漫才師、絶壁に死す 後編

高瀬甚太
 
 翌日早朝に、白浜署の木下刑事が部下の浜中刑事を伴い、私の宿泊するホテルを訪ねてきた。すでに朝食を終え、服を着替えていた私は、慌てることなく二人を出迎えることが出来た。
 「西脇さんの自殺の件ですが、そのことについて吉岡さんにお伺いしたいことがあるのですが――」
ちょうど私も二人に報告があった。美穂とみどり、二人のことだ。だが、それより先に木下刑事が話し始めた。
 「西脇と女性を乗せたタクシー運転手に話を聞いたところ、吉岡さんからお聞きした話と同様の見解を得られました。現在、自殺、他殺双方の捜査をしておりますが、状況からみて、自殺は考えにくいとの結論に達しています。すでに西脇の交友関係を中心に洗っていますが、西脇には二人の女がいて、一人が沢渡美穂という銀行員の女、一人が水商売の浅田みどりという女というところまで確認しており、また、闇金にかなりの借金があったこともわかっています」
 その説明だけなら意外でも何でもなかった。すでに私が調べていることだ。
 「女と借金以外にも、もう一つ、重大なことがわかっています。相方の佐藤という男のことです。二人の仲がずいぶん前から険悪であったことを吉岡さんは知っていましたか?」
 「佐藤と西脇のコンビが険悪な仲であることは、業界内では知らない者はいません。ただ、仲はともかくとして、二人は漫才コンビとしては最高のコンビです。息の合った漫才で客を魅了し、ようやく全国区の漫才コンビとして認知されてきたところで――」
 滔々と二人の人気を説明しようとしていると、木下刑事が手を広げて止めた。
 「私がお聞きしたいのは、そういうことではなく、二人の関係はもっとドロドロした陰湿なものではなかったかと言うことです」
 「陰湿――?」
 「そうです。捜査中、ふと、そのことを耳にしました。佐藤が西脇を殺したいほど憎んでいたと――」
 西脇と佐藤の険悪な関係は、単に性格の違いや芸風の異なるところから来るものではなかった。風評で流れる以上に二人の関係は、どうしようもなく深く陰湿な関係に陥っていた。だが、そのことを刑事に語る気にはなれなかった。事務所の恥をさらすようなものであったし、今回の事件には何の関係もないことだと思っていたからだ。
 「確かに二人はよく喧嘩をしていました。冷え切っていたことは確かです。でも、刑事さんが言うような関係ではありませんでしたよ。たとえ西脇の死が他殺であったとしても、今回の事件に佐藤は何の関わりもないはずでしょ」
 しかし、木下刑事は臆することなく、ほくそ笑み、私を凝視すると、小さな咳を一つして私に言った。
 「あなたがおっしゃったように、佐藤は今回の事件に何の関係もないように見えることは確かです。だが、その根拠と言えば、彼がこの地にいなかった、ということだけじゃないですか」
 「ええ、彼は西脇の死体が発見された時、東京で仕事をしていましたし、遺体発見の知らせを受けて初めてこの地を訪れたわけですから、どのように考えても佐藤は今回の事件とはまったく無関係と思いますが――」
 「そのことを証明する人物はいますか?」
 「ええ、私が証明できます。彼とは常に電話で連絡を取り合っていましたから。それに彼の仕事先に連絡を取っていただければ、すべてはっきりするはずです」
 「電話だけでは、白浜にいなかったという証拠にはなりませんよ。白浜にいなかったという確かな証拠がない限り、彼は私たちにとって重要参考人の一人です」
 私は憤慨して抗議した。
 「なぜ、そのように佐藤にこだわるのか、不思議でなりません。正直に言って佐藤と西脇がさまざまな理由で険悪な関係になっていたことは確かです。だが、殺人にまで至るはずはありません。何といっても彼らは十年来の下積み経験のある苦労を共にしてきた漫才コンビです。第一、西脇の存在なくして佐藤の存在はあり得ませんし、佐藤はピンでやれるような芸人でもありません」
 「それでもなお、佐藤に西脇を殺したいと思うほどの理由があればどうですか?」
確信ありげに木下刑事が言った。よほど確証があるのだろうか、そんな口ぶ りだった。
 「佐藤より、二人の女のことをもっと調べた方がいいのではないですか。西脇が自殺でないとすれば、二人の女のうちのどちらかが事件に関わっていると思いますがね」
 「沢渡美穂と浅田みどりについては、今、うちの署の者が大阪へ出張して捜査にあたっています。今回の事件に関係があるかどうか、白浜で西脇に合流したのが二人のうちのどちらかかということも含めて捜査している最中です」
 やはり、木下刑事は、二人の詳細を知っていなかった。
 「美穂とみどりが田辺市の出身であることや高校時代の同級生であることをご存じでしたか?」
 木下刑事は小さく首を振り、「いや――」と答えたが、それにはあまり強い関心を示さなかった。やはり木下刑事の本命は佐藤にあるのか。とすれば、木下刑事は佐藤に付いて重大な情報を掴んでいる可能性がある。
