満月の夜の奇妙な盆踊り

高瀬 甚太
 
 見知らぬ相手から招待状が届くことは出版社では稀なことではない。出版社を経営していると、何を勘違いしたのか、高額な商品を展示する会の案内が来たり、不動産関係の案内が届いたり、クラブの招待状が届いたりと、大金を持っているとでも思っているのか、さまざまな案内や招待状が届くことがある。そのほとんどが見知らぬ相手ばかりだ。
だが、そんな中に思いがけない招待状があったりすると、それでなくても好奇心旺盛な井森公平は、過敏な反応を示し、前のめりになってしまう。
 
 『五月五日、月夜の日に盆踊りを開催します。ぜひいらっしゃってください』
 
 ――盆踊りというのは、たいてい八月ではないか。それがなぜ五月五日なのか。
 ゴールデンウィークの初日に届いた案内を見て、井森の中に素朴な疑問が沸き起こったが、それよりも何よりも井森は、ハガキに描かれたイラストに興味を惹かれた。
 ハガキの中央に満月が浮かび、その下の草むらの中で踊っている者のシルエットがあった。そのシルエットがとても人間とは思えないような代物で、仮に動物であるにしても、それが何であるか、すぐにはわからなかった。
場所を見ると、兵庫県の山間部とだけしか書かれていない。その気になっても場所が特定されていなければ行きようがない。変なハガキだなと思いながら裏面を見ると、四ケタの電話番号が書かれてあった。ふざけた番号だと思いながら、井森は好奇心に駆られてその電話番号をプッシュした。
 4444と4が四つ並んだ番号、プッシュしてもつながるはずはない、そう思いながら電話をしたのだが、何と、プリプリプリ……という変な音が鳴って、電話がつながるではないか。信じられない思いで受話器を耳に当てていると、しばらくして、
 ――月夜の盆踊り大会実行委員会でございます。
と丁重な返事が返ってきた。井森は驚いて、すぐには言葉を返せなかった。
 ――招待状を頂きました。行ってみたいと思ったのですが、山間部としか書いていなくて、行き先がよくわかりませんので、電話をさせていただきました。
 ――失礼ですが、どちら様でしょうか? 限られた枚数しかお出ししていませんので御名前を頂戴できますか?
 ――極楽出版の井森公平と申します。
 ――少々お待ちくださいませ。極楽出版の井森公平さまですね……。
 ――……。
 ――お待たせしました。井森公平編集長ですね。確かにご案内させていただいています。参加をご希望されますか?
 ――ええ、出来れば参加したいと思っています。場所の方、教えていただけますか?
 ――ありがとうございます。ご参加されるのでしたらお迎えに上がります。
 ――お迎えって……、そこまでしていただかなくても結構です。場所を言っていただければ大丈夫ですので――。
 ――五月五日、盆踊り当日の朝、午前9時に会社へお迎えに上がります。
 ――あの、もしもし――。
 電話が切れた。今日が四月の二十七日だ。本当に迎えに来るのだろうか? 疑心暗鬼に囚われた井森は、確認のため、再度、電話番号をプッシュした。だが、今度は通じなかった。
 ――からかわれたんだな、きっと。
 そう思って井森は受話器を下ろした。
 
 四月二十七日から五月六日まで続く大型連休とあって、ビジネス街は閑散としていた。井森の事務所も人の気配が感じられないほど寂として静かだった。特に予定のなかった井森は、ずっと事務所に出勤して仕事をしていた。唯一の社員であるみどりは海外旅行に出かけていて、連休が終了する日まで帰って来ない。それほど急ぐ仕事がなかったこともあり、井森は仕事の合間に普段、出来ない難解な漢語で書かれた古典の本を読んでいた。
 長々と続く休日に飽き飽きし始めた五月三日、井森は神戸に行き、北野の異人館街にある、知人の経営するタイ料理の店に立ち寄った。経営者は日本人だが、料理人もウエイトレスもすべてタイの人で統一されている。経営者は佐藤優男と言い、井森の古くからの友人の一人で、民族学、それも特殊な民俗学に詳しいことで知られていた。特殊なというのは、通常ではない、一般では勉強出来ないようなということだ。佐藤は各国の特殊な民俗学に精通し、それらの異常な体験者としても有名な人物だった。
