切られの与三郎

高瀬 甚太

 閉店一時間前になると、人目を避けるようにして立ち呑みの店『えびす亭』にやって来る客がいる。見るからに暗い表情と誰とも口を利きたがらないその様子から、男を怪しむ人も少なからずいた。何よりも、男の印象を決定づけるのが頬の切り傷だ。刀傷と思しき傷が左眉下から唇の端近くまで斜めに走っていた。
 極道かそれに近い職業の男に違いないと、その刀傷を見て誰もが思うのだが、誰一人として男にそれを確かめたものはいない。
 『えびす亭』は立ち呑みの店である。酒も安く酒の肴も安い。誰でも気軽に入れるし、人の選別などもちろんしない。店で暴れたり、人に迷惑をかけるような客は論外だが、そうでなければ誰でも入れて誰もが楽しく酒を呑める店だ。
 毎日、たくさんの客が出入りするわけだから、当然、その中には犯罪者もいるかも知れないし、逃亡者がいる可能性も考えられる。だが、それを詮索するような客は、『えびす亭』にはほとんどいない。マスターからしてそうだ。それが『えびす亭』のいいところと言えるだろう。

 七月の猛暑真っ盛りの季節のことである。一人の旅行者がえびす亭に入って来た。男は店に入るなり、マスターに尋ねた。
 「左の頬に大きな刀傷のある男、この店に出入りしていませんか?」
 二十代前半と思しき若い男であった。
 「その人がどうかしたんですか?」
 マスターが尋ねると、若い男は黒縁のメガネの奥の小さな目を瞬かせ、
 「私、北海道の室蘭から今日、大阪へやって来ました」
 と説明し、「大阪は暑いですね」と付け加えて、生ビールを注文した。
 生ビールを手に取った男は、ぐつぐつ煮立っているおでんを見て、
 「ジャガイモとすじ、コンニャクいただけますか」
 と言い、ようやく、マスターの質問に答えた。
 「探しているんです。知り合いから大阪にいるらしいと聞いて今朝の飛行機に乗ってやって来ました」
 話し方もそうだが、全体に真面目そうな雰囲気が漂っていた。それで、普段は詮索嫌いのマスターもつい、話を聞いてみる気になった。
 「その男はぼくの父親なんです。札幌市内で小さな料理屋を営んでいたのですが、店で始まった喧嘩を仲裁しようとして、頬を切られたんです。警察が駆けつける騒ぎになって、父も病院へ搬送されましたが、傷が深くて刀傷の跡が頬にそのまま残りました。客商売ですから、すぐに影響が出て、頬に刀傷があるというだけで、客が来なくなりました。借金もあり、父はずいぶん悩んだと思います。悩んだ末に父は、多額の生命保険を掛け、書置きを残して海に飛び込みました。遺体は発見されませんでしたが、自殺として処理され、私たち遺された家族は生命保険を受け取って、借金を片づけることができました。それが三年前のことです。
 嘆き悲しむ母親の元に、差出人不明の手紙が届いたのが三日前のことです。その手紙には、一言『あなたのご主人は生きています』と書かれており、その次の行に、『大阪市内の立ち呑み店えびす亭でご主人を見かけた者がいます』とありました。
 札幌市内に住む母親から、室蘭の会社に勤務する私の元に電話があり、
 『大阪へ行って、えびす亭という店に行ってもらえないか』
 と言うのです。私もサラリーマンですから、そうそう勝手に休みを取れる身分ではなかったのですが、無理を言って会社に許可を取り、三日間の休みを取らせてもらったというわけです」
 話を聞いて納得をしたマスターは、
 「本当にあなたのお父さんですね」
 と確認した後、その方なら、毎日、閉店一時間前に店にやって来ると、告げた。
 頬に傷のある男がやって来るまでまだ二時間余りあった。
 「その方が父かどうかわかりませんが、来られるまでこちらで酒を呑ませていただきます。生ビール、お代わりいただけますか」
 暗い表情の頬に傷のある男と、目の前にいる爽やかな好青年とのイメージが違い過ぎ、すぐには重なり合わなかったが、それでも、マスターは若い男の言葉を信じた。
 「それにしても、お母さんにお知らせした人はどなたでしょうね。大阪だけならともかく、えびす亭と名指ししているのが気になります」
 マスターの疑問に、若い男は、「ぼくも気になっています」と答え、
 「大阪に親戚はいませんし、父親の関係者にもいません。だから不思議に思っているのですが――」
 「お父さんが自殺されて三年経っているわけですよね。本当かどうかはともかくとして、生きていると聞いた時は驚いたでしょう?」
 「はい、ぼくもそうですが、母親はもっと驚いていました」
 その間にも客はどんどん入って来て入れ替わる。午後七時から九時までの間、えびす亭は一番混雑する。そのピークが今の時間帯だった。
 若い男は時々、周りを見渡しながら、腕時計を眺めている。その様子を見ているうちにマスターは少し不安になった。本当に息子なのだろうかと――。