 「ともかく、自殺か他殺かを含め、我々は慎重に捜査をしている。もし、佐藤から連絡があったら必ず我々に連絡してほしい」
 これ以上、私から得られる情報がないと悟ったのか、木下刑事はそれだけを言い残してホテルを去った。
 ホテルで朝食を取った私は、正午近くになったところで、白良浜近くの大衆食堂に足を運んだ。店を訪れ食事をした女性が、みどりか、美穂か、確認する必要があると思ったからだ。
 白良浜は白浜温泉の中心地だ。夏場とは比較できないが、それでも旅行客がそれなりに目立つ。しかし、例の大衆食堂は、この温泉町から取り残されたかのようにひっそりとしていた。暖簾をかき分けてガラス戸を開けると、案の定、昼の書き入れ時だというのに、店内は閑散としていた。
 私を見た昨日の老婆が、「また、来てくれたのですか」と顔をほころばせて出迎えてくれた。
 親子丼を注文した後、私は老婆に、
 「以前、話していた若い女性客ですが、この二人のうちどちらかではありませんか」とスマートフォンの写真をかざして聞いた。
 画面が見にくいのだろうか。老婆は目を細めてしばらく画面の二人を見比べていたが、
 「あっ……!」
 突然、大きな声を上げたかと思うと、老婆がスマートフォンを指さして言った。
 「この娘だよ。間違いない」
 老婆が指さしたのは、美穂の写真だった。
 「この女性は眼鏡をかけていませんよ。それでもこの娘に間違いありませんか?」
「間違 いないよ。この娘だよ。耳の下から顎にかけて目立つ黒子があるだろ。その黒子を見て、異性運のない娘だなと思ったんだよ。だからよく覚えている」
 確かに美穂には顎に近いところに目立つ黒子があった。
 では、阪田神社に行ったのは美穂だったのか――。私はみどりではないかと考えていた。西脇に会う前にみどりは大衆食堂で食事をし、阪田神社へ行った。そう考えていたのだ。
 それがみどりではなく、美穂だとしたら、もしかしたら西脇と待ち合わせをしていたのも美穂だったのか――。しかし、どう考えてもおかしい。西脇の性格からいっても、みどりであるはずなのだが――。
 大衆食堂の老婆に礼を言って店を出た私は、西脇を乗せたタクシー運転手に会うために大衆食堂から少し歩いたところにある、タクシー会社に向かった。
 配車センターと銘打たれた場所に行き、「昨日、乗車したタクシーの運転手にお願いしたいことがあるのだが」と尋ねたところ、
 「生憎、全車、出払っていましてね。その運転手の名前がわかれば無線で呼び出しますが、覚えていらっしゃいますか?」
 タクシー会社の配車係はそう言って私に聞いた。だが、顔は覚えているが名前までは覚えていない。
 「名前はわかりませんが、六十を少し過ぎたぐらいでしょうかね、白髪が目立つ痩身の男性でした」
 配車係の男性は、少し考えた後、
 「わかりました。多分、川内いう者だと思います。今からすぐに連絡を取りますのでしばらくお待ちください」
 と答え、すぐに無線で連絡を取った。
 「空港で客待ちをしていますので、すぐにこちらへ戻って来ます。しばらくお待ちください」
 人のよさそうな配車係の的確な対応に礼を言って、タクシーが戻って来るまでこの場所で待機することにした。
 タクシー会社から外へ出ると、待ち構えていたかのように冷たい潮風が頬をかすめた。昨日までとは違う風の勢いに冬の気配を感じ取った私は、その時、改めて薄着をしてきたことを後悔した。
 何気なく水平線を眺めていると、ふと「夕焼け小焼け」の漫才が頭に浮かんだ。テンポのいい、小気味のいい漫才だった。西脇の激しい突っ込みと佐藤のボケ、安心して見ていられる正統派の漫才として、事務所がバックアップし、ようやくこれからというところまで来たところだったのに――、返す返すも西脇の死が悔やまれた。
 木下刑事が指摘したように、西脇と佐藤の仲は最悪だった。コンビの相性、二人の性格の相違といったもの以前に、二人の仲を最悪にする事件が起きていた。
 三年前のことだ。『夕焼け小焼け』が少しずつ認知され始めてきた時期、佐藤が糖尿病の疑いで一週間の検査入院をしたことがある。
 その佐藤の入院中に、新婚間もない佐藤の妻が首を吊って自殺をした。 『申し訳ありません』とだけ書かれた遺書が残されていて、自殺の原因はとうとうわからずじまいだった。
 佐藤と妻は誰の目から見ても仲が良く、佐藤もまた心根のやさしい男だったから、佐藤に非があっての自殺とは考えにくかった。
 入院中に妻の死を知った佐藤の取り乱しようは、想像を絶するほどひどいものだった。そのため彼は予定の入院期間を過ぎてもすぐには退院出来ないほど憔悴していた。
 さまざまな憶測が流れたが、その中に一つ、気になる噂を耳にして我が耳を疑ったことがある。
 佐藤の相方の西脇が、佐藤の入院中に佐藤の家を訪問し、あろうことか、佐藤の妻を凌辱したというのだ。噂の火元を探し当てたところ、西脇本人が酒の酔いも手伝って、そのことを口外していたということがわかった。
