シネマの夜

高瀬甚太

第二回

 レンゲの咲く、河原に近い土手の草むらは、その頃の私たちにとって快適なベッドだった。草の匂いに包まれて眠っていると、蝶々がやって来て私のおでこに止まる。目を覚ますと青い空と白い雲が視界を覆う。小学校の授業を終えた帰り、哲夫と連れ立って帰りながら鞄を放り出してひととき眠るのがその頃の私たちの習慣のようなものだった。
 あの頃、私たちは、草の寝床の中で、目をキラキラさせながらお互いの未来を語り合った。その頃の私たちにとっての未来は、手を伸ばせばすぐに捕まえられる、それほどたやすいもののように思われた。
 ――館内に拍手が鳴り響いた。
 画面では鞍馬天狗が馬にまたがってさっそうと登場する、そんなシーンだった。私もつられて同じように拍手をした。
 真っ暗な館内にいると、過去がすぐ近くに迫って来ているような、そんな感覚に襲われてハッとした。
 ――哲夫とは小学二年生の終わりに別れを告げた。
 父親の仕事の関係で哲夫は、二年生の二学期の途中で大阪へ転居することになった。
 哲夫が大阪へ出発する時刻、私はちょうど授業の真っ最中だった。哲夫を見送りたいと思っていた私は、担任の眼を盗んで、教室を抜けだすと、一目散に列車が走る線路の脇まで駆け付けた。
 煙を吐き、ポッポッーと音を高鳴らせ、シュッシュと轟音を鳴らしながら真黒な蒸気機関車が近づいてくる。その時の光景を私は未だに忘れない。
 通り過ぎようとする列車に向かって、私は思い切り手を振り、あらん限りの声を振り絞って哲夫の名を呼んだ。大声で叫んでいるうちに私の頬を涙が伝い、しょっぱい涙が口の中へ流れ込んできた。
 その時、
 「義男!」
 と、哲夫の声が聞こえたような気がした。慌てて列車を見なおすと、窓から身を乗り出すようにして哲夫が白いハンカチを振っていた。
 すべてモノクロームの世界だった。空も草木も列車はもちろんのこと、哲夫さえもがモノクロの中にいた。
 「いつまでも友だちでいようね」
 と、固く約束していたけれど、私はあの日以来、哲夫とは一度も会っていない。

 鞍馬天狗と近藤勇の対決が画面を彩る。一時間と少しの上映時間は、いつの間にか終わりを告げようとしていた。
 ――なぜ、ここへ来て、哲夫のことを思ったのか、不思議でならなかった。なぜ、哲夫のことしか思い浮かばなかったのか、それも不思議でならなかった。
 「終」の文字が画面一杯に出ると、館内が明るくなった。白色蛍光灯の灯りではなく、全体が黄色蛍光灯で黄色く彩られていたのが印象的だった。すでに観客は誰もいなかった。知らない間に出て行ってしまったようだ。
 映画館を出ると、外光が眩しく思わず目を閉じた。目を瞬せながら北へ向かう道を歩く途中、ふと、思いついて振り返ると、いつの間にか、映画館が姿を消していた。幟もなく、草を生やした空き地だけがその場所にあった。首を捻ってもう一度、見返したが、やはりそうだった。
 ――幻でも見たのだろうか。
 まさか都会の真ん中で、しかも白昼、キツネに騙されるなんてことはないだろう。そう思いなおして歩を進めた。
 それにしてもお腹が空いた。私はこの時、自分がどこにいるのか見当がつかなかった。ただやみくもに北へ北へと歩いていたように思う。
少し歩くと、商店街があった。天神橋筋商店街ではないかと思った。しかし、それにしては様子がおかしい。昭和中期を思わせる旧い店が軒を連ねていた。
 私のような年代の者は、昭和中期の風景に出合うと、不思議に心が和む。目の前に展開する景観はまさに昭和そのものの風景だった。
 商店街を歩きながら、「うどん」と暖簾のかかった店に入った。メニューが壁に貼られ、白い割烹着を汁で汚した女店員が、厚いグラスに入った水を運んできた。
 「きつねうどんお願いします」
 と、注文すると、女店員不愛想に応えて奥の厨房へオーダーを通す。
 ――以前、同じような店に入ったことをその時、ふと思い出した。
 高校受験の時だったと思う。中学を卒業して、田舎から大阪へ来て就職をして間もなく、仕事場の先輩に連れられてこの店にやって来た。それが確か、この店だった。
 田舎には食堂がなかった。うどん屋などというものもなく、唯一、お好み焼きの店があるだけだった。それもあって、初めてうどん屋に入った私は感激して、声も出なかった。
 甘くて大きいアゲと、だらんと伸びたうどん、生まれて初めて口にしたきつねうどんが私に与えた衝撃は、とてつもなく大きなものだった。
 ――きつねうどんて、こんなに美味しいものだったんだ。
 感激のあまり涙をこぼしそうになる私を見て、先輩が笑った。
 「頑張れば、上に昇って行けば、もっともっと美味しいものが食べられるぞ」
 先輩の言葉に奮起して――曖昧だが、動機はそんなちっぽけなものだったのではないかと思う――翌年、私は定時制高校に進学することを決心した。
 ――きつねうどんがテーブルに置かれた。箸を割ってうどんを啜ろうとした、その時のことだ。なぜか、それまでずっと、ぼんやりとかすんでいた先輩の顔をはっきりと思い出した。
 工場にはたくさんの人がいたはずだが、その時の私には、なぜか、その先輩の顔しか思い浮かばなかった。
 数十年ぶりに食べたうどんは、思っていたほど美味しいものではなかった。だが、すっかり忘れていた当時のことを思い出させてくれたことに、この時の私は深く感謝した。
 あの時のあの先輩は今、どうしているだろうか――。


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