 ずっと以前、井森がまだ出版社を起業する前、カンボジアを旅行中に佐藤と遭遇している。佐藤は、その頃、カンボジアの山間部に在住していて、カンボジアに少数存在する民族の情報収集に励んでいた。井森は、山間の地で現地人と見間違えるほどその地に溶け込んでいる佐藤に出会い、驚いたことがある。
 「現地で生活しなければ、現地の民族なんて理解できないよ。机上の学問なんてまっぴらだね。書物を読んでそれを参考に書いたような民俗学なんて俺は信じないね」
 その時の佐藤の言葉に衝撃を受けた井森は、以来、ずっと佐藤と懇意にしている。
 大柄で野性味あふれる佐藤は、一見してどこの国の人間か、正体不明なところがあった。筋肉質の肉体と鋭い眼光――、タイ料理の店を経営しながら、今も佐藤は年に数度、様々な未開の国へ数カ月ごとの滞在をして、現地の住民への聞き取り調査を行っていた。
 この日、佐藤が店にいることを前日に電話をして確かめていた井森は、いつものように生春巻とタイ風のオムレツに舌鼓を打ちながら、佐藤の手が空くのを待った。
 店にいる時、佐藤は厨房に立ち、腕を振るう。その腕は国賓級の腕前で、わざわざ佐藤がいるかどうかを確認してからやって来る客も多かった。
ようやく手の空いた午後2時過ぎの時間帯、食事をし終えて読書をしていた井森の元へ佐藤が近づいて来た。
 「どうした風の吹き回しだい。連休の谷間に俺の店に来るなんて」
佐藤の長い口髭が店内の送風機にふわふわと泳ぐ。
 「ちょっと聞きたいことがあったんだ。もし、知っていたら教えてもらおうと思って」
 カバンの中から「月夜の盆踊り」の案内ハガキを取り出して佐藤に見せた。そのハガキを手に取った佐藤は、しばらく眺めた後、大きなため息を漏らした。
 「このハガキ、どうしてお前のところに来たんだ?」
 井森は首を振る。心当りがなかったからだ。
 「行くのか?」
 「ああ、行くつもりだ。事務所まで迎えに来てくれると言うのでね」
 「今の時期の月夜の盆踊りは確か――」
 言いかけて佐藤は言葉を止めた。
 
 ――盆踊りは、祖霊、精霊を慰め、死者の世界に再び送り返すことを主眼とし、村落共同体の老若男女が盆踊り唄に乗って集団で踊るもので、もともとは仏教行事であるとする説もあり、また原始信仰の儀式とする説もある。
旧く日本人は旧暦の正月と七月は他界のものが来(らい)臨(りん)する時と考え、正月は「ホトホト」「カセドリ」など、いわゆる小正月の訪問者たちがこの世を祝福に訪れ、七月は祖霊が訪れるものとした。盆(ぼん)棚(だな)で祖霊を歓待した後、無縁の精霊にもおすそわけの施(ほどこ)しをし、子孫やこの世の人と共に楽しく踊ってあの世に帰ってもらう。こうした日本国の精霊観に、仏教の盂(う)蘭(ら)盆(ぼん)会(え)が習合して、より強固な年中行事に成長した。
 昔は旧暦の七月十五日に行われており、盆踊りの日はいつも満月であったと言われている。
 
 「節句に行われる盆踊りには、特別な意味があるんだ。旧盆に行われる盆踊りとはその内容も意味も大きく異なる。井森、お前、本当にその盆踊りに行くのか?」
 佐藤が言葉を選びながら井森に話しかけた。
 「佐藤に相談しようと思ったのは、そのことについてだ。俺は一応、行くと決めている。ただ、行くにしても少しでも知識を得てから行きたいと思っている。教えてくれないか、何か知っていることがあれば――」
 「俺もはっきりと知っているわけではないが、節句に行われる奇妙な盆踊りがあることは聞いている。何でもその盆踊りは、死者を送るためのものではなく、死者を蘇えらせるための盆踊り聞いている。井森がなぜ、その盆踊りに招待されたのかわからないが、危険じゃないか?」
 佐藤の口から「危険」という言葉が出るとは思いもよらなかった井森は、少し緊張した面持ちで佐藤に尋ねた。
 「盆踊りが危険とは一体、どういう意味だ?」
 「その盆踊りが死者を甦らせるために開かれるものなら、招待客は全員、魂を抜かれてしまう危険性がある」
 「魂を抜かれる?」
 「ああ、そうだ。その候補として井森が招待された可能性がある」