 頬に傷のある男がえびす亭に出入りするようになったのは、二年ほど前からのことだ。ある夜、突然やって来て以来、ほとんど毎日のようにえびす亭に顔を出すようになった。
 寡黙な男だったので、マスター自身も口を利いたことはなかったが、男の持つ陰は、独特のものがあった。
 一度だけ、口を利いた記憶があったことをマスターは思い出した。
 その夜、閉店一時間前になっても客が引かず、混雑して新しい客が入れないような状態が続いていた。そんなところへ頬に傷のある男がやって来た。店が一杯なのを見て、頬に傷のある男が店に入るのをあきらめようとした。それを見たマスターが、
 「お客さん、入るよ。詰めて詰めて」
 と詰めさせて、その男を店の中に入れたことがある。その時、男が、言葉少なに、
 「ありがとう」
 と言った。
 「今日は何しますか?」
 と聞くと、
 「アジの造りはありますか」
 と言う。
 「すみません。造りはおまへんけど開きならあります。開きを焼きましょうか」
 男が承諾したので、マスターは開きを焼いて出した。
 その時、男がマスターの持っている包丁を見て、
 「磨いてあげないと――」
 とポツンと言った。
 マスターが聞き返そうとしたが、その時はもう男は黙り込み、いつもの無口になってビールを呑んでいた。
 それだけのことだった。何の変哲もないことなのだが、なぜか記憶に残っている。
 閉店一時間前になった。頬に傷のある男がやって来る時間だ。客の対応に追われるマスターだったがつい気になって入口のガラス戸を見た。すると見たこともないような人間が数人、店の外でウロウロしている。頬に傷のある男の息子だと名乗った若い男も落ち着かない様子でいる。
 「マスター、焼酎、お代わり!」
 客の一人が大声を上げたのがきっかけで、店の外がバタバタと慌ただしくなった。何が起きたのだろうと客たちが騒ぎ始め、マスターも気になって覗き見ようとするが客が邪魔になってわからない。店の中にいた頬に傷のある男の息子の姿もいつの間にか消えていた。
 
 閉店時間が近づいても頬に傷のある男は現れなかった。もう少し待とうかなと思ったが、息子と称する男もいなくなったことだし、今日は来ないだろう、そう思ったマスターがシャッターを下ろし始めたところへ二人の男が現れた。
 「本日はどうもご協力ありがとうございました」
 「え――?」
 意味がわからなくて、戸惑うマスターに、二人の男が警察官である証明を見せた。
 「ようやく捕まえました。本当にありがとうございます」
 マスターに深々とお礼をすると二人はそのまま立ち去ろうとした。
 「ちょっと待ってください。意味がよくわからないのですが」
 マスターが呼び止めると、二人のうちの一人が立ち止まり、
 「失礼しました」
 と言ってマスターのところへ戻って来た。
 「きみはそのまま帰ってくれ。俺はこの方に説明をしておく」
 年かさの刑事は、片方の刑事にそう言うと、マスターの方を向き直って説明を始めた。

 ――三年前、悪質な保険金詐欺事件が北海道の各地で発生するという事件がありました。
 悪質な保険金詐欺とは、借財を背負った者に多額の保険金をかけさせ、死なせてその保険金を搾取するというもので、札幌のみならず、北海道の各地で発生し、問題になっていました。
 札幌市で小料理屋を営んでいた川内大吾の息子の孝明は、川内にとって義理の息子で妻の連れ子に当たります。大学へ進んだのはいいのですが、孝明はギャンブルが好きで、完全な依存体質になり、多額の借金を抱え、取り立て屋に追われていました。息子の借金を払えと借金取りが店にまで押しかけてくるようになり、追い払おうとした大吾と取り立て屋が争いになって、大吾は頬に深い傷を負いました。
 その傷のせいもあって、小料理屋の客が減り、大吾は店を閉めて出直す決心をするのですが、その過程で大吾は、取り立て屋たちが息子に多額の保険金をかけて殺害しようとしていることを知りました。何とかしなければと思った大吾は、妻に相談しますが、自分の息子がかわいい妻は、息子の借財を清算するためにこの時、すでに夫の大吾を裏切っていたのです。
大吾に多額の保険金をかけ、息子と共謀して大吾を殺害する計画を立てた妻は、大吾を海に誘い出し、息子と二人で海に突き落とします。予め、遺書を用意していたこともあり、すべては万々歳のはずでした。
だが、一つだけ誤算がありました。大吾の遺体が上がらず、保険金が出るまでかなりの時間を要したことです。警察が捜査した結果、大吾には大きな借財もなかったことから、自殺事件と認定され、二年後、保険金が下りました。
しかし、ギャンブル依存症の息子のギャンブル癖はその後も治らず、大吾の保険金で一度は清算したものの、再び金を借り回るようになり、ついには詐欺グループの一員になってしまいました。妻はその時になってようやく後悔したようですが、時すでに遅しでした。
息子の孝明が、大吾が生きているのではないかと思ったのは、つい最近のことです。
パチンコ屋で出会った、大阪から流れてきた男と孝明が話をしている時、男が何かの拍子にある男のことを話題にしました
「おれが大阪にいた頃は毎晩、えびす亭という立ち呑み屋で酒を呑んでいた。いろんな客が来ていてなあ、ギャンブルの達人のような男もいたし、日雇いの男もいたし、中には大会社の課長なんてものもいた。そう言えば陰気な客もいたなあ。話したことはなかったけど、頬に大きな刀傷があって――」
頬に大きな刀傷と聞いて、孝明が驚いて聞き直した。
「頬に大きな刀傷って、もしかしたら左の頬じゃなかったか?」
「うーん――、そういえば左の頬だった」
「どんな奴だった。覚えていることを教えてくれ」
「あまり誰とも口を利かなかったなあ。隅の方でいつも一人で隠れるように呑んでいた。もちろん、名前なんか知らないよ」
その話を聞いて、孝明は父親ではないかと確信した。母と一緒に海へ突き落した父の遺体はまだ上がっていない。海流から言えば、陸に上がらないはずはないのに、とずっと孝明は思い続けてきた。
――そうか、父は生きていたのだ。
そんな会話の後、孝明は父の生存を確かめ、殺害するつもりで大阪へやって来たようです。
保険金詐欺犯罪を追っていた北海道県警から連絡を受け、保険金詐欺の一味の川口孝明が大阪へ向かったとの連絡を受け、私たちは彼がやって来るのを待ち構えました。
大阪空港に降り立った彼は、そこで迎えに来ていた暴力団N会の幹部と会い、打ち合わせを行った後、一人でえびす亭に向かっています。
北海道県警から新たな報告を受けた私たちは、その時、初めて彼が大阪へやって来た理由を知りました。大吾が店にやって来る時間を確認した孝明は、携帯のメールかラインで連絡をしたのでしょう、その時間が近づくと三人ほどN会の連中がやって来ました。
店の外で待ち構えていた私たちは彼らを逮捕、慌てて飛び出してきた孝明も逮捕しました。
北海道県警でも捜査が大詰めに来ているようで、今回の孝明の逮捕で、さらにその実態が明らかになるだろうと喜んでいます。本当にこのたびはありがとうございました――。