 事務所はそのことを問題視し、秘密裏に西脇を呼び詰問したところ、西脇はあっさりとその事実を認めた。
 佐藤の妻は、西脇に凌辱されたことを悔やんで自殺したのではないかという憶測が立ち、このことを誰にも口外しないようにと、事務所は西脇に厳しく申し付けた。
 佐藤に知られてしまうとコンビ解消はもとより、何が起きるかわからない。その危惧があったことと、警察や週刊誌などに知られると、とんでもないスキャンダルとなって、木場芸能事務所全体にその火の粉が降りかかりかねなかったからだ。
 佐藤がその事実を知ったか、どうか、判然としなかったが、その後、二人の仲が険悪なまま、皮肉にも「夕焼け小焼け」の人気は急上昇して行った。
今回の西脇の自殺に、佐藤が関係しているとは思いたくなかった。
 ――いや、佐藤が関係していることなどあり得なかった。彼はずっと東京に滞在していたし、白浜に到着したのも西脇の死を知らせてからのことだ。しかも彼は西脇の死体と対面して号泣したと聞いている。彼が犯人であるはずがない。
 木下刑事が佐藤の関与に含みを持たせたのは、佐藤の妻の死とその死に西脇が関わっていることを知ったからではないか。
 ともかく、この事件がはっきりするまで私は白浜を離れるわけにはいかなかった。
 「川内が帰って来ましたよ」
 配車係の男性の声が聞こえ、前方から一台のタクシーがこちらに向かって近づいて来るのが見えた。
 
 白浜署の渕端と中松の両刑事が、大阪府警の原野警部を訪ねたのは、タクシー運転手の証言により、西脇が女性と同行して三段壁に向かったと聞いてから後のことだ。
 原野警部の協力を得て、淵端と中松は木場芸能事務所を訪問した。木場芸能事務所の神山課長が対応し、その際、二人の刑事は、西脇の交友関係、特に美穂とみどりについて質問した。
 「美穂という女は、西脇とはもう長い付き合いですな。この事務所にも何度か尋ねてきたことがありますから、よう知ってます。銀行に勤めるお堅い感じの女の子ですわ。何で西脇なんかと付き合うんやろと言うて、わしらよう話してました。大人しい娘でね。あの娘、西脇にたかられてかなりのお金をつぎ込んでいるのと違いまっか。西脇に、あの娘、どないするつもりや、と聞いたら、そのうち結婚するつもりや、と言うてたけど、その話を信用しているもんは、うちの中には誰もいやしまへんでした。
 みどりという女はよう知りまへん。宗右衛門町のクラブの女ということは知ってまっけど、それ以上、詳しいことはわかりまへん。何せ、西脇は女好きの女たらしでね。これまでも女性問題で散々事務所を騒がせていましたからね、みどりもきっとそんな中の一人でしょうな」
 喋り出したら止まらないといった感じの神山課長の話を、淵端と中松は呆気に取られて聞いている。女性関係だけでなく、西脇は無類のギャンブル好きで、競馬、競輪、麻雀、パチンコと、底なしの遊び人だと神山課長は説明した。事務所にもかなりの借金があるらしい。
 「暴力団関連の闇金からもかなりの借金があると聞いてました。この事務所にもそこの連中が取り立てにやって来たことが何度かあります。それに比べて佐藤は真面目でね。ギャンブルもやらなければ酒も呑まへん。女性関係で一度も問題を起こしたことのない男ですわ。芸人をやっているのが不思議なくらいの真面目一本の堅物な人間で、家庭を大切にする男でした。あんなことさえなければ今も幸せに暮らしているはずやのに――」
 「佐藤の奥さんは、確か自殺していますよね」
 「さすがは警察や、よう知ってまんなあ。そりゃあもう、美人でスタイルのええ子でしたよ。佐藤とは高校の先輩と後輩の関係とかで、十数年、付き合って来たんと違いますか。結婚したばかりというのに、あんなことになってしもうて、ほんま、佐藤がかわいそうで仕方がありませんわ」
 「その佐藤の奥さんですが、自殺の原因を作ったのが西脇だと聞きましたが……」
 「それについてはノーコメントです。それにしてもどこでそんな話、聞きはったんでっか」
 「いろんなところで聞き込みをしている途中で、そのことを耳にしました。ことの真偽はともかくとして、興味深い話だと思いましてね。こちらでしたら、もっとその経緯がわかるやろうと思って、是非ともその辺りの話をお聞きしたいんですが――」
 神山課長は一瞬、ためらい、次に事務所の奥を覗き込んだ後、しばらくしてから声を潜めて話し始めた。
 「実は、佐藤の奥さんの死に西脇が絡んでいるという噂がおましてね。佐藤が検査入院している隙を狙って西脇が佐藤の奥さんを襲ったという話ですわ。それを苦にして佐藤の奥さんが自殺したと言われています。死んだ人間のことを悪く言うのも何ですが、こちらでもそれで西脇に問いただしたことがありますんや。その時、西脇は悪びれもせんと私たちに言ったんですわ。『佐藤にはもったいない女やと思うたから俺が、ほんまの女の喜びちゅうもんを教えたったんや。死んだのは俺のせいやない。他に何か原因があったんやろ』と、そんなこと言いますのや。それが佐藤の奥さんの自殺の直接の原因になったかどうかわかりまへんけど、マスコミに知られたら大騒ぎになって、せっかく売出し中のコンビやのに潰れてしまう。そう思いましたから関係者やもちろん西脇にも固く口止めして、一切、その話を口外せんようにきつう言い渡しましたんや。特に佐藤にそのことを知られたら大変なことになる。そう思いましたので――」
