芸者の恋、あるいはひとり言

 安田あやめと申します。ごらんの通り、芸者をしています。芸者について、皆さん、どれだけのことを知っておられるでしょうか? ご存じない方も多いと思いますので、そんな方のために芸者について少し説明をさせていただきたいと思います。
関西では芸者のことを芸子と呼びます。一般には、料理屋や待合などで伎芸を演じ、酒食を斡旋して客の興を添える仕事です。芸者とは、芸の巧みな者のことを言い、特に吉原遊郭の芸者は、売春をせずに三味線と踊りだけによる専門職業人として遊女と区別していました。
関西の芸子の多くは遊廓内に所属し、売春を前提としていましたので、関東のそれとは少し違いましたが、黒縮緬の着物に幅広の帯を後ろに垂らし、素足の爪に紅をさすなどの粋な風俗は、時代や土地によって多少の違いはありますが、外出の際に左手で裾を引き上げる左褄は、関西の芸子にまで及ぶほどの特徴的なしぐさとして後に芸者の異名の元になったほどです。
 明治以後は、芸者はすべて警察の監督下に置かれ、花柳界勢力の増大が芸者を急増させました。これには政官財界の待合・芸者の利用が深く影響していて、社交界の中心的存在として娼妓よりも上位の接客婦の地位を与えられたのです。しかし、芸者の増加は、やがて酌婦と区別しにくい、低い伎芸の売春専業に近い芸者を輩出させる結果となりました。この頃、ゲイシャ・ガールとして国際的に有名になったのは東洋的売春婦とみられたことによります。
第二次世界大戦後以降は公安委員会の監督下に置かれ、地方自治体の風俗営業施行規則によって出先の範囲を規制されました。最近は、芸者の本来の伎芸であるべき古典的三味線音楽を演じられる芸者が減少し、洋髪の増加にしたがって、着物の裾を引いた「出」の衣装を着る約束も崩れるなど、かなりの変化が現れています。
芸者は、芸妓置屋に籍を置き、所属営業地内の待合・料理屋・旅館などをおもな出先として出先への出勤し、勘定には検番の周旋を受けます。芸妓置屋との雇用の形態は、前借金による年季奉公形式の、いわば身売りのようなものが多く、十歳ぐらいから置屋で雑用をしながら基礎伎芸を習得して半玉を経て芸者となります。でも、現在は児童福祉法などの関係でこの形態は認められていません。
稼ぎ高の配分比率によって、丸抱え、七三、分け、逆七などの契約がありますが、この場合にも前借金を負うことが多く、また、配分の対象となる稼ぎ高の区分や生活費の負担割合などはそれぞれの場合によって異なり、主要収入の花代の計算が複雑なこともあって、その清算は非常にわかりにくいというのが実情です。
前置きが長くなりましたが、芸者の世界をある程度、知っていただいた上で、私の話を聞いていただきたいと思い、冒頭に退屈な説明をさせていただきました。
私が芸妓置屋に雇用されたのは十五の年です。中学を卒業してすぐの年でした。父の経営する会社が倒産し、大きな負債を抱えたことで、私は父の負債の穴埋めのために、人身売買にも似た形で置屋に売られました。
嫌だと言って拒否することも出来たのですが、家族のことを思うとそれが出来ませんでした。私が犠牲になって済むことだったら、と思って芸妓の世界に身を置いたのです。
芸妓の見習いとして置屋に住み込んだ私は、半玉として置屋の女将さんに芸妓の世界のしきたりや礼儀作法の手ほどきを受けることになりました。
京都では、芸妓になる前の見習いを舞妓と呼びますが、関東地方では芸妓を芸者と呼び、見習いを半玉、雛妓と呼びます。
芸妓は唄や日本舞踊で宴会を盛り上げ、お客をおもてなしするのが仕事です。芸がしっかりしていないと務まりません。当然、稽古は厳しいものになります。
負債代わりに置屋に売られたも同然だった私は、年季が明けるまで、お小遣い程度で給料は一銭ももらえませんでした。負債分だけでなく、着物や生活費、お稽古ごとの月謝まで入れると相当な金額になります。普通は五年ほどで年季が明けますが、私の場合、人より余分に時間がかかりますから大変です。
でも、苦しいことや悲しいことばかりではありません。女将さん、ここではお母さんと呼ぶのですが、お母さんもとてもいい人でしたし、元々、芸妓の仕事に興味がありましたから、それほど苦になりませんでした。
それに、どういうわけか私の場合、半玉の時からなじみの客に見初められ、ご祝儀をいただく機会も多かったので、生活的には恵まれていたと思います。

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