大阪府警の刑事は一通りの説明を終えると足早にマスターの元を去った。
マスターは茫然と刑事を見送りながら、言葉が出なかった。あの若者が――、信じられない思いでいた。
明るく快活で、爽やかなイメージがマスターの脳裏の奥深くに刻まれている。負のイメージなどまるでなく、詐欺や殺人などといった言葉とはまるで連動しない。
何かの間違いではないだろうか、そう思いながらマスターはシャッターを下ろし、電気を消した。
翌日は雨になった。夜中に降り出した雨が朝になって本降りになり、夕方近くまで降り続き、えびす亭開店の準備をし始めた頃、ようやくその雨が止んだ。
雨が降ると、人の入りが悪くなるのが普通だが、えびす亭では、雨が上がると途端に人の出入りが激しくなる。客の対応に大わらわでいたマスターは、午後七時、ピークの時間帯の最中、入口近くで立ち往生している大吾を見た。この時間にやって来るなど珍しい。
「詰めて、詰めて! 一人はいるよ」
マスターは入口近くに立っていた大吾を呼び寄せ、中に入るよう勧め、コップを差し出し、ビールを注いだ。
「昨日は大変でしたね」
マスターが言うと、
大吾は「えっ……?」と怪訝な顔をしてマスターを見た。
「わたし、昨日は仕事で来れなくて――」
大吾が言い訳をするかのように言うと、マスターは笑って、
「来なくてよかったかも知れませんよ。でもねえ、息子さんがあんなことをねえ、大吾さん」
と大吾を励ますように言うと、大吾がまたキョトンとした顔をする。
「大吾って――、私のことですか?」
「そうですよ。川内大吾さん」
「私、川内大吾という名前ではありませんが――」
「えっ?!」
「私の名前は島洋介です。それに私は独身でして、結婚したことがありませんから息子もおりません」
「――じゃあ、あなたは北海道出身ではないのですか?」
「北海道です。それだけは合っています」
「札幌でしょ?」
「いえ、函館です」
「小料理屋をやっていましたよね」
「自慢じゃありませんが、料理は作ったことがありません。私は若い頃からずっと刃物の仕事をやっています」
「じゃあ、その傷も?」
「この傷は制作中の刃物が跳ね返って来てやられました。よくあるんですよ。こうした傷を負うことが」
「それじゃ、川内孝明という名前にも心当りがないですよね」
「初めて聞く名前です」
マスターは、思わず笑い出しそうになった。孝明とその仲間は、刃物工の島洋介を大吾と間違えて、北海道からわざわざやって来て、捕まったのだ。考えるとドジな話だ。
頬に傷があるという話を聞いて、大吾が生きていると信じた孝明は、多分、日頃から、そう思い続けて来たのだろう。その恐怖心が、大吾が生きていると、簡単に信じ込ませた要因のようだ。
「島さん、どんどんやってください。今日は私がご馳走させてもらいます」
マスターはそう言って、島のグラスにビールを注いだ。
切られの与三郎の異名が、島に付けられたのはこの日の夜からのことになる。
<了>

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