 「佐藤はそのことを本当に知らなかったのですか?」
 「そのことを知っている人間もアホやない。佐藤に知られたらどうなるか、十分、わかっていますから、多分、誰も知らせていないと思いますけどね」
 淵端と中松、両刑事は、神山課長の聴取を終えた後、みどりの勤めている宗右衛門町のクラブと、美穂が働いている銀行に、原野警部と共に聞き込みに入った。
 みどりはここ一週間ほど前から休んでいることがわかり、美穂もまた同様に一週間前から仕事を休んでいることがわかった。
 みどりの場合は体調を崩したということだったが、部屋に行ってみると留守で、近所の人に尋ねると、田舎へ帰っているとのことだった。
 美穂は銀行に休暇届を提出し、法事のために実家へ帰るということを理由にしていた。
 調べてみると、偶然、二人共実家が和歌山県田辺市で、美穂の実家とみどりの実家が近いということがわかった。
 淵端と中松はそれらのことを白浜署に逐一、報告しており、偶然にしてはあまりにもおかしいと言うことになり、白浜署の木下刑事と浜中刑事が田辺の美穂の実家とみどりの実家を訪ねることになった。
 原野警部の捜査網によって、西脇が借金していた暴力団関連の闇金を突き止めることが出来、他殺なら暴力団に襲われたということも考えられるため、闇金の幹部を厳しく追及したが、彼らも西脇の行方を追っている最中だということで、その途中での突然の西脇の死であったため、今回の死に直接、関係していないことがわかった。
 
 タクシー運転手、川内に二人の写真を見せると、川内は悩むことなくみどりを指さして、「この女性ですわ」と言った。
 「この女性を途中で拾って、三段壁に行きました。間違いありません」
断言する運転手の言葉を聞きながら、私の頭は混乱した。
 同じ日に、美穂がこの町にいたことは大衆食堂の老婆の話でわかっている。私はてっきり美穂が西脇と待ち合わせをして三段壁に行ったのだとばかり思っていた。それが運転手の話で、西脇と一緒に三段壁に行ったのがみどりであることがわかった。恋敵同士である二人が同じ日にこの町にやって来た――。単なる偶然とは思えなかった。
 木下刑事にこのことを連絡しようと思い、電話をかけようとして思い直した。先ほど、木下刑事に、美穂とみどりが田辺市の出身だと知らせた時、木下刑事は何の反応も示さなかった。今のところ木下刑事の目はそこに向いていないようだ。今回、白浜での美穂とみどりの行動を報せても、多分、木下刑事は同じような反応しか示さないだろう。そう思った私は、電話をすることをやめた。それよりも自分で調べた方がいい、そう思い直したのだ。
 佐藤に電話をした。
 ――電源を切っているか、電波の届かないところに……。
 の声がしたのですぐに電話を切り、事務所に連絡をした。
 ――まだ、白浜でウロウロしてるんか。早う帰って来んかい。白浜署の刑事が来て、佐藤のことをいろいろ聞いて行きよった。どうやら警察は佐藤が怪しいと睨んでいるようやな。
 ――神山課長、佐藤のアリバイを調べてください。西脇が亡くなった日、佐藤は東京に行っていたはずです。その、佐藤が東京で何をしていたか、アリバイが取れれば、佐藤の疑いを晴らすことが出来ます。
 ――警察に聞かれて、すでにそのことは調べてある。西脇と佐藤は東京で仕事があって、西脇だけ先に大阪へ帰って来て、そのまま西脇は白浜へ行きよった。佐藤は、用があってしばらく東京にいるということやったが、ピンの仕事はなかったからどこかで人と会うてたんやと思うが、誰とどこで会っていたか、どこへ泊まっていたか、まるっきりわからんのや。
 ――私は、電話で何度か佐藤と連絡を取り合いましたが、その時、佐藤は東京にいるとのことでした。西脇が死んだことを知らせた時も、東京にいるのですぐに行くことは難しいと言ってました。もっと詳しく調べてもらえませんやろか。
 ――それがや。佐藤のやつ、東京の事務所にも顔を出してないし、連絡もしてない。西脇も佐藤も東京の仕事の後、十日ほどオフになってたさかい、その間の動きがまるっきり掴めんのや。
 佐藤のアリバイがない。そんな馬鹿な、私は東京にいる佐藤と連絡を取った。東京から帰って来た佐藤と会っている。西脇の死に慟哭の叫びを上げた佐藤、その佐藤が犯人だなどとはとても信じられなかった。
 もう一度、佐藤に連絡を取った。だが、先ほどと同じように不通になったまま、つながらなかった
 
 木下刑事から連絡が入ったのは、それからしばらくしてからのことだ。
 ――今、どこにいらっしゃいますか?
