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モイラの落涙 -失楽(3)-

妄執

 

「私が強い。ちっとも強くなんかなくてよ。御覧なさいな。見ての通り一人で歩くことも儘ならない死期の迫っている老婆。こんな私のどこが強いと仰るのかしら」

「お心。いいや、精神ですよ。奥様は強靭な精神をお持ちでいらっしゃられます。そのエネルギーの源が何かを知りたいものですなぁ」

「酒井警部。年寄を相手にからかってはいけませんよ」

 悦子は紅茶を口にした。

「あら。すっかり冷めてしまったわね。クイント。温かいお茶を皆様へ差し上げて」

 悦子からそう命じられたクイントは各自のカップを片付け始めた。

「そうだわ。ブランデー」

「奥様」

「クイント。そう怖い顔をしないの。紅茶に少しだけ入れて欲しいの」

「お酒は、お医者様から止められて…」

「少しだけ。ほんの少しだけ。好いでしょう?」

 クイントは頭を下げると、片付けた食器を持って奥へ姿を消した。

「酒井警部。お話を続けましょうか。松毬早苗さんのことを話していましたわね。その方のお名前を知っていたくらいで詳しいことは余り存じ上げませんの。でも研究されていらしたことが世間の批判を浴び、医学会を追放されたようですね。彼女の研究の何が医学会、更には世間からの糾弾を浴びることになってしまったの?」

「彼女は、先ほど話題に上りましたように『譫妄』の研究の第一人者でした。私も医学に詳しくないので正確性に心もとない点はご容赦願いたいのですが、譫妄を研究する過程で彼女は死期のコントロールが可能だと主張したようです」

「死期のコントロール?」

「はい」

「具体的にはどのような事なのかしら?」

「人間の死は絶望によって決まる。つまり生きる事に絶望した瞬間、死が訪れると。彼女はそう考えていたようです」

「絶望ねぇ。そうなのかしら。絶望しなくても死を迎える人は大勢いますよ。例えば、子供や孫立ちから愛され、彼らや彼女達に看取られながら幸せの内に息を引き取る。そんな感じに愛される人に見守られながら旅立つ方が一般的じゃないかしら。そうして迎える死が絶望とは考えにくいけど」

「確かに奥様のおっしゃられる通りです。どちらかと言えば、私も奥様の意見に賛成です。だか松毬氏は、そうした幸福な或は、安逸で静かな死もまた『絶望』の一種に過ぎないと主張しました」

「よく解からないわ」

「はい。私も初めの内はそうでした。彼女の主張か理解できませんでした。ですが、彼女による『絶望』の定義からすると、それらの死もまた絶望に含まれると」

「?」

「つまり彼女にとって至福や満足も『絶望』の一種なのだそうです。それは何故か。末期の手前で感じる至福や満足、一般的には『往生』と呼ばれている現状も、生き続ける意志を奪ってしまうものであると。だからそれらも『絶望』に含まれると。彼女の仮説によれば、生命の継続や維持を阻害する心的要因は、善的な要素であろうとマイナスに作用するものであろうと、患者の延命に疎外となる因子であるから、広義的に『絶望』という心的状態に包含されるとした。彼女は『絶望』という心理状態をそのように規定しました」

「彼女の主たる研究対象が『絶望』と『寿命』の相関性にあることは解りました。それをコントロールすることで延命や死の苦痛から解放を追求していた彼女がヒステリックなまでに激しい批判に晒されなければならなかったのかしら?」

「研究の動機と目指すところは善であったようです。少なくとも彼女は、譫妄に苦しむ患者たちの苦痛からの解放を目指していましたし、苦痛を和らげる取り組みも行っていた。ところがその一方で、彼女は死期のコントロールを可能とする術を得た。患者たちが個々に抱える心の深層の恐怖と向合い、それを取り除く過程でそれが患者の死期に著しく影響することを発見した。だが、彼女の行う医療行為は非人道的な洗脳であると誤解されたのです。性差別からくる偏見が強かった時代ですから。女性研究者というだけで揶揄される。極めて画期的な研究の最先端を走っていた彼女に対する羨望と嫉妬は凄まじかったでしょう。男たちの嫉妬によって彼女は排除された。そんな風にも見受けられます」

「酒井警部」

「はい」

「もしも松毬氏が男性だったら、糾弾が和らいだとお考えかしら?」

「それはどうでしょう。私にも解りません。ただ、多少は和らいだかもしれません」

 悦子は溜め息混じりで笑った。

「男性の嫉妬。それは私たち女性のそれよりも陰湿で激しいと聞いていますよ」

「それは私にも経験ありませんが、話しとしては良く耳にします。同じ男性として言わせて頂くなら、そうかもしれません」

「でも、死期のコントロールが何故『洗脳』に繋がるのかしら?」

「彼女は治療において患者の心理や精神分析を非常に綿密に行ったようです。当時、彼女が行った治療に関する資料が現存していないので、その詳細は分かりません。ただ彼女は、患者の意識、無意識下の精神領域にアプローチし、薬物コントロールによって患者の感情を思うがままにコントロールした。そのプロセスで患者自身が他人に知られたくない記憶や感情をも露にして、患者の意識を誘導した。それが洗脳だと批判したのです」

「それは、本当に洗脳行為だったのかしら?」

「さぁ、それは私にも解りかねますが、決して触れられたくない感情や記憶、個性、嗜好、人格等を他人によって弄られる行為にもみえたことでしょうから、人々は本能的に彼女を嫌悪したのかもしれません。当時としては極めて画期的な研究だったのですが、彼女の本心とは真逆へ向かい、同時に成果等は完全に封印されて抹殺れました」

