした。そんな中にいると、こちらまで楽しい気分になってきて……。あそこで見張っている間に、ぼく、数人の客に話しかけられましたよ」
 荒木はそう言って笑った。帆足は、荒木の笑顔が羨ましいと思った。帆足は、えびす亭の客たちを荒木のように好意的に見ることができなかった。どうしても犯罪者を見る目でみてしまう。
 「ああいう店にやって来る連中の中には、ろくでもない人間がいる。見渡しても怪しい奴ばかりだった。立ち呑み店なんてものはそんな連中の集まりなんじゃないかな、叩けば埃が出る奴らばかりだよ」
 いつも帆足に従順な荒木が、この時は珍しく反発した。
 「立ち呑みだからって、それはないと思いますよ。みんなほのぼのとしていい人ばかりじゃないですか。そりゃあ、いろんな人たちが来ますからその中には犯罪者の影を背負った人も中にはいるでしょう。でも、いいじゃないですか。あの店の空間は異次元、異空間の世界なんです。酒を愛し、人を愛する孤独な人たちの寄り集まりです。ぼくは好きですね。また行きたいと思いましたよ」
 荒木の話を聞いていて、帆足はふと歯の欠けた口を開けて、「モディリアーニが好きやねん」と言っていた中年男の顔を思い出した。帆足はあの男の言葉を信じて、今回の捜索に乗り出したのではなかったか。もし、あの男のことを本当に胡散臭い男だと思ったら、多分、帆足は係長には話していなかったと思う……。
 「先輩、どうしたんですか。急に黙って……。ぼく、何か変なこと言いましたか?」
 急に黙り込んだ帆足を見て、荒木が気にして尋ねた。
 「違うんだ。何でもない。気にするな」
 帆足は荒木の肩を叩いて電車を降りた。

 翌日は金曜日だった。夜になるのを待ちかねて、帆足と荒木はえびす亭に向かった。午後九時には別働隊も合流する予定だった。
 店の中に入ると、二人を見たマスターはあからさまに顔をしかめた。帆足と荒木はこの店では招かれざる客だった。
 午後七時になって人がどっと増えた。帆足は荒木と共にカウンターに立っていた。
 荒木が帆足の耳元で囁くように言った。
 「先輩、この店にいると、常連かそうでないかがすぐにわかりますね。常連客には独特の呼び名がありますもんね。もし、ぼくがこの店の常連になったら、一体、どんな呼び名で呼ばれるんでしょうね」
 「荒木啓二だから、けいちゃん、そんなところじゃないか」
 帆足が冷やかすように言うと、荒木は、
 「どんな名前でもいいから呼ばれてみたいものですね」
 と笑って言った。その時、二人の隣にいた男が声をかけてきた。
 「ビール、どうぞ飲んでください」
 帆足の空っぽのグラスを見て、隣の男がグラスにビールを注いでくれた。
 「すみません。ありがとうございます」
 帆足は頭を下げてお礼を言った。
 「いいえ、お宅もお酒好きなんでしょ」
 「ええ、大好きです」
 帆足が答えると、隣の男は、
 「それはよかった」
 と言って、再び、帆足のグラスにビールをなみなみと注いだ。
 すると今度は別の客が、マグロの刺身の入った皿を帆足と荒木の元に置いて、「よかったら一緒に食べまへんか」と言う。帆足と荒木は仕事ということもあって、ビールを一本頼んだだけで、酒の肴は何も注文していなかった。
 午後八時になった。帆足と荒木は緊張した面持ちでガラス戸を見つめた。先週来たからといって今週も同じ曜日、時間にやって来るとは限らなかったが、可能性はあった。帆足は期待を抱いていてガラス戸を見つめていた。
 午後八時半、帆足の勘が当たった。黒いネクタイの女がガラス戸を開けて顔を覗かせたのだ。
 「先輩、やはり来ましたね」
 荒木が小声で言う。帆足は女を見て一瞬躊躇した。服装も年齢も合致しているが顔が少し違うような、そんな印象を受けたからだ。
 一人でやって来た黒いネクタイの女は瓶ビールをオーダーし、おでんを数品注文した。その様子を帆足と荒木はじっと見つめた。
 女は妙に明るくて、話しかけてくる隣のおっちゃんに屈託のない返事と笑顔を返していた。その様子には犯罪者の影など微塵も感じられなかった。
帆足と荒木は店を出ると、黒いネクタイの女が出てくるのを待った。四〇分ほど待っただろうか、ようやく黒いネクタイの女が店から出てきた。
 黒いネクタイの女に近づいた帆足と荒木は、警察手帳を見せ、
 「少しよろしいですか」
 と言って、女を呼び止めた。女は立ち止まると、
 「警察が私に何の用ですか」
 と逆に聞いてきた。悪びれた様子はみられなかった。
 帆足は、二年前に起きたこん睡窃盗事件の犯人に服装やスタイルが女が似ていることを告げ、申し訳ないが署の方へ同行してもらえないかとお願いをした。
 女は一瞬躊躇したが、渋々同行する旨、承諾をし、帆足が呼び寄せたパトカーに乗車して署に向かった。

 女の名前は日下敦子と言った。職業はファッションコーディネーター。難波の地下街で女性用の洋服を販売する店の主任をしていた。黒いネクタイ、白いブラウスはその店で働いていた女の子からもらったもので、質のいい仕立てだったので、時折、気分転換に着ることがあり、先週と今週、たまたまその服を着て出かけたところだった、と日下は語った。
 監視カメラに写っていた画像をチェックしたが容疑者とは別人の女だった。
 「その服装をもらったという女性ですが、今もお付き合いがあるのですか」
と 誤認逮捕した非礼を詫びながら帆足が尋ねると、日下は、
 「いいえ、ここのところずっと会っていません」
 と答えた。
 荒木が監視カメラの映像を日下に見せ、この女性の顔に見覚えがないかどうかを尋ねた。
 「よっちゃんです。よっちゃんがどうかしたのですか?」
 画像を見た日下が即座に答えた。