 「じゃあ、俺も魂が抜かれるのか?」
 「多分な」
 と言った後、佐藤は特異な話を井森に話して聞かせた。
 「節句に開かれる盆踊りには、大きく分けて二つの意味がある。一つは子供の成長を祝う盆踊りと、もう一つは成長が至らないまま亡くなった子供を再びこの世に甦らせるための盆踊り。井森が招待を受けた盆踊りは、後者の盆踊りだと思う。何故なら子供の成長を祝う盆踊りならたいてい昼間に行われる。逆に亡くなった子供を甦らせるものだとするなら夜が多い。『月夜の盆踊り』と銘打っているところにそれが想起できる。
 日本には奇祭とされる祭や行事が数多く残っている。その大半が精霊を対象とするものだが、今回のそれは、俺が体験したものとはずいぶん趣が違う。
 わからないのは井森が招待されたことだよ。俺が代わりに行きたいぐらいだ」
 奇祭やへき地の民俗に関心のある佐藤ならではの言葉だと思った。
 
 結局、佐藤の話も噂の域から出ていなかった。誰も知らない奇異な盆踊りというところに、井森はますます興味を覚えた。一応、慧眼和尚に連絡を取っておいて、いざとなれば救いを求めるという手もあったが、今回、井森は運命に身を任そうと考えた。
 佐藤の言う「死者を甦らせるための盆踊り」が真実なら、何かの文献にそのことが記されている可能性がある。そう思った井森は、佐藤と別れた後、西区北堀江にある大阪市立の中央図書館に向った。
 日本の奇祭や伝統行事の類を中心に専門書を検索し、調べてみたが、盆踊りについての記述はたくさんあるものの、五月の節句に盆踊りが行われるなどの記載はどこにもなく、佐藤が言った五月の節句の盆踊りが死者を甦らせる踊りだという記述もまた、なかった。
 迎えの日は二日後に迫っていた。行先も場所もわからないのは不安で仕方がない。知識を得ようにも資料は何もない。井森は困惑した。このまま迎えの車に乗ってそのままになるのではと、そう危惧し、どうにかして手がかりを掴みたいと考えていた。
 知人の大学教授に尋ねても、節句に盆踊りと話すだけで一笑に付された。騙されているのではとも考えた。だが、電話の主は当日、迎えに来ると約束した。あの言葉が虚言だとは到底、思えなかった。
 やがて、何の準備も知識もないまま、当日の朝がやって来た。その日、井森はいつもより早く目を覚ました、というよりも、前日から自宅に帰っておらず、事務所で就寝していたのだ。
 午前8時に近くの喫茶店へ出かけ、そこでモーニングサービスのコーヒーとトーストを食べた。前日、前々日に比べて、不思議と落ち着いていた。何があっても戻ってみせる、その気概に満ちていた。
 事務所に戻ると8時45分、もうすぐ迎えがやって来る、そう思った井森はいつでも出れるようにと万全の準備をした。服装はラフな軽装で靴もジョギングシューズにしている。
 9時ちょうどの時間、インターフォンが鳴った。井森がそっとドアを開けると、運転手らしい人物が立っていた。
 「井森さま、お迎えに上がりました」
 帽子を深く被った運転手が井森を促す。井森は一つ頷いて運転手の後を歩いた。
 マンションの前に車が停まっていた。ごくありふれたタクシーである。井森が後部座席に腰を下ろしたのを見届けると、運転手がアイマスクを取り出し、
 「これを付けていただけますでしょうか」
 と黒いアイマスクを井森に手渡した。
 「どうしてこんなものを?」
 と井森が聞いた、運転手はそれには答えない。井森がアイマスクを装着すると、運転手はそれを確認して車を出発させた。
 ――車に乗ってすぐに井森は深い眠りに襲われた。アイマスクに睡眠を誘発するようなものが仕込まれていたのか、それとも単に眠ってしまったものか、目を覚ましてアイマスクを取ろうとすると、運転手の声が耳を威圧した。
 「アイマスクを取らないでください。もう少しで着きます」
 視界を閉ざされた闇の中で、井森は耳を澄ました。何か聞こえないか。そう思ったが、運転手の声以外、何も耳にすることが出来ない。時間の経過さえわからない。
 しばらくして車が停止する音が聞こえた。ようやく到着したのだ。だが、アイマスクはまだ外せない。腰を浮かしかけた井森のそばに運転手の声が聞こえた。