 クイントが戻って来た。

「さぁ。温かい紅茶をどうぞ。ブランデーが心と身体を解してくれますよ」

「ありがとうございます。頂戴します」

 一口飲んで、酒井は感嘆した。

「いやー。美味しいですなぁ。身体が芯から温まります」

 酒井がクイントへ称賛を告げると、彼は会釈した。

「実は、これは世間に知られていないことなのですが当時、松毬氏に対して当局が重大な関心を寄せていました」

「重大な関心?」

「はい」

「どんな関心でしたの?」

「殺人の嫌疑で彼女へ当局の手が及ぶ寸前でした」

「殺人?」

 彼女はソーサーごとティーカップをテーブルに置いた。

「松毬さんが誰を殺したのかしら?」

「誰を殺したという訳ではありません。しかしながら、彼女が医師として関わった患者たちの多くが不可解な死を迎えるケースが多発した。しかもそれらの死に関して、松毬氏の関与が濃厚となった。ただ彼女の場合、因果関係の立件が非常に難しい上に、彼女が海野製薬の御曹司の妻という立場が捜査の矛先を慎重にさせました。捜査は極秘裏に行われたことは言うまでもなく、捜査の状況に関しては当時の警察トップの極限られた人間にのみが知るだけでしたから。ガッチリ嫌疑を固めた上で捜査に及ぶという方針が徹底されていました。本人への事情聴取、捜査本部ではこれを事実上の逮捕に近いステータスと考えていましたが、その直前まで捜査は進んでいたそうです」

「そうまで徹底した捜査が極秘裏に進められていたのだとすれば、相当の証拠固めまで終えられていたんでしょうね」

「はい」

「でも彼女は誰も殺していなかったのでしょう。何故、彼女に嫌疑が掛けられたの?」

 酒井は一枚のコピーを彼女に渡した。

「カルテの写しのようね?」

「当時、松毬氏が担当していた患者のカルテです。名前の上をご覧いただけますか?」

 悦子は老眼鏡を掛け直して、酒井の指摘した部分を見て言った。

「アルファベットと数字のようね。上段がSDTと数字、下段がDTD。どちらも西暦の年月日に時刻が記載されているようだけど。これが捜査の切っ掛けでしたの?」

「はい。情報ソースは不明ですが、この一枚のカルテが彼女への捜査の第一歩でした」

「私には何の変哲もない、ただのカルテにしか見えませんけど?」

「SDTとDTDが重要でして。SDTは『Scheduled date and time』の略で予定日時を意味し、DTDは『Date And time of Death』の略で意味は死亡時刻となります」

 再びソーサーごとティーカップを持ち上げると、悦子は紅茶飲んだ。

 そんな彼女を見ながら酒井は、話しを続けた。

「二つの略号の後に記載された数字は西暦の年月日と24時間表記での時刻となります。つまり、彼女は担当している患者の死亡日時と時刻と実際の死亡日時と時刻をカルテに並記していた事となります。カルテは複数枚あり、どれにも同じ記載が残っていました」

「松毬早苗に捜査の手が及んでいた事、彼女の殺人嫌疑の切っ掛けとなった証拠のカルテ写真を老嬢にぶつけることが、今日の目的の一つだった。警察学校時代の恩師が二年前に亡くなり、仕事の関係で東京を離れていた私は恩師の葬儀に駆け付けることが叶わなかった。後日、線香をあげるため恩師のお宅を訪問したがその際、恩師が私へ渡して欲しいと夫人に託していた遺品の中に松毬早苗関連の捜査資料の写しと証拠物件の写真が含まれていた。恩師は松毬早苗に対する極秘捜査に関わっていたが彼女の失踪と合わせて捜査は打ち切られ、捜査本部も解散となった。逮捕一歩手前の状況での措置に納得のいかなかった恩師は、これらの資料類を密かに保管した。遺品の中には酒井宛の恩師の手記もあり、その中で彼は『白昼の通り魔殺人事件』で海野正満一家が惨殺された報に接した時、松毬早苗と正満の父親である海野満を思い出したようである。その後『空白の九日間事件』で病院に収監される容疑者を見るに至って、かつて松毬早苗の捜査過程で見た患者たちの表情に容疑者のそれが酷似していると感じたそうだ。

 

『松毬早苗』

『白昼の通り魔殺人事件』

『空白の九日間事件』

 

この三つには隠された繋がりがある。恩師は直感した。警察関係者のOB会で久々に再開した私から『白昼の通り魔殺人事件』と『空白の九日間事件』について聞き及び、更にそれらを私が個人的に追っていることを聞き及んだ。恩師は手元で保管する証拠類の扱いについて悩んだ末、自身の死後に夫人から私へ渡すように遺言したのだった。私に資料を渡すに当たって恩師が逡巡したことは、夫人に害が及ばぬようにしたかったからに他ならないが、松毬早苗関連の事件が時代と共に忘れ去られてしまうことが気掛かりだった。生前に資料類を渡せば夫人に害が及ぶと、恩師は恐れ続けた。何故なら『松毬早苗事件』に関わった関係者が恩師を除いて不可解の死を遂げたからだった。無事に警察を退職し、天寿を全うできた関係者は恩師以外には居ない。いつか自分に害が及ぶではないかと、恩師は恐怖し続けた。だが自らの余命を知った時、事件の風化を誰よりも恐れた恩師は、その意志を私へ託した。恩師は私への手紙の中で書いている。