 と聞くのでまだ、白浜に滞在しています、と答えると、
 ――それはよかった。申し訳ありませんが、署の方へお寄りいただけませんか。
 と言う。迎えに行くというのを断って、タクシーに乗って白浜署に向かった。何か進展があったのではと、電話の様子からそう感じた。
 白浜署に到着すると、玄関で木下刑事が待っていた。木下刑事は私の顔を見ると、「こちらへどうぞ」と取調室へ案内した。
 「西脇の女、美穂とみどりを、現在、うちの刑事がそれぞれ任意で取り調べをしています。佐藤の行方はまだわかっておりませんが、二人を尋問するうちに意外な事実が発覚しました」
 取り調べ室の前で、木下刑事は私にそう説明をした。
 「意外な事実――ですか?」
 確認するように聞くと、木下刑事は大きく頷いて話し始めた。
 「あなたがおっしゃっていたように美穂とみどりは同じ高校の同級生でした。タイプの異なる二人ですが、高校時代はともかく、卒業してしばらくして大阪で出会い、友だちとして仲良く付き合うようになったと言います。美穂が西脇と付き合っていることを、当然、みどりも知っていました。西脇の女癖の悪いこともよく知っていて、みどりは美穂に、早く別れた方がいいと再三に亘って忠告していたようです。そのうち、みどりの店に西脇が頻繁に訪れるようになり、西脇はみどりを誘惑しようとしたようです。みどりはその一部始終を美穂に話していました。二人が共謀して西脇を殺害しようと思ったのは、みどりが西脇に薬を使って眠らされ無理やり犯されたことと、借金の取り立てに困った西脇が、闇金に美穂の名と銀行名を伝え、美穂に金を渡していると嘘を教えたことから美穂の銀行に闇金が頻繁に訪れるようになり、銀行での美穂の立場が危うくなった――、その二人の怒りが起因となっていたことがわかりました。ただ、確かに二人は共謀し、西脇を白浜へ呼び寄せたことだけは認めましたが、西脇を殺したわけではないと証言し、三段壁で西脇が勝手に飛び込んだのだろうと言い張っています。同時に佐藤の関与についても聞きましたが、二人共、佐藤は今回の事件に関係ない。自分たち二人が共謀したことだと証言しています」
 「木下刑事は、二人の証言を聞いて、どう思われているのですか?」
 木下刑事は少し考えた後、私に説明した。
 「三段壁で自殺をすると、海面に飛び込む前に岩に身体を打ち付け、その時点で、たいていの人は死亡してしまいます。打ち上げられた死体もそうでした。遺体から他殺かどうかを判断するのは難しい状況で、飛び降りたと思われる場所には争った形跡がなく、その周辺も同様でした。また、飛び降りる瞬間の目撃者も見つかっておらず、自殺か他殺か、非常に曖昧な状況です。しかし、私は、彼女たちが西脇の死に何等かの形で関与していると踏んでいます。佐藤も同様に関与しているといった疑いは捨てきれません」
 私は、自身が調査した内容を残らず木下刑事に報告した。美穂が食堂で食事をした後、阪田神社に向かったこと、西脇が美穂ではなく、みどりと待ち合わせをして三段壁に向かったこと、佐藤の所在が事務所でも掴めていないことなど、詳しく話して聞かせた。
 木下刑事は、二人の拘束をどうするか、判断に悩んでいる様子だった。殺害を共謀したが実行には至っていないと二人は話している。
 「二人の共謀罪は成立しないわけですか?」
 木下刑事に確認した。木下刑事は、すらすらと条文を読むように私に説明をした。
 「法令では、違法性が高く、実現する危険性の高い組織的な犯罪を実行しようと共謀した者を処罰の対象とするもので、特定の団体に参加する行為や、特定の犯罪と結びつかない結社を組織する行為を処罰するものではないとある。組織的な犯罪集団が関与する重大な犯罪を共謀した場合は共謀罪が成立するが、今回の二人の共謀については難しいですね」
 「すると二人は刑には問われないということですね」
 「実際にはそうだが、疑わしい点はいくつもある。だが、それを実証するものは何もない。当日、三段壁に行った旅行者を特定することは難しいし、目撃者を探し出すことも困難だ。旅行者に呼びかけると言う手もあるが、ほとんどの旅行者は白浜を離れているだろうし、もし、そう言った目撃者がおれば、もっと早くに警察に通報があると思う。自殺にしても他殺にしても人の多い時間帯に実行に移すことはしないだろうし――」
 「自殺で決まりということですか?」