 「長い時間、お待たせしました。どうぞ、アイマスクを外してください」
アイマスクを外すと、暗い森の中にいることがわかった。だが、ここがどこなのかまではわからない。誰もいない車の中で井森はしばらく茫然としていた。
 ドアが開かれ、運転手が井森に「どうぞ」と丁寧な応対をして外に出るよう促した。
 井森が車の外に出ると、それを待ちかねていたかのように、一斉に辺りが光り輝いた。
 まばゆいばかりの光の中にいて、井森は一瞬、我が目を疑った。
 森の中に屋台が据えられ、提灯が無数に並び、そこに無数の人がいた。普段、よく見る盆踊りの風景と寸分も違わなかった。曲もまた同様に河内音頭によく似た曲がかけられていた。
 ――何だ。奇祭かと思ったが普通の盆踊りじゃないか。
 安堵した井森は、盆踊りに興じる人の輪の中に入ろうとして、一瞬、足を止めた。
 屋台を囲んで踊っていたのは人ではなかった。無数のタヌキに似た生物だった。
 「ようこそいらっしゃい」
 背後から声が聞こえた。井森が振り向くと、人ではない、生き物がそこにいた。
 井森が声を出すことも出来ないまま、立ちすくんでいると、その生き物は、なおも言葉を続けた。
 「全国から数十名の方々をご招待しましたが、来てくれたのは、井森編集長、あなた一人です。本日はご参加くださりありがとうございます」
 ここは異世界なのか、井森は自分の知っている世界の生き物とはまったく異なる生き物を眺めながらそう思った。
 「あなたは、一体、何物ですか? なぜ、私を招待したのですか?」
 日本語の通じるその生き物は、井森の言葉に丁寧に対応した。
 「ムジナと呼ばれる動物がいることをご存じですよね。哺乳類のタヌキやアナグマの俗称としてのムジナではなく、語り継がれてきた民話上のムジナ――、昔からムジナは、人を化かす能力のある動物として知られていますが、私たちはそのムジナなのです。今宵の『月夜の盆踊り』は、百年に一度開かれる私たちムジナの大祭です。私たちの話を真剣にお聞きいただけるのではと考えた数十名の方々に招待状をお送りしましたが、現代人は相当忙しいようで、また、好奇心を抱かれる方々も少なくなったようです。結局、あなた一人しかお出で願えなかった」
 ――ムジナは、哺乳類のタヌキ、アナグマの俗称とされている。民話の中では、人を騙したり、化かすことで知られ、妖怪視された形で多くの説話が残されている。
 ムジナの大きさはイヌ程度で、前足は短く、毛の色は茶色、歳を取ると背中に白色(黒色)の毛が十字に生え、人を化かせるようになると言われている。その化かせる様式はさまざまで、田や道を深い川のように思わせるものや馬糞をまんじゅうに、肥溜めを風呂のように思わせるもの、また方向感覚をなくさせるなどがある。ただ、そのような妖怪談も戦後以降、見られなくなったと言われて久しい。
 「それでは、ここにいる動物たちは、あなたも含めすべてムジナなのですか?」
 多分、ムジナの大将格であるだろう、そのムジナは大きく頭を振って答えた。
 「人間社会が考えるムジナのそれとは違って見えるでしょうが、私たちはタヌキでもなければアナグマでもない、正真正銘のムジナという生物です」
目の前にいるのは、タヌキに似た人といった表現の方が正しいと思われる生き物だった。彼らは人間と同じように立って歩いている。
 「私をここへ呼んでどうするつもりだったのですか?」
 井森の問いにムジナの大将は笑った――、いや、笑ったように見えた。タヌキは人のようには笑わない。
 「人間社会の自然破壊は、百年前よりさらに激しくなっています。いよいよ私たちの棲むべき場所がなくなり、ムジナの生息も難しくなりました。『月夜の盆踊り』も多分、今宵が最後でしょう。その最後の雄姿を多くの識者に見ていただき、私たちの思いを後世に伝えてほしかった。でも、結局、来ていただいたのはあなた一人でした。今宵、最後の盆踊り、どうかあなたの記憶の中に長くとどめてほしい」
 ムジナの言葉は井森の耳に切なく聞こえた。井森は楽しげに踊る無数のムジナたちを眺めながら、気になっていたことをムジナに聞いた。
 「五月五日の節句の日に行う盆踊りは、死者を甦らせる盆踊りだと聞きました。あのムジナたちは、何を思って踊っているのですか?」