 

『松毬早苗は必ず生きている。そして彼女は、今も人を殺し続けている』

 

恩師は手紙に捜査のヒントを書いていた。

 

『松毬早苗事件関係者たちの不可解な死。その共通性と海野製薬との関りが突破口だ』

 

恩師が示唆する関係者の死を追うにつれ、私は恩師が残した言葉に震撼した。関係者たちは、いずれも自らの命を絶っていたのだった。ある日突然、何の前触れもなく彼らは自らの死を選び、彼らの死に顔は恐怖で歪みながらも、同時に悦楽の笑みを浮かべていた。そしてそれは、あの容疑者の狂った表情に酷似していたのだった。

 

『松毬早苗』

『悦子・ノルダ』

 

それでも、両人が同一人物であることに対する半信半疑を払拭しきれずにいた。そして私は試みにカルテに残された筆跡鑑定をする。松毬早苗と悦子ノルダの筆跡比較の結果、両人が同一人物ある可能性は極めて高い判定結果を得る。だが、松毬早苗と悦子・ノルダの両人が同一人物だとして、ある日を境として、松毬早苗がどうやって悦子・ノルダへと変わったかに関しては謎のままである。松毬早苗の後半生は、彼女の失踪をもって闇の中。一方の悦子・ノルダに関しては、作り物のように感じられる前半生を除けば全てがリアルで生々しい。彼女の人生において生気を感じ始める分界点は、既に他界している夫のクレイ・ノルダとの結婚だろう。期しくも、その時期は松毬早苗が消息を絶ってから一年ほど後の頃となる。日本で二人は知り合ったようだが、その後ほどなくして恋に落ちて二人は婚約し、夫の小国であるアリミア共和国へ行く。二人は、すんなり帰国しなかった。世界中を旅してまわり、優雅な婚約旅行を一年近く続けて漸くアリミア共和国へ行ったのだった。帰国後、クレイ・ノルダは製薬会社を起業し、それは後年のレミノフ社へと発展を遂げた。小国アルミアで一介の製薬会社に過ぎなかったレミノフ社が、世界規模の製薬会社へと急成長できたのは創業者であるクレイ・ノルダの手腕によるものだが、それを差し引いても謎が多い。一部で噂されるように、かつての宗主国の中枢に喰い込んで様々なことを請け負ってきたことを、特に表には絶対に現れることがない政治工作分野における対応、それらが無かったとは言えないだろう。そして、その過程で浮上する人物がいる。

 

『コードネーム:モイラ』

 

アリミア共和国に限らず、旧体制側による対立国の要人暗殺や旧体制下での政治闘争における要人暗殺。ここに決まって名前が出る人物がいるモイラだが、彼女によって暗殺されたとされる要人たちの不可解な死に方と、『松毬早苗事件』の捜査関係者や『白昼の通り魔殺人事件』と『空白の九日間』の容疑者の不可解な死には共通性が見られる。

 

『松毬早苗』

『モイラ』

『悦子・ノルダ』

 

モイラが、松毬早苗と悦子・ノルダとを繋げる接点だとしたらどうか。私が長年にわたって抱え続けて来た多くの謎が氷解するのである。そんなことがあり得るのだろうか。荒唐無稽とも思える自分の考えに一番否定時なのは他ならぬ自分自身なのだが、そのことを捨てきれずにいる。モイラは、医学に造詣の深い東洋の女性だと言われている。悦子・ノルダとの共通点は東洋の女性という点だけでしかない。だが、もしも悦子・ノルダが松毬早苗だとしたら、医学に造詣の深いという条件が重なる。その前提で探るとして何故、彼女が人を殺すのか。何のために。彼女に人を殺させる動機は何か。動機。それを知りたい」

「この『SDT』と『DTD』に関するデータですが、私は十三人分を入手しています。非常に興味深い点は、これは当時の捜査本部も着目していた点であり同時に松毬早苗氏に対する疑惑の核となったことなんですが、SDTとDTDの日付が次第に接近しているという点です。例えばこのカルテですが、SDTの日付とDTDのそれとは五日の開きがあます。一方でこちらのカルテの場合では、ほぼ同日で13時間の差異でしかない。つまり松毬氏は、どうやら担当している患者の死亡予想月日と時間を予想しながら診療に当たっていたようなんですな。まぁ、カルテの十三人は全て終末期の癌患者や余命宣告されていた重病患者ばかりでした。つまり、こう言っては不謹慎を免れませんが、そう遠くない将来に死が訪れることがわかっている患者ばかりだった。ですから、それらの患者の余命を正確に予想するという興味に駆られたとしても不自然ではありません。まぁ、当然、医師の倫理であるとか道義的見地からすれば言語道断の行為と言えますがね。だが、当時の捜査本部では松毬氏の医療行為を医師が抱いた不謹慎な好奇心とは考えなかった。むしろ、その行為の背景に殺人の臭いを感じ取ったということでしょう。それが、自己の研究に没頭するあまり人間性を失った医師の非人道的所業なのか、それても終末期の苦しみから逃れたい患者の意向を汲んでの嘱託殺人なのか。今となっては、その真相を知るのは松毬早苗氏だけで、当の本人が失踪して生死すら分らない今となっては、探ることも叶わず真相は闇の中といえましょう。私も半ば諦めていたのですが、恩師から譲り受けた十三枚のカルテを改めて見て、そのどちらでも無いと気づかされたのです。十三枚のカルテを作成年月日順に古い方から並べて見て、SDTとDTDを見比べ見たのです。すると、カルテの作成年月日が新しくなるにつれてSDTとDTDの差異が縮まっていくのです。一番新しいカルテの患者の場合、SDTとDTDの誤差は1時間を切っていました。つまり松毬氏は何らかの手段で患者のSDT即ち予定死亡時刻を予想でるようになり、彼女はその正確性を極めるための研究を続けていたのではないかと。その見地が正しいとするならば、松毬早苗氏は殺人など犯していない。むしろ、死期がすぐそこまで迫っている患者に対する苦しみからの解放を実現するために患者たちの観察を続け、向き合っていたのでは無いかと思えるのです。彼女の不幸は、苦しみから人々の解放を目指した研究であったのにも関わらず、その真摯な行為を逆手に取って彼女を陥れ、果ては社会からをも追放した」