 よっちゃんは四箇田佳子といい、二年前まで日下の下で働いていた女性だと日下は話した。
 「よっちゃんはよく働く女の子で、お客さんにも好かれていたから、やめると聞いた時は驚いて、何とか思いとどまるように説得したのですが、駄目でした。長い間、同棲していた男がいて、やっとその男と結婚することになった、一緒に彼の田舎へ帰って所帯を持つと喜んでいました。でも、同棲していたその男、定職もなくてパチンコばっかりやっている男だったから心配していたんですよ。よっちゃんにもそれを言って、大丈夫? と尋ねると、やっと改心してくれたからもう大丈夫ですって――。二年ほど前に店をやめてからは、それっきり会っていません。よっちゃんがこん睡窃盗の犯人? まさか、あの子はそんな子じゃありませんよ」
日下は強く否定したが、四箇田佳子が犯人であることは疑いのない事実のように思われた。
 捜査本部は四箇田佳子を緊急手配した。
 四箇田佳子の消息を確認できたのは、それから一週間後のことだった。日下の店に残っていた履歴書で四箇田の身元を確認し、実家に連絡を取ると、四箇田は現在もなお大阪にいることがわかった。
 四箇田佳子は、南海本線天下茶屋駅の近くにあるワンルームマンションに一人で住んでいた。捜査員が駆けつけると不在だったが、張り込みを続けた結果、深夜二時になって帰宅したところを逮捕した。
 署に連行された四箇田佳子は、あっさりとこん睡窃盗の犯行を自供し、申し訳ないとうなだれた。
 四箇田佳子は、当時、同棲していた黒木洋一という男から「結婚するために借金を清算しないといけない。このままだと命が危ない。何とかしてくれ」と懇願された。自分も貯金がそれほどあるわけではないと言って断ると、黒木は、四箇田に「男をホテルへ連れ込んで金を奪って逃走すればいい」と知恵を授けた。四箇田は、最初、それを怖いから嫌だと突っぱねた。だが、黒木は、「今、借りているお金は闇金から借りていて、早いうちに返さないと俺は大変な目に遭う。お金さえ返済できたら、俺はお前と一緒になって田舎へ帰ってやり直す」と涙を流して四箇田に頼み込み、四箇田を承諾させた。
 四箇田は、黒木の計画に沿って、スナックへ客として行き、声をかけてくる男を誘ってホテルへ入った。男に風呂に入るよう促して、その間にビールを用意して睡眠薬を混入して眠らせ、金を奪う。それが黒木の考えた犯行で、六件行って六件とも成功した。金も借金分だけは充分集められたはずだった。四箇田が黒木に「こんなことはもうやめたい」と言うと、黒木もあっさり承諾し、田舎へ帰る日取りを決めて、四箇田は店を退職した。
 だが、黒木は闇金に一旦返済したお金を再び性懲りもなく借りて、パチンコやギャンブルに突っ込んでしまった。黒木は、「田舎へ帰っても金はいる。俺はおまえのために金を稼ごうと思って借りたんや」と言って四箇田を説得し泣きついた。
 仕方なく七回目の犯行を行った四箇田だったが、誘った男が悪かった。ホテルに入ったその男は風呂に入ることなく四箇田を襲った。サディスティックな男の粗暴な行為で重傷を負った四箇田は病院に運び込まれた。
 しかし、この時、四箇田は男を告訴していない。どこの誰かわからないといったこともあったが、警察の事情聴取を受けると今までの犯罪がばれる可能性があった。
 このことがあって、四箇田は黒木と別れる決心をした。黒木は執拗に四箇田にしがみついたが、四箇田の決心は固かった。黒木の留守を狙って住まいを変えた四箇田はその後、黒木とは会っていない。黒木は必死になって四箇田の行方を追ったようだが、そのうち、闇金への支払いが焦げついて大阪から逃げ出したと噂に聞いた。
 黒木と別れた四箇田は、心の傷が癒えないまま、転居して現在の住まいに移り、今は、あべののスナックでアルバイトとして働いていると語った。
帆足は、四箇田を逮捕すると共に四箇田に犯罪を強要した罪で黒木を追った。黒木の居場所はすぐにわかった。黒木は実家に帰っていた。闇金の借金は、実家の両親が支払い、その対価として黒木は親の後を継いで田舎で百姓をすることになっていた。
 逮捕された黒木は、四箇田が逮捕されたことを知ると、しきりに四箇田に会いたがった。だが、四箇田の方は顔もみたくない、と素っ気なかった。二人の仲が修復されることはまずないだろう、帆足は事件解決を待ってそう確信した。

 黒いネクタイの女の事件で迷惑をかけたこともあって、お詫びも兼ねて帆足はえびす亭に足しげく通うようになった。今では帆足も店の客たちから「イチローちゃん」と呼ばれるようになっている。あだ名を付けられることは嫌ではなかったが、困ったのは、後輩の荒木が帆足のことをイチローちゃんと呼ぶことだ。
 あれ以来、帆足と同様に荒木もえびす亭の常連になっていた。荒木は帆足よりも頻繁に通っていて、今では帆足よりもえびす亭では名前が通っている。その荒木が店の中だけでなく、警察署の中でも帆足のことをイチローちゃんと呼んだ。最初のうちは激高していた帆足だったが、最近は少々あきらめ気味だ。その荒木は、えびす亭では「けいちゃん」と呼ばれている。
<了>

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