 ムジナの大将は、今度は表情を変えなかった。変えないまま井森に向って答えた。
 「ここ数十年で自然の地形が大きく変貌し、私たちの棲む世界が破壊され尽くしたことは、私たち、貉に限らず自然に生息する多くの物たちにとって生死を分かつ大問題です。一時は、人間社会への報復も考えました。でも、やめました。人間たちと同じように、報復や憎悪に囚われていては、私たちは前に進むことが出来ません。そのため、私たちは決起しました。人間の盆踊りは死者を悼むものだと言いますが、私たちムジナの盆踊りは、明日への夢の懸け橋をつくろうとするものです。月に願いをかけて心を一つにして踊る――。今宵の盆踊りはそのために行われるものです」
 「明日への夢の懸け橋――?」
 「ムジナは、人の想像を超越したところに存在します。私たちの明日は、人間たちが唱える未来とは異なるものです。新しい宇宙を目指して私たちは今日、新たな出発をしようとしています――」
――その時、強い風が森の中を吹き抜けた。提灯が大きく左右に揺らめき、屋台がぐらりと傾く。しかし、踊っているムジナたちに動揺は見られない。委細構わず踊り続けている。
 しかし、中天の満月がグラリと傾いた時、大きなつむじ風が起こり、地上のものを次々と吸い上げて行った。つむじ風はさらに大きくなり、屋台も提灯も、踊るムジナたちさえ天高く吸い上げて行く。井森の隣りにいたムジナの大将も、その瞬間、天に舞った。
 ――ムジナは、これを待って盆踊りを行っていたのか。
 井森は、盆踊りを目撃してそう思った。だが、その井森もまた、つむじ風にさらされて天に向かって飛んで行った――。
 
「 編集長、こんなところで眠っていては駄目じゃないですか。風邪を引きますよ」
 目を覚ますと、みどりが目の前にいた。
 「みどりくんか? 旅行から帰るのが早いじゃないか」
 身体を起こした井森は、立ち上がった途端、クラッと軽いめまいを起こした。
 「何を言っているんですか。今日は連休明けの七日ですよ」
 エッと思って井森はカレンダーを見た。
 月夜の盆踊りに招待されて、タクシーで現地に向ったのが五月五日の午前9時だった。その後の時間の経過はわからないが、井森はムジナたちの盆踊りを目撃し、最後に大きなつむじ風に巻き込まれた。その後のことはまるで覚えていない。気が付いたら事務所で寝ていた。しかも、いつの間にか連休が明けている。
 「どこにも行かず、この部屋の中で無精していたんですね。編集長の匂いが籠って嫌な感じです」
 部屋の片づけをしながらみどりがぶつくさと文句を言う。それを聞き流しながら井森は、机の引き出しに入れておいた「月夜の盆踊り」の招待状を見た。確かに招待状はある。
 ――やはり私は招待されたのだ。そして、夢などではなく、私は盆踊りの現地に間違いなく行った。
 「実はなあ、みどりくん……」
 「はい、何ですか?」
 「……いや、何でもない」
 ムジナの盆踊りのことをみどりに話そうと思ったがやめた。信じるはずがないと思ったからだ。
 ムジナは人を化かすという。ムジナに化かされたのかも知れないと井森は思った。招待状を受け取って、電話をしたあの瞬間から井森は化かされていたのかも知れないと考えた。だが、それにしてはおかしい。タクシーにアイマスクをして乗ったこと、ムジナの盆踊りを妙にリアルに覚えている。しかもムジナの大将の話もそうだ。はっきりと記憶している――。
 
 そのまま日が過ぎた。ムジナの盆踊りの話は井森の中でそのまま過去のものとなった。
 三カ月ほど時間が過ぎて、八月の盆踊りの季節がやって来た。盆休みを利用して、井森は紀州熊野の叔父の家を訪ねようと思い立った。幸い、盆休みにやらなければならない仕事など何もなかった。八月は暇な月だった。
 新大阪駅からスーパーくろしおに乗り、紀伊田辺駅で下車した井森は、いつものように熊野行きのバスに乗車した。渓谷沿いの道を走るそのバスには、その日、なぜか井森の他に乗客はいなかった。運転手が一人、黙々と運転をしている。窓外の景色を眺めながら井森はふと、その景観がいつもと異なることに気が付いた。