 悦子はカルテの写真から目を離し、老眼鏡越しに酒井の顔をジッと見つめた。

「つまり彼女は、彼女の存在を疎ましいと思った誰かから、嵌められるべくして嵌められ、遂には社会的にも抹殺されてしまった。私は、そんな風に感じているのです」

 彼女は曖昧な笑みを酒井へ向けて言った。

「松毬さんは、自分をスポイルした社会を憎んでいるかしら?」

 酒井もまた、眼鏡越しに老嬢を見て言った。

「憎悪し、復讐したいとすら思っていたでしょうね」

「誰に?」

「誰?」

「復讐の対象。それとも酒井警部は、彼女が無差別殺人をするとお考えかしら?」

「残念ながら、彼女が無差別殺人をするとは考え難い。私が彼女なら、彼女をスポイルした海野製薬を復讐の対象として選ぶでしょうね」

「殺人容疑で松毬早苗に捜査の手が及ばんとしていることは知っていた。でも、捜査の初動において、十三枚ものカルテが司直の有するところだったとは知らなかったわね。舅はそうまでして松毬早苗を排除、いいえ抹殺してしまいたかったのね。でも、カルテの写しを持ち出したのは誰だったのかしら。あのカルテは比較的厳重に管理されていたから誰もがタッチすることはできない。研究室内でも私を除いて扱える人間は、教授と極限られて人物しかない。舅に抱き込まれたの誰か。今になって、当時の一人ひとりの顔が頭に過るけれど、誰がそうだという確信が持てない。誰もが怪しいし、そうでないとも思える。でも一番怪しい人物が一人いる。それは松毬早苗の夫、海野満。今更それを知ってどうなると言う感じだし、仮に海野満が舅に抱き込まれた裏切り者だったとして驚きはない。ましてや、それに対する憤りも復讐心も起きない。あぁ、そうだったのねと単純に思うだけの事に過ぎない。酒井警部に答える形で海野製薬に対する復讐だと返したけど、実はそんな物は微塵も無かった。第一、復讐心を沸き立たせて復讐の鬼になったところで何かが変わり、好転し、松毬早苗をスポイルした世間に対する痛烈なメッセージングとなるだろうか。そんな事には成りはしない。それを嫌と言うほど思い知らされたのは他ならぬ松毬早苗なのだから。むしろ、あの時、早苗が何よりも恐れたのは自身の研究を進める事ができない絶望に他ならない。確実に研究の成果は現れていた。日々、その成果により、SDTとDTDの差異は縮まっていたし、精度は格段に上がっていた。あと一歩のところでSDTとDTDがぴったり重なる快挙を目にすることができたはず。そして成果による発展と成功を得ることなく研究の第一線から退かなければならいな悔しさ。そればかりか早苗が研究によって得て来た貴重かつ膨大な研究データを全て奪い去られる屈辱。我が子も奪われ、社会から抹殺される人間が真っ先に感じる物が何かを、警部さんはお解かりかしら。復讐心では無いのよの。そんな感情は微塵も起こらない。何故なら、生きると決めた人間にしか、その負の感情は芽生えないものなの。あの時、松毬早苗の心を支配していた感情は『絶望』だった

 

『絶望』

 

実はこれが、松毬早苗が探求し続けたテーマの核心だった。絶望の中には大きく分けて二つがあるの。一つは、満足に基づく絶望。そしてもう一つは、諦めに根差した絶望。大勢の末期を見続けて彼ら、彼女たちを観察し続ける内に松毬早苗は、あることに気がついた。それは、絶望の根源には『恐怖』が潜んでいると。満足とは何か。それは、恐怖から解放された状態。諦めとは何か。末期に感じた諦観を受け入れなければならない、時間切れにも似た、あがきたくてもあがき切れない恐怖。だから彼女は、末期を迎えた人々の心から『恐怖』を取り除けば患者を救えるはずだと考えた。だから松毬早苗は、対象とした患者の『恐怖の根源』を探り続けた。人々の精神世界の深層に潜む『恐怖の根源』さえわかれば、そしてそれを思うが侭にコントロールできれば患者は救われるはずだと。松毬早苗の研究の始まりは純粋な志に根差していたのよ。SDTとDTDとの差の縮まりはコントロール精度の指標でしかなかった。でも、人々はそれを『洗脳』『殺人』の二言で片づけ、松毬早苗を社会や彼女の人生から抹消した。復讐ではないの。ただ『絶望』なのよ」