 木下刑事は大きくため息をついて言葉少なに言った。
 「そうなるだろうな」
 結局、証拠不十分で美穂とみどりは釈放された。
 
 佐藤の遺体が発見されたのは、私が大阪へ戻って二日目のことだ。その日の早朝、白浜署の木下刑事から連絡があった。
 ――吉岡さんですか。先日はいろいろとお手数をおかけしました。いずれそちらにも連絡が行くでしょうが、その前にと思って先に吉岡さんに連絡をさせていただきました。
 そんな前振りの後に、木下刑事は佐藤の遺体が白浜の円月島に近い海岸で見つかった旨の話をした。
 ――佐藤の遺体? 何かの間違いじゃありませんか。
 ――残念ながら間違いではありません。財布の中にあった免許証から佐藤さんであることがわかりました。度々、申し訳ございませんが、白浜署にご足労お願い願えませんでしょうか。佐藤さんの遺体の確認と、吉岡さんにぜひ、見て頂きたいものがあります。
 木下刑事はそれだけ告げて電話を切った。
 早速、神山課長に佐藤の死を報告すると、図体のわりに気の小さな神山課長は青ざめた顔で、
 「一体全体、何の呪いやねん!」
 と、大声を上げて体を震わせた。
 神山課長の許可を得て、私は再び白浜署に出向いた。遺体の確認はともかくとして、木下刑事が、「吉岡さんにぜひ見て頂きたいものがある」と言った言葉が引っかかっていた。
 木下刑事は、何を私に見せようとしているのか――。
 白浜駅に到着し、タクシーに乗車して白浜署に向かった。何度も行き来した場所だ。道のりも風景もすっかり熟知している。
 「何度もご足労です。どうぞこちらへ」
 署に入ると、木下刑事が迎えてくれた。西脇のいた死体安置所に向かいながら木下刑事が言った。
 「佐藤さんは海岸で自殺体の状況で見つかりました。背広のポケットに自筆の遺書が入っていました」
 「佐藤がどうして自殺など――」
 「それをぜひ吉岡さんに見て頂きたくて、こちらへご足労頂いた次第です」
 遺体安置所の冷気が身体を襲う。木下刑事が遺体の顔に被せたせた白い布を取ると、土気色をした佐藤の顔が現れた。
 「佐藤です。間違いありません」
 ショックを隠し切れず、震える声で木下刑事に告げると、木下刑事はゆっくり首を振り、合掌して再び白い布を佐藤の顔に被せた。
 「吉岡さん、こちらへどうぞ」
 木下刑事と浜中刑事に付き添われて廊下を歩くと、二人は取調室の中に入って行き、私をその部屋に誘導した。
 「どうぞお座りください。突然で申し訳ありませんが、これから吉岡さんにご質問をさせていただきます。よろしいですか?」
 椅子に座らされた私に、木下刑事が質問する。
 「吉岡さんと西脇さん、佐藤さん二人との関係ですが、本当のところどうだったのですか?」
 思いがけない質問に私はドギマギして答えられない。
 「ど、どうって――。彼らは私の勤務する事務所の所属芸人です。それだけの関係ですよ」
 「それ以外に二人と特別な関係はなかったのですか?」
 「特別な関係とは?」
 「たとえば、吉岡さんは西脇と佐藤に脅されていたとか……」
 「脅されていた? どうしてですか。脅される理由など何もありませんよ」
 「そうですか。でも、それはおかしいですね。私たちが調べた情報では、西脇と佐藤は二人して吉岡さんをゆすっていたという事実を掴んでいるんですがね」
 「脅されていた事実? そんなものでたらめに決まっているじゃないですか」
 「それが案外、でたらめとも思えないのですよ」
 と言いながら、木下刑事は浜中に指示して鞄を持って来させた。
 「これを見て頂けますか」
 鞄の中からA4封筒を取り出した木下刑事は、その封筒の中から数枚の写真を取り出した。
 「これを見てください。ここに写っているのはあなたですよね」
見るまでもなかった。その写真を手に入れるためにどれだけ苦労したか、どれほどの金をむしり取られたか――。
 そこに映し出されていたのは、私が佐藤の新妻を犯すシーンだった。
 
 佐藤が検査入院した翌日、私はその手続きのために病院へ行き、帰りに、佐藤の妻に書類を渡すために立ち寄った。家を訪ねると返事がなかったのでドアを開けると、不用心なことに鍵がかかっていなかった。佐藤の妻の名前を呼んだが返事がない。どうしたのだろうと思い、部屋の中へ入って行くと、台所で佐藤の妻が倒れていた。
 「奥さん、どうかしましたか?」