 「運転手さん。いつもと違う道を走っているようですが……」
 しかし、運転手は何も答えず、ひたすらハンドルを右に左に切っている。
 「運転手さん」
 運転手の近くまで来た井森は、道が間違っていることを告げようとした。
 だが、運転手はボソッとした口調で井森に言う。
 「いいんですよ。この道で」
 「しかし、この道は……」
 戸惑う井森の前に、運転手が一枚のハガキを差し出した。
 『八月十五日、月夜の日に盆踊りを開催します。ぜひいらっしゃってください』
 ――これは……!?
 五月にもらった招待状とまるで同じハガキがそこにあった。
 「座っていてください。もうすぐ到着します」
 運転手のしゃがれた声に促されて井森は座席に座った。一体、何がどうなっているのか、見当も付かないまま井森は、不安な表情を隠そうともせず、バスの向かう先に視線をやった。
 渓谷の道から離れたバスは、深い山間の道を走り始めたかと思うと、その途中で車を停めた。
 「バスはここでストップします。明日の朝、お迎えに上がりますので――」
 運転手がドアを開ける。ドアの前に立った井森は運転手に尋ねた。
 「このバスを下車して私はどこへ行けばいいのですか?」
 「すぐにわかります」
 それだけ言うと、運転手はドアから離れるよう促し、ドアを閉めると、そのまま元来た道へ帰って行った。
 なだらかな山間の道に一人ポツンと取り残された井森は、立ち尽くしたまま、静寂の中に身を置いた。木々のざわめきや風の流れる音が耳に響く。
青空に白い雲が浮かび上がっている。まるで絵に描いたような景観は、都会で見る空の色よりずっと原色に近く、雲の色も同様に果てしなく白く見えた。
 時計を見た。午後4時を少し回っている。何が始まるのか、井森は先ほどからじっと身構えていた。独特の緊張感に包まれながら、五月の「月夜の盆踊り」を思い出していた。
 ムジナたちが現れるのだろうか――。天に昇って行ったムジナたちはあれからどうなったのだろうか。
 ――『月夜の盆踊り』も多分、今宵が最後でしょう。その最後の雄姿をあなた方に見ていただき、私たちの思いを後世に伝えてほしかった……。
あの時、井森はムジナの言葉を理解出来ずにいた。最後の雄姿とムジナは言った。後世に自分たちの思いを伝えてほしいとも言った。だが、井森はその後、何もしていない。誰に話しても信じるはずがない。そう思った。同時にムジナと過ごしたあの時間のことを井森はすっかり忘れていたことにその時、気が付いた。
 ――人間の盆踊りは死者を悼むものだと言いますが、私たちムジナの盆踊りは、明日への夢の懸け橋をつくろうとするものです。月に願いをかけて心を一つにして踊る――。今宵の盆踊りはそのために行われるものです……。
 明日への夢の懸け橋――。
 ムジナたちは月に願いをかけると言った。あの意味は……。少しずつ薄暗くなっていく空を見上げながら、井森は五月の盆踊りのことを思い出していた。
 
 宵闇が迫っても何も起きなかった。井森はこれまでしばしば奇異な出来事に遭遇してきた。今回も多分、自分はそうした世界に引き込まれるのではと、半ば覚悟した。だが、バスを降りてすでに2時間近くが経とうとしているのに、何も変化がなかった。そのことが逆に井森に恐れを与えていた。
 ――このまま、何も起こることなく時が過ぎ、夜を迎えるのだろうか。
静寂が続いていた。それもまた不気味だった。鳥の声や木々のざわめき、山間の中ではさまざまな声が共鳴し合う。それが一切なく、すべてが無に期している。井森は深い山の奥の道なき道に佇み、ひたすら時の流れるのを待った。
 午後10時を過ぎて、天上に星がきらめき、満月が中天近くに達しようとした時、突然、異変が起きた。
 井森が佇む闇の向こうに突如として鮮やかな灯りが見えたのだ
 井森は我が目を疑った。井森の眼前に映るそれは、五月五日に見た、ムジナの盆踊りとは異なる明るさを持つ光だった。
 眩い光が井森を襲う。その瞬間、井森は光の中に無数の物影を見た。
 ――光の中で何かが待っている。
 人のようなそうではないような、その物影を見た時、井森は呆然として言葉もなかった。
 ――ムジナたちだ!