 

窮鳥

 

「SDTとDTD?」

 悦子は、酒井の持ち出した略号をよく理解できないといった表情で言った。

「はい」

「つまり。松毬さんは、ご自身の研究が正しいと証明するために死期の予定日時に合わせて患者が亡くなるように何がしかの操作を施したということかしら?」

「さぁ、それは何とも。私には解りかねます。ただ、少なくとも当時の捜査本部は松毬氏に対してその可能性を疑って捜査を極秘裏に進めていたように思われます」

「人様の命を預かる医師たる者が、そんな愚かしい所業に及びましょうか?」

「どうでしょう。彼女は医師でしたが、研究者でもあった。何らかの根拠で割り出した患者の死期に関する予想日時まで患者を延命させた。そんな風にも見受けられますが」

「バカバカしい。仮にそうだったとして、彼女がそんなことをしなければならない理由、動機が理解できませんわ」

「そうですね。今となっては彼女を知る人物は一人としてこの世存在しませんし、彼女自身でしか真相は解らないでしょう。ただ、彼女がモイラであったなら話は別です」

「モイラなら?」

「話を『空白の九日間事件』に変えましょう」

 酒井は紅茶を一口飲み、話しを続ける。

「あの事件の最大の謎は、犯人が逃走してから確保されるまでの九日間をどこで何をして過ごしていたかにあります。当時、犯人は犯行現場だった住宅街の極めて近接にある公園のベンチで座っているところを確保された。九日間に警察が張った非常線は極めて厳重でしたし、蟻の這い出る隙間すら無かったと言えます。連日の聞き込みと警戒パトロールも徹底されていた。だから犯人は、あの九日間をどこかに潜伏するしかなかった。ですが、犯人が潜伏し得る場所は一か所を除いて全く無かったと言えます」

「この屋敷だと仰られるの?」

「はい」

「私どもが犯人を隠匿したお考え?」

「合理的に考えるなら、それは一つの仮説として成り立ちます。だが、奥様たちが犯人を隠匿する動機や目的が見つからない。もう一つの仮説として、これだけ広大なお屋敷と樹林を有された敷地です。そのどこかに犯人が潜んでいたとしても不思議はありません」

「そうね。監視システムは備えていますけど、目が行き届かない場所も多いですから」

「二つ目の仮説。敷地内のどこかに潜伏するですが、これには無理があります」

「そうなの?」

「発見当時の犯人ですが、ご承知の通り精神に異常をきたしていました。世間の目も全てがそこへ注がれていたので誰もが見落としている点があります。それは彼の健康状態です。すこぶる良好でしてね。身なりも良く髪の毛も綺麗でした。野外に潜伏していた形跡は一切見受けられませんでした。従って犯人は逃亡潜伏期間中を何者かに匿われていたと考えざるを得ないわけです」

 犯人確保の一報を聞き、老嬢の館から戻った酒井は取り調べ室の隣の部屋に入った。

「あっ。先輩」

「おう。香取。犯人の様子はどうだ?」

 香取は隣室を見渡せる壁のマジックミラーを指した。

 彼の隣に立ち、ミラー越しに見える犯人の様子を見て酒井は言葉を失った。

「奴さん、確保されてからずうっとあの状態なんですよ」

 視点の定まらないまま宙を見つめる眼差し。

 半開きの口からは時折、涎が落ちた。

 同僚が何を尋ねても犯人は、ヘラヘラ笑いながら意味不明の言葉を発する。

「ヤクでもやってんのか?」

「いいえ。マジで頭がイカレてるみたいです」

「コソ泥できる状態じゃないな。一体、何があったんだ?」

 香取は無言のまま、ただ首を傾げて見せた。

「血色も良いし、身なりもまともだ。野宿して潜伏ってことでも無さそうだな」

「えっ」

 香取は酒井と犯人を何度も見比べた。

「つまり、匿われていた可能性が高いな」

 それだけを言い残して、酒井は部屋を出て行った。

 

 酒井による取り調べが始まった。

「吸うか?」

 酒井は自分用の一本を取り出すと、煙草のパッケージを犯人の前に投げ置いた。

 だが、当然のようにそれへのリアクションは無い。

 犯人を観察しながら煙草に火をつけ、酒井は一服する。

 注意したつもりだったが彼の吐き出した煙の一部が犯人の顔に掛かる。

 犯人の様子がそれ迄とは一変する。

 それまで定まる事の無く宙を泳いでいた視線が酒井へ向けられる。

 無感情な犯人の視線。

 一瞬の間、二人の目と目が合う。

「吸いたいのか?」

 居心地の悪さから思わず発した酒井一言だったが、犯人は呟いた。

「やかた…」

「えっ?」

「館」

「お、お前。そこで匿われていたのか?」

 犯人は不気味に笑いながら答える。

「お菓子の館」

「お前。お菓子の館に居たのか?」

 犯人は笑いながら『お菓子の館』を連呼、やがて顔を恐怖で顔を歪めて狂乱に陥った。

「あれだけの大騒ぎの中で犯人を匿う人なんて居るのかしら?」

「はい。奥様のお考えが順当かと、私も思います」

「そんな大胆なことをする人間が、このご近所に居るとも思えませんわよ」

「そうでしょうね。大胆な人間。そんな人物はそうそう居ません。普通だったら、この私も、そんな発想は一笑に伏して聞き流すでしょう。でも、そんな普通の発想が通用しない場所だと言えなくもない」