 抱き起して声をかけると、佐藤の妻は意識を取り戻し、起き上がろうとしたが起き上がることが出来ない。
 「私、低血糖の症状があって、時々、こうした状態になります。甘いものを口の中に入れてしばらく安静にしておけば治ります。すみません。みっともないところをお見せして」
 居間にいつも常備してあるというキャンディを持って来て、佐藤の妻の口に含ませ、しばらく抱きかかえたまま、じっとしていた。
 佐藤の妻は申し訳なさそうに目を瞑り、私の腕の中で体を横たえた。倒れたままの状態であったからスカートが腿の辺りまでまくれ上がり、白いきれいな足が覗いていた。シャツの胸元から立ち上って来る甘酸っぱい匂い、白い素足――。私は、その瞬間、獣になった。
 身体の力を失い、無抵抗の佐藤の妻を凌辱した私の一部始終をスマートフォンで撮影していたのが西脇だった。西脇は、佐藤の妻に届け物があってやって来たのだが、ドアが開いていたことから、私と同様、変だなと思ったのだろう、ズカズカと中へ押し入った。そこで私が佐藤の妻を凌辱している場面を目撃したのだ。西脇は扉の影に隠れて一部始終を撮影し、泣き叫ぶ佐藤の妻に平謝りに謝って私が佐藤の家を出た後、西脇は、佐藤の妻にスマートフォンで撮影した映像を見せ、佐藤の妻を犯した――。
 佐藤に知られる前に佐藤の妻にお詫びをしなければ、そう思って佐藤の家を再訪した時、すでに佐藤の妻は亡くなっていた。自殺していたのだ。
 鬼畜のような行いをしたことに強い悔恨の情を抱いていた私の許に、西脇が現れたのはそんな時だった。西脇は、私が佐藤の妻を犯す一部始終を映した映像を見せ、私をゆすった。まさか西脇があの現場にいたなんて――、私は驚きを隠せなかった。
 「佐藤の奥さんに届け物があって、たまたま家を訪れたら、ドアに鍵がかかってない。おかしいなと思って部屋に入ると、何と、吉岡さん、あんたがいた。あんた、ひどいことするよな。無抵抗の奥さんを犯していたじゃないか。その一部始終を映したのがこの映像だ。恐れながらと訴えたら、あんた、会社はクビになるわ、家庭は崩壊するわ、警察に連行されるわで、人生、終わってしまうよ」
 そう言って西脇は、私から金をゆすり取った。私が帰った後、西脇が佐藤の奥さんを再び凌辱したことを知ったのはその後のことだった。
 その後も、西脇は数回に亘って私から金をゆすり取った。卑劣な西脇は、それだけでは飽き足らず、同情するふりをして、私の蛮行の一部始終を佐藤に伝えていた。
 佐藤の怒りの鉄槌を受け、西脇から金をゆすられた私は、二人を何とかしなければ破滅する。そう思い、二人を抹殺する作戦を練った。
 幸い、私の行為はまだ会社には知られていなかった。佐藤もまた金品を要求してきたからだ。二人を黙らせるために私は、サラ金から金を借りて融通しなければならなかった。
 耐え切れなくなった私は、いよいよ実行に移すことにした。
 西脇には美穂という愛人がいた。多額の借金を抱える西脇は、銀行員の美穂を利用して、裏工作させ、美穂に銀行の金を搾取する計画を立てていた。西脇はひどい男だった。あちこちに女を作り、ギャンブルに明け暮れ、湯水のように金を使い、闇金にまで手を出して、その負債を美穂に用立たせようとしていたのだ。
 さすがの美穂もこれには我慢の限界がきたのだろう。同級生のみどりと計らい、西脇を白浜へ誘い込んで殺そうとした。
 この時点で、私と美穂の利害が一致した。私が計画を立て、西脇を美穂とみどりに殺させようとした。それは、みどりが西脇を白浜へ誘い込み、西脇を油断させて、二人がかりで三段壁から突き落とすという計画だった。だが、その直前になって美穂は体調に異変を感じた。子供が出来たのでは…。そう思ったのだ。阪田神社にお参りをしたのは、そのことがあったからだろう。もっとも私がそれを知ったのは、ずいぶん後のことになる。
 私は、捜査を装って、わざと美穂とみどりの痕跡を追った。そうすることで捜査の目を二人に向けさせたかった。誤算だったのは、美穂が西脇の殺害をあきらめたことだった。
 
 木下刑事が推測したように、西脇を殺したのは私だ。みどりと白浜で合流した西脇は、白浜から私に電話をしてきた。
 ――金がない。とりあえず五十万円用意しろ。
 ――急にそんな金は出せないが、夕方までに都合してそこへ届ける。
 そう約束して白浜へ向かった。
