瞬映 -東に昇る陽炎(かぎろい)-

       死体

 私は、自分の遺体を見下ろしている。
 夕方近くに始まった南方の密林での戦闘において、私は側頭部を狙撃されて即死した、死とは呆気なく簡単で瞬間だった。気が付くと私はここに立っていて、足元で仰向けに横たわる自分の遺体を、ただ見下ろしていた。
 弾は左側頭部から右側頭部に向けて貫通した。だから私が倒れた場所の右側にのみ、肉塊と骨片が飛び散り、穴から噴き出た大量出血で植物の葉をべっとり濡れた。
 地縛霊と化した私は、動くことができない。残念なことに私の遺体は、私の位置から顔を背けることなく横たわっていたから、見開いたまま固くなり永遠に閉じられることのない両眼の自分と心ならずも、私は見つめ合わなければならない羽目に陥った。
 密林の闇が辺りを支配し始めていた。
 生前の記憶によれば、今夜は月の無い夜のはずだから、少なくもと今夜は自身の遺体と見つめ合わず済むかもしれないと思い、私は少しホッとした。
            *
 日が傾き始めた頃、市場の外れで町のスケッチをしていた私の傍らに部下が立った。
「隊長殿。連隊長殿からの伝令であります。直ぐお戻り頂くようにとのことであります」
「そうか。分かった。丁度戻ろうしたところだ。直ぐに迎えとお伝えせよ」
 絵が好きな上官で少し気が楽ではあったが、休日の夕食に招かれることが多くなった。入営後半年で幹部候補生試験を受けさせられて合格し、8ヶ月の士官候補生訓練を終えて下士官見習いで原隊復帰。戦地へ赴く時には隊長を仰せつかった。
 …絵描きが隊長殿とは、余程人材不足らしい…
 人で賑わう市場のメイン通り。夕陽に染まり始めた通りは、南方特有の蒸し暑さと人々の熱気に満ちている。店頭の食材や品々は南方情緒にあふれどれも目に珍しい。ここを通る度、今が戦時下でなければ楽園の日々だったと思った。ふと路地に目をやるとゴミの山があった。そこに捨てられたザボンの実が、薄暗がりの中で妙に黄色く光っていた
            *
 美校に入学した時、父は湯島の外れにある老舗の宿屋を二間借り切って私の下宿先とした。この宿の主人と父が学生時代の親友だった縁による。三度の賄い飯は申し分なかったのだが、父から私のお目付け役を仰せつかった女将は、私が多少羽目を外す説教をして諭すのだった。それでも何不住ない学生生活だった。
 ここは美校に近く、二間もあるから学友たちの溜り場となった。課題を提出した日の夜、打ち上げの名目で悪しき学友どもが集まり、酒だけは鱈腹飲める宴となった。朝方、呑み潰れた6人の雑魚寝の中で目覚めた私は、一服しようと部屋を出て縁側で胡坐をかいた。庭の片隅に風情には聊か不似合いな藍絵の大植木鉢があり、花と葉がのこったまま枯れたあじさいが植わっていた。東の空が白み始め、沈みかけた月の輪郭が西の空に浮かぶ。
「『東の野に かぎろひ立つ見えてかえり見れば 月がかたぶきぬ』。凛と冷えた冬の朝の何ともシュールで美しい景色じゃないか。こんな朝は、人麻呂がよく似合う」
 隣に腰を下ろした悪友は、私の煙草で一服しながら機嫌良さ気に庭を眺めた。

       膨脹

今頃の日本は節分前の寒い時期だろうが、南方のここは夏のように暑い。だから私の遺体もその分早くに痛む。露出している顔や手、開けた腹部が腐敗によって発生したガスによって膨らみ始めたように見える。鳴声を上げる直前の蛙の腹のように膨脹する。
            *
「見事な出来映えのスケッチだ。南方特有の異国情緒に溢れている。おやっ。この絵は?」
 ビールを飲みながらページをめくる手が止まり、他とは異質な絵に連隊長は目を止めた。
「ゴミと腐りかけたザボンの実のようだが。何か意味があるのかな?」
「仏教における九相観をご存知でしょうか?」
「腐敗し、喰い散らかされ、骨から灰へ変わる死体を見続けことで悟りを得る修行かね?」
「はい。戦場で動じない精神修養として、ザボンの変遷を描いております」
            *
 課題で提出した枯れたあじさいの素描は、恩師から高評価を受けた。
「課題のモチーフとして、何故これを選んだのかね?」
「真冬の夜明け直後、昇る太陽と沈む月の間の庭でこのあじさいを見ました。その景色の中にシュールさと無常観を感じました。それを絵に描きたいと思っていました。今回、自由課題でしたので、いい機会と捉えてこれを描きました」
「『無常観』かね。絵の中に太陽も月もなく解り難いが、無い方が正解のようだ」