「…」

 一瞬の間、悦子と酒井の目と目が合う。

「このお屋敷内ならば、警察の目に触れないように犯人を匿うことも可能でしょう」

 悦子はティーカップをテーブルのソーサーに置き、半ば呆れ笑いをしながら答えた。

「酒井警部さん。本気でお考えなの?」

「冗談ではなく、そう考えています」

「私が犯人を匿ったと仰りたいの?」

「そうでないと願っております」

「あの九日間。警部さんを筆頭に警察の方々が屋敷内に常駐し、館の警固の警察官の方が大勢常駐されておられた。犯人を隠匿できる状況では無かったように思いますよ」

 酒井は、悦子が何気なく使った『館』という言葉にハッとする。

「『館』ですか?」

「えっ?」

「奥様は普段、このお屋敷を『館』とお呼びになられているのですか?」

「時々かしら。海鴎城に暮らしていた時からの癖かしら。屋敷を館と言ってしまうの」

 悦子、口元で微笑。

「『館』と言ったこと、何か気になりましたの?」

「少し。ただ、大したことではありません」

 悦子は再びカップを手に取り、紅茶を口にした。

「このお屋敷は都内でも稀に見る洋館ですから、『館』と呼んだところで不思議はありません。ただ、そう呼ぶよりも屋敷と呼ぶ人の方が一般的かと思います」

「そうね」

「実際、このお屋敷を『館』と呼ぶのを耳にしたのも久し振りのことでしたから」

「昔、ここを館と呼んだ人が居たの?」

「はい。例の犯人です。ただ、そこがこのお屋敷かどうかは分かりません。自分が滞在したであろう屋敷のことを『お菓子の館』と譫言のように、そう呼び続けていましたがね」

 ティーカップとソーサーが触れ合い、乾いた磁器の音色が静かに響く。

「お菓子の館。ヘンゼルとグレーテルね。森で迷って辿り着いて助けられたのね」

「はい。でも、館の主の魔女は兄のヘンゼルを食べようとしていましたけどね」

「『窮鳥懐に入らずんば猟師も殺さず』。私が隠匿者なら犯人を助け自首させますわ」

「奥様ならそうなさるでしょう。でも仮に、誰も知らないもう一人の奥様が犯人を隠匿したいと考えたとしたら。そして、このお屋敷に秘密の部屋なりが有ってそれが可能なら。『灯台下暗し』。犯人隠匿に、これ以上最適な場所は他に無いと言う事となります」

 隣室と接する壁に取り付けられたマジックミラー越しに悦子は、目隠しをされ椅子に拘束状態で座らされている逃走犯人を見つめた。

「気を失っているの?」

「はい。奥様」

「そう」

 悦子は、クイントへ顔を向けて微笑んだ。

「警察が押しかけ居座られた時には少し厄介なことになったと思ったけど、却ってその方が好都合となったわ。彼らが捜している逃走犯が、まさか彼らの足の下に居ようとは誰も思わないでしょうし」

「この国の言い回しで『灯台下暗し』という状況でしょうか?」

「そうよ。それに彼らが丁度良い『隠れ蓑』になってくれている。間抜けな人々よ」

 二人、笑う。

 マジックミラーの向う側で犯人は、それまで項垂れていた頭を上げた。

「どうやら、お客様がお目覚めのようだから行って来るわ」

「それでは私は、一先ず上へ参ります」

「そうしてくれる。長時間、二人の姿が見えないと間抜けなあの人たちでも何かを察すると思うから。特に、酒井って中堅の刑事は要注意よ」

「酒井刑事?」

「元、公安の腕利きだったらしいわ。ちょっとしたしくじりで所轄へ飛ばされたようだけど。勘の良さそうな刑事さんだから、気をつけて」

「はい、奥様。承知いたしました」

 

 扉の閉まる音。

 それに反応して目隠しされた犯人は、怯えながら騒ぎ喚く。

 悦子は、彼の背後にぴったりと立つと震える左右の肩それぞれに彼女の掌を当て、震えが治まるのを見届けてから、悦子は犯人の耳元で囁いた。

「久し振りね。あの時から十年経ったかしら」

「…」

 犯人は身体を強張らせ、生唾を呑みこんだ。

「私の声を覚えていてくれたのね。嬉しいわ」

 彼は、水面に浮かんだ金魚のように口を開閉し続けた。

「あ、あなたは、モイ…」

「そうよ。私はモイラ。あなたの命を紡ぐ者」

 犯人の手足が急に震え始めた。

「大丈夫。あなたは、まだ死なないから」

 アイマスクに隠れた目の表情を見られないのが彼女にとって残念なことだったが、声も出せずに恐怖で震え続ける犯人に悦子は満足した。

「ここを解放されて今日までの十年間。あなたは、ドブネズミのように逃げ続けながら恐怖に苛まれ続けたようね。絶望と恐怖の中で死を自ら選べない日々を味わえたかしら?」

 犯人は何度も懇願するように頭を上下し続けた。

「良いわと褒めてあげたいけど、まだダメね。十分ではないわ」

 犯人は絶叫した。

 それでも、彼は狂うことが出来なかった。

「そんな大声を出して。上にいる警察の人たちに聞こえたらどうするの」

 最後の希望とばかりに犯人は、再び絶叫した。

「あなたも知っているじゃない。『お菓子の館』の『魔女の部屋』でどんなに大声を出しても、その声が決して外に漏れることがないことを。ここは、『お菓子の館』。そしてここは、『魔女の部屋』なのよ。お菓子で釣った子供達を食べた魔女の部屋なのよ」