 そう確信した。
 眩い光に包まれてムジナたちは、つかの間の生を楽しむかのように踊っていた。まるで人が踊っているかのようなそのしぐさを見て、井森は、五月五日のあの日、やはり自分は夢を見たのではなかったのだと悟った。
 屋台もなければ提灯もない。ムジナたちは光の中にいて、ただ踊っているだけだ。ムジナの大将が話しかけてくることもなかった。井森は今、完全な傍観者としてムジナたちの盆踊りを見守っていた。
 あの時、天に向かって消えたムジナたちがなぜ今、この場所にいるのか。そんな問いはあまりにも安易過ぎた。
 ――ムジナは、人の想像を超越したところに存在します。私たちの明日は、人間たちが唱える未来とは異なるものです。新しい宇宙を目指して私たちは今日、新たな出発をしようとしています――。
 ムジナの大将の言葉を思い出した井森は、完全なる傍観者として、今度こそ、その瞬間を目に焼き付けるのだと、思いを新たにして見守った。
 不思議な現象を頭から否定してしまうのは、すべて人間の驕りから来るものだ。世の中にはそうした人の意識を超越するさまざまな現象が多々ある。それを信じようとしないことで、私たちはそうした現象が訴える警告を見逃してしまっている。
 ムジナたちは人に警告を促しているのだと、井森は思った。彼らは、招待した井森が何もアクションを起こさずにいることに懐疑心を抱き、再び、井森の眼前にその姿を現したのかも知れない。
 ――ムジナたちの踊りは何を意味しているのか、何を警告しようとしているのか。
 井森にはその意味が掴めなかった。
 そのうち、踊りが佳境に達したのか、ムジナたちの踊りが一層激しさを増した。それと共に光が膨張し、井森の眼前にまで近づいた。
 ――光に包まれる……。
 眩い光が井森の元に近付いた時、井森は体中に熱いものを感じ、思わず目を閉じた。その瞬間だった。井森の耳に声が届いたのは――。
 ――人を滅ぼすのは常に人でしかない。自然の荒廃も、災害もその罪はすべて人にあることを知っておいてほしい。科学を信仰するあまり、人は畏れを失い、自らを律するチャンスを失ってしまった。しかし、人を救うのもまた人でしかない。あなたの力は些少であっても、その行動に賛同する者は必ず生まれてくる。この世の中に何が不足しているか、そのことを伝えてほしい。そして、私たちのように消えて行く生き物を防いでいただきたい。
 
 その声が消えると同時に光もまた急速にその眩い光を失い。元の闇に戻った。
 一体何があったのか、井森は呆然自失して周囲を見回した。何もない暗闇の山間に、動物たちの声が響き、鳥たちの共鳴が響き渡っていた。
 中天に浮かぶ月を見上げて、井森は人間の大罪というものを考えていた。その多くが人間のエゴに関わる問題だ。
 ――人間のエゴは、地球に存在する多くの生物を歪めている。私もそうだが、そのエゴを、人とは元来そういうものだと認知している節がある。ムジナたちは、そうした人間界の驕りを正したかったのではないか。そのことを警告したかったのでは――、と井森は思った。
 地球からさまざまな生物が消えて行く。やがて、その一つに人間も含まれるだろう。ムジナたちはそのことを訴えたかったのではないか。
 井森はこの場所に自分が存在する意味をずっと考えていた。些少な力しか持たない弱い人間の代表のような自分に、ムジナたちは二回に亘って訴えたかったもの、そのことを自分はどうやって世に知らしめたらいいのだろうか。見当も付かなかった。
 
 あくる日、夜明けと共に、この場所まで送り届けてくれたバスがやって来た。運転手は、自分をこの場所まで送り届けた人物と同一の人だった。
 「お迎えに来ました」