 美穂とみどりが西脇を殺害する、そう信じていたから金を用意せず、そのまま白浜へ向かった。佐藤にも事前に連絡を取り、白浜で合流することを伝えていた。
 白浜へ到着した私は、一列車遅れてやってくる佐藤を白浜駅で待った。
 東京からそのまま白浜へ到着した佐藤の表情は固かった。私に対する怒りが醒めておらず、私の顔を見るなり突っかかって来た。無理もなかった。最愛の妻を自殺に追いやった張本人なのだから。
 この時、佐藤はまだ西脇が私の後に妻を襲ったことを知ってはいなかった。そんな噂を耳にしたことはあったようだが、西脇が私の犯行が自殺に追いやったのだと、話していたため、西脇を信じ、西脇が相方を裏切るようなそんな真似をするはずがない、と、これまでずっと思って来たようだ。そんな佐藤に、私は正直にすべてを話し、ついでに西脇の犯行も包み隠さず話した。
 金で解決できることではないが、と断って、私は佐藤に一千万円を用立てる約束をした。
 私の約束に気をよくした佐藤の怒りの矛先は西脇に向けられ、その怒りを助長するように、私は西脇を脅そうと佐藤に持ちかけた。
 美穂から西脇の殺害を断念したと連絡があったのはそんな時だ。
 みどりは西脇と付き合っているように見せていたが、西脇とはまだ肉体関係を持っていなかった。執拗に迫る西脇を言い含めて白浜へ誘い込んだのもみどりだった。美穂のためにと思い、西脇に接近したわけで、白浜で西脇と一泊する気持ちなど毛頭なかった。
 そんなみどりに、観光客が途絶え、土産物店が閉まった時間に、もう一度、三段壁に誘い出すよう命じた。このままだと西脇とベッドを共にしなければならない、と思っていたみどりは、必ず西脇を連れていくと私に約束をした。
 美穂には知らせず、みどりと共に三段壁にやって来た西脇を、待ち構えていた佐藤が追い詰めた。西脇は正直に話したのはいいが、その時、佐藤に言わずもがなの話をした。佐藤の妻が歓喜の声を上げたと付け加えたのだ。怒り心頭に達した佐藤は、西脇に詰め寄った。逃げようとした西脇は逃げ場がないまま断崖に向かった。その時、西脇の足を払い、断崖から蹴落としたのは私だ。西脇は呆気なく転げ落ちた。
 佐藤は放心したようにいつまでも眼下の海を眺めていた。
 みどりが警察に話すのではと思い、私は危惧した。しかし、みどりは警察には何もしゃべらず、美穂にも何もしゃべらなかった。
 佐藤は、自分が西脇を断崖から追い落としたと思っていたようだ。力なく肩を落とす佐藤に、私は、佐藤はこの時間、東京にいたとアリバイを画策し、携帯電話で連絡を取って、佐藤に西脇の死を知らせたと警察に報告し、佐藤がつい先ほど、白浜に到着したかのように演出した。すべてはうまくいったはずだった。
 西脇の遺体を見た佐藤が号泣し、遺体にすがって泣いたと、木下刑事から連絡があった。
 結局、佐藤は自殺してしまった。西脇から奪った写真と遺書を残して――。
 その遺書に、西脇の死に至る一切合切が書かれていた。私が事件に深く関わったことも。
 だが、私が西脇に足を掛けたことまでは書かれていなかった。私は、止めようとしたが止められなかった。佐藤の剣幕に恐れをなした西脇が逃げ、そのあげく崖下へ落ちてしまった。確かに佐藤を誘いこんだ私も悪いが、私にも佐藤にも西脇を殺害しようなどという気持ちなどなかった――、と、そう証言した。
 私の証言を補ってくれたのがみどりだった。
 私は、佐藤の妻を凌辱した罪にこそ問われたが、西脇殺害に関しては無罪放免となった。みどりの証言が功を奏したのだ。
 裁判で執行猶予つきの判決を受けた私は、神山課長の好意で、元の職場に戻ることが出来た。西脇が死に、佐藤の妻が死に、佐藤自身も自殺をしたことで、私は晴れ晴れとした気持ちで日を送ることが出来るようになった。
 ――もしもし……。
 みどりから電話がかかって来たのは、何もかもすべてが済んだ半月後のことだった。
 ――ああ、みどりちゃんか。このたびは本当にありがとう。おかげで助かったよ。
 ――吉岡さん、本当にそう思ってる?
 ――本当に決まっているやないか。すべてみどりちゃんのおかげや。
 ――じゃあ、とりあえず二百万円、用意して。明日、会社へ取りに行くから。
 思わず私は、携帯電話を床に落としそうになった。
 ――もしもし、もしもし……。
 すでに電話は切れていた。
〈了〉


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