「…」

「死にたい?」

「…」

「それとも、狂ってしまいたい?」

 どちらの選択肢も犯人は口にすることが出来なかった。

「そうよ。あなたは私が許すまで、そのどちらも選択できないのよ」

 アイマスクの隙間から犯人の涙がボロボロと流れ落ちた。

「今さら泣いてどうなるの。その涙は、悔恨?」

「…」

「贖罪?」

「…」

「懺悔?」

「…」

「己の身に降りかかった不条理?」

「…」

「あなたは、その感情を感じる事ができる。でも、あの子たちには無理なのよ。あなたに命を奪われた瞬間で永遠に時が止まり、己の死の理由も理解できず、煉獄を彷徨い続けているの。上の階に警官たちが居ると聞いて、あなたは声を限りに絶叫して救いを求めた。声が届けば、己自身が助かるかもしれない。そんな一縷の希望を持ったのよね。でも、あの子たちには、そんな一縷の光すらも望めず煉獄の闇の中をいつ終わるともなく歩き続けなければならない。それに比べれば、あなたの十年間に受けた苦しみなど露ほどでも無い。でも、もうこれで終わりにしてあげる。何故なら、あなたはこの十年の間、あたしのために十分働いてくれたから」

 犯人は、腑に落ちない様子で悦子へ顔を向けた。

「自覚が無いのは当然ね。だって、あなたは、私が望む獲物をおびき寄せるための撒き餌だったのだから。あなたが世間に存在して、うろつくだけで真に欲しい獲物が寄って来る。気がついた。あなたに関わろうとした人間は全て不可解かつ非業の死を遂げた」

「ち、違うッ」

「何が違うのかしら。誰もが死んだ。その事実を一番良く知っているのは他ならぬ、あなたよ。数限りない人間たちが近づき、あなたから情報を得ようとして死んだのよ。少なくとも三人は、あなたの前で頭をぶち抜いて自殺した」

「俺じゃない。俺のせいじゃない。あいつらは、勝手に自殺したんだ」

「そう思いたいわよね。でも、それは違う。死んだ人たちは、あなたに関わりさえさえなければ死なずに済んだ。だから、あなたは逃げたのよね。己の存在が、近づく人々に死に至らしめると気づいたから。昼の光を嫌うドブネズミのように暗がりを求めて彷徨い、逃げ続けた。何度、自ら命を断とうと考えたことか。でも、それは叶わなかった。どうしてだと思う。簡単よ。私が、あの時。あなたを生かしておこうと決めた時、あなたへ施した処置はただ一つ。それは『自死』の拒絶。それをあなたのここに植え付けたのよ」

 悦子は、犯人の額を指先で突いた。

「あの子たちが殺された直後、クイントが血塗れのあなたをここへ連れて来た。あなたを殺そうとする私をクイントは力づくで止めた。その時、彼が何と言ったと思う?

 

『モイラは誰も殺さない』

 

そうよ、彼は正しい。

私の虚像が化け物か魔物のように広まってしまい、更にはそれを恐怖の種として利用され続けてきたから仕方ないのだけど、たった一つだけ間違っていることがあるのよ。それは、クイントの言う通り。つまり、私は誰一人として殺したことが無いの。旧体制下で私が産み出し、発展させ続けた技術は今では人殺しの道具に成り下がってしまったから仕方ないのだけど。旧体制下で数多くの要人暗殺に関わった私のことを、殺人鬼と蔑む輩が多いけれど、私は誰も殺していないのよ。私が対象者に掛けた施術、人はこれを『魔法』と呼んでいるらしいけど、それは己自身の心の深層に押し隠された恐怖に耐えきれずに自死を選ぶ年月日と時刻をセットするだけなの。私の興味関心は、他人の死にはない。セットした魔法の精度、それだけなのよ。私の魔法が寿命の司りと称賛した要人が居たけど、彼もまた、かけられた魔法から逃れることが出来なかった。彼は何故、魔法の餌食となったと思う?」

 犯人は、何度も首を左右に振った。

「あなたにコンタクトしたからよ。もう、それが誰だかをあなたは知っているわよね」

 悦子にそう言われて彼は、生唾を呑みこんだ。

「旧体制の崩壊によりスイスへ亡命した時、海鴎城の爆発によって私以外の誰も保有していないと思っていた。でも、あなたの心の深層を除いた時にそれが間違っていると気づかされた。あなたは、何者かによって心の深層界を処置されていたから。旧体制崩壊からしぶとく生き残った小物たちを甘く見ていたわ。何者かによって手にした私の研究を彼らもまた利用していた。油断が、あの子たちの命を奪った。クイントにあなたを生け捕りにしろと命じたわ。あなたの心を覗くその瞬間まで、私はあなたを殺そうと思っていた。でも、何故そうしなかったと思う。利用するため。違うわ。小物たちの手先たちがあなたに施した魔法のレベルが余りにも低かったから殺意が失せてしまったのよ」

 犯人の額に汗が噴き出す。

「何が恐ろしいのかしら。どうやら気づいたようね。何故、私が『モイラ』と呼ばれているか分かる?」

「…」

「権力者って生き物はね、意外と長生きするものなのよ。悦子・ノルダとして旧体制で生き残るため私と夫は保険を掛けたのよ。夫は、旧体制崩壊の時に私を助けるために死んでしまったけれど、私は保険のおかけで生き延びることができた。保険が何かを知りたいかしら。良いわよ。教えてあげる。