 運転手はそれだけ言ってドアを開けた。
 井森は、運転手に向かって何かを伝えようとしたが、やめた。自分の中でまだ何も答えが見つかっていない。バスの中には一人の乗客もいなかった。
 「どうでしたか。盆踊りは?」
 座席に向かおうとする井森に、運転手が声をかけた。
 「素晴らしい盆踊りでした。あんな盆踊りは多分、これから先、二度と見ることは出来ないでしょう」
 井森が笑みを湛えて答えると、運転手は小さく頷いて言った。
 「今朝の新聞に昨夜のことに関連した記事が載っていますよ」
 「えっ……?!」
 運転手が差し出すその新聞記事を見て、井森は思わず絶句した。
 ――熊野山中で大量の正体不明の小型生物の死体が発見され、ちょっとした騒ぎになっている。
 新聞記事はわずかそれだけを掲載した小さな豆記事でしかなかった。
 「これは――?」
 驚愕する私に、運転手が声を被せた。
 「五月にも同様の記事が掲載されていましたよ。今回もほんのわずかな豆記事です。人間は、自分たちの生活を守ることしか興味がないようですね。あなたもこの記事に気付いていなかったでしょ?」
 井森は小さく頷いた。
 「私が目撃したあの盆踊りを踊っていたムジナにも同様のことが起こっているのですか?」
 「そうですよ。でも、ほとんどの人が無関心です。興味を持ってもすぐに忘れてしまう」
 「昨夜、なぜ、私はあの盆踊りに招待されたのでしょうか?」
 「それはあなたが、人間の意識の外にいるものに関心を持ち、畏れと好奇心でそのことを認めようとしている節があるからです」
 井森はこれまでさまざまな超常現象に出会って来た。しかもそれを信じ、真正面から戦いを挑んできた経緯がある。人間の能力などちっぽけなものだ、と井森は常に思って来た。
 「信じない人に、昨夜のような盆踊りを見せても、恐怖心を感じて発狂してしまうか、馬鹿げたことと罵倒するかのどちらかです。そうした人たちに、何を警告しても意味などありません。しかし、あなたなら、と思ったのでしょう。その証拠にあなたは、五月のことも今回のことも目の前で見たことを信じている」
 「しかし、私は五月のことをすっかり忘れてしまっていた……」
 「だからですよ。今回、あなたにもう一度、盆踊りを見ていただいたのは」
 生きていることを楽しむかのように踊り狂っていた、たくさんのムジナたち。井森はそのことを何ら疑うことなく見つめていた。
 「楽しんでいたでしょ。生きていたでしょ。彼らはこの世に生まれた喜びを伝えるために最後の火を燃やしていたのですよ」
 五月五日のムジナたちの楽しげな盆踊り、その様子に井森は心打たれたことを思い出した。今回もそうだ。井森は踊るムジナたちの様子に生命の息吹を感じていた。
 バスが山間の道から公道に近付いた時、運転手が言った。
 「ありがとうございました。あなたが信じてくれたこと、楽しく見守ってくれたことが彼らにとっての大切な供養になります。また、会いましょう」
そう言って、運転手は井森をバスから降ろした。
 「この停車場でお待ちいただいたら、すぐにバスがやって来ます」
 井森がバスから降りると同時にバスは再び山間の細い道に向かって走り始めた。
 井森の中にあったのは得体のしれない不思議な感動だった。ムジナたちが見せてくれた月夜の盆踊り、あのバイタリティ溢れる踊りの余韻が、井森の心の中にまだ残っている。
 自分は一体、何をすべきなのか、どう行動するべきか。その問いに答えなければならない、そう思いながら、渓谷の停車場で井森は一人バスを待った。
〈了〉
 


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