 

それは、私の『魔法』よ。

 

未だに生きている世界中の権力者たちの多くに、モイラの魔法が掛かっているのよ。それが誰なのかを知っているのは、私だけ。私しか知らない寿命の鋏を、彼らの運命の糸を斬るだけで、彼らは自ら死を選ぶように処置してある。夫が長きにわたって小国のアリミアのみならず旧体制下の主導国だったストロストの秘密警察を牛耳り続けられたのも、その為なのよ。あら、余計な話をしてしまったわね。ごめんなさいね。余計な話だったのかしら。いいえ、違うわ。殺意が失せただけで、あなたを殺さなかったと思う?」

 犯人は、相変わらず震え続けている。

「施術レベルは低かったけれど、私はあることに気がついたのよ。小物たちはきっと、私が世界中の権力者たちに施した魔法の存在に気がついたのだと。それは全容ではないけれども、そこに何かの気配のような物を嗅ぎ取った。そんな時、人間は何を考えると思う。誰かによって自分の命が牛耳られているかもしれない不安、いいえ恐怖。それを何としても取り除きたいと考える。でも彼らには、私が掛けた魔法の痕跡を見つけることが出来ない。でも、魔法に掛かっている可能性は高い。そんな時、人間は原因の大元を排除するか、それか叶わないまでも警告をするものなのよ。あなたの心を覗き見て良く解かった。そう、私への警告のためにあの子たちを殺したのね。でも方法を間違えたわね。小物たちにとって警告行動だったことが、私にとっては宣戦布告に等しかった。だから私は、あなたを撒き餌としておびき寄せられた小物たちの運命の糸を切り続けた。それが、あなたと私の十年間の真実なのよ。でも、それも終わり。一人を覗いて切りたい糸を全て、切り終えてしまったから。だから、あなたはもう用済みよ」

「やっ。俺は、やっと。死ねるのか?」

 悦子、楽し気に笑う。

「その問いに答える前に、施術レベルが何故未熟と判ったかを知りたくない?」

 犯人は死を求めるように何度も首を左右に振った。

「教えてあげるわよ。どんな人間にも、心の深層の一番深いところに扉のような物を持っているのよ。私はそれを『岩戸』と呼んでいるわ。世界を闇で覆う原因となった天の岩戸。あれに因んで付けたのよ。その『岩戸』の奥には、絶対に触れられたくない秘密とその人間の恐怖の根源がある。それを知らずして魔法は掛けられないのよ。でもね、この『岩戸』だけど、うっかり開けるとその人間は狂ってしまうのよ。小物たちの手先は、その『岩戸』に気づきしていなかった。もっとも、気づいたとしても開けた途端にあなたが狂うだけだから手の出しようも無かったでしょうけど。その『岩戸』を開けられるのは、世界で私だけ。それは今も、将来も変わらないでしょうけど。その『岩戸』の向う側にはすべての真実がある。同時に、あなたに命じた真犯人も居る。時が到来するまで死ぬことは許さない。でも、狂うことは許してあげる。さぁ、『岩戸』の内側を見せて…」

 そう言って悦子は、犯人にブランデーを飲ませた。

 犯人の震えが治まったのを見て、彼女は彼の耳元で囁いた。

「ここは『お菓子の館』よ」

「お、かし…。おかしのやかた?」

「そうよ。『岩戸』を開けて。美味しいお菓子をいっぱい届けてあげるから」

 犯人、頷く。

 そして彼は脱力し、ブツブツ語り始めた。

 悦子は満足し、犯人の音声データを記録しながら聞いた。

「えっ…」

 彼が呟いた最後の一人の名前を耳にすると、彼女は青褪めた。

 そして呟き続ける犯人の顔を無言で見つめ続けた。

 悦子がカップをソーサーごとテーブルに戻すと、クイントが彼女に言った。

「奥様。温かいものを入れ直しましょう」

 手を伸ばしたクイントを見て、彼女は言った。

「紅茶は、もう良くてよ」

「はい」

「クイント。ここからはブランデーにして」

 表情を変えることが少ない彼の眉間に皺が寄せた。

「今日で警部さん達ともお会いできなくなるかも知れないのよ」

「…」

「酒井警部。内村刑事。お二人とも宜しいわよね。職務中だなんて野暮なことは言わないで、この年寄の頼みを聞いて下さらない?」

 内村は戸惑い気味に酒井を見る。

 酒井は、悦子に気押されるように頷いて見せた。

「好かった。クイント。ブランデーとオードブルなど用意して」

 クイントは無言のまま、悦子をジッと見つめている。

「聞こえた?」

「はい。奥様」

「お酒とオードブルの用意、お願いね」

「畏まりました。奥様」

 背を向けて奥へ下がろうとするクイントを、悦子は呼び止めた。

「クイント」

 立ち止まり、振り向くと彼は彼女に言った。

「はい、奥様。他に何か?」

「いいえ。でも、一つだけ」

「はい」

「ブランデーは、特別なお客様へお出ししている最上級の物をお出ししてね」

「はい。承知致しました」

 お辞儀を済ませて再び背を向けたクイントは、奥へと姿を消した。

 

 

 

(END:「モイラの落涙 -失楽3-」)

(次回作:「モイラの落涙 -失楽4-」)

(次回作アップ予定:2022.1.21予定)

 

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