       裂皮

 死んだ後でも昼と夜の明暗は分かるらしい。そこに時の移ろいを感じた。そして現在、自分の遺体の皮膚が裂けて体内に溜った腐臭に満ちたガスをまき散らす様の中にも時の移ろいを見たが、それらは自分に無意味な感覚であるだけでなく永劫に続く苦痛でもあった。
            *
「おお。ザボンのマリネかね。これが美味くてね。ビールによく合う。食べ給え…」
 私は勧められるままそれを食べた。旨かったが、腐ったザボンの話しの後だっただけに美味いと感じきれず、私は愛想笑いを上官にして見せた。上官はそれを美味に対する感動と捉えたらしく、自らも上機嫌にザボンのマリネに箸を伸ばすとそれを食べた。上官がザボンを噛みビールを飲む込む音に、私は生存の生々しさを感じた。
「この写生帖だが、そろそろ内地に送っておくと良い。間もなく、戦闘が始まる」
            *
 私は若手画家の登竜門と言われている展覧会への出展を恩師から勧められた。
「こういうご時世だ。早いうちから挑戦する方が良い。君にはそうできる実力がある」
 夜、悪友たちと下宿で飲んでいた時、恩師からの申し出について話した。誰もが私に祝辞と激励を口にしたが、彼らの表情や目の動きから嫉妬や羨望、口惜しさや焦りの色が読み取れた。その時、人麻呂を口ずさんだ悪友が少し寂しげにポツリと言った。
「お前は、良いなぁ、折角の機会だ、頑張れよ…」

       脂滲

 密林の朝日の木漏れ日に照らされた私の遺体の露出した顔や手は、艶々に輝いていた。固まり切らない体液が皮膚の裂け目から滲み出したことによる。それは露出している場所に限らず全身でくまなく起きている現象だったから、着ている軍服のあちこちも黒く滲み始めた。感情を有する肉体であれば、それは自分の遺体であろとうとなかろうと正視に耐え難い物に違いないが、死んで感情を失った私にとってのそれは周囲を囲む木々や葉を関心もなく眺め見る行為と大差なかった。無関心なる傍観といった形容が当て嵌るようだ。見開いたままの目は相変わらず私に向けられ続けていた。目力など当の昔に失った二つの眼球でしかない筈だったが、流れ出た体液がそれら眼球の表面を覆い、結果として潤んだ眼差しの様に見え、その両目でジッと見つめられていると私自身の『死』を再認識するしか無くなっていた。
 その思考の結果に意味は無いと理解しつつも、そう思う自分がまだ居る。
            *
 強烈な日差しが兵舎を包み込んだ日の昼過ぎ、私は兵営内を散歩した。こんな日は大抵、誰もが兵舎から出ずに昼寝をする。訓練は午後にもある。南方の強烈な陽光と耐え難い蒸し暑さは、外で活動する人間たちの体力を容赦なく消耗させるから。だが私は外に出ることを選んだ。それは、部下を訓練している時に鼻を過った腐臭だった。それ誘われて行着いた先は、兵舎の片隅にあるゴミ捨て場だった。腐敗の進むゴミの山に無数のハエが集る。
 それは堆く積まれた死体を私に連想させた。その中に使われずに捨てられ、腐ったザボンの実があった。変色して破れた皮から果汁が流れ出ていた。それをぼんやりと眺め、煙草を吸う終えると吸殻を投げ捨て、私はその場を後にした。
 その日の夜、私は美校の恩師や学友に向けて手紙を書いた。日々の訓練の次第に始まり、存外豊かな食生活、エキゾチックな町並みのことなど。兵隊生活も満更ではないという感じで手紙を書き終えた。これを受け取って彼らはどう感じだろうか。事実と誇張に彩られた私の手紙に彼らは、私の虚無と偽善を感じ取ってくれるのだろうか。
            *
 初出展で一等を獲った。
だが私は、展覧会場に飾れた自分の受賞作を見ながら頭の中に空いた穴を感じていた。
「受賞。おめでとう」
いつの間にか私の隣に立っていた恩師は、そう言って私の絵を見た。
「有難うございます」
 受賞作を見つめる恩師の横顔を見ながら、私はただそう言った。
 受賞式の時も、その祝賀パーティの時も、スピーチの時も、私の感覚は浮遊していた。どこか覚束ない、不安定な足取りで立っているような感じだった。誰もが望んで止まない登竜門を一発でクリアして夢見心地なのだと周りの人間たちは誰もがそう感じているに違いなかったが、その常識的な感覚に酔いしれようにも埋めようのない違和感を覚えていた。受賞は確かにリアルだが、その事実は私にとって虚偽なのかもしれい。リアルと虚偽との間で私は彷徨いながら、猛烈に叫び、身体の内のあらいざらいを放出してしまいたかった。

       膿爛

 ある朝、私は、見慣れたはずの自分の遺体に違和感を覚えた。それが何だろう思って遺体を見直してハッとした。左右の眼球が無くなっていた。妙な得心と共にぽっかり空いた二つの洞を眺めていると、片方の洞から蛇が顔を覗かせた。両目は二つとも、こいつに呑み込まれたのかと思うが確信は持てない。でも、今さらどうでも良いと感じた。
 腐敗は順調に進行している。
 脂汁は相変わらず皮膚の裂け目から一層盛んに溢れ出ていたが、ここ数日では皮膚や肉が崩れて始めた。鼻が崩れ、耳が削げ落ちそうになる。頬の裂け目は激しさを増し、半開きだった口は避け切って原型を留めない。歯と舌が剝き出しに見え始めていた。その日の夕方、スコールが降った。雨が止むと、顔や手の皮膚が所々剥がれて骨が見えていた。
            *
 密林を行軍中に私たちの部隊は急襲された。
「散開ッ」
 怒鳴りながら命令を一言、発することだけしか出来なかった。
 爆音と飛び交う銃弾の乾いた音。無作為な音、音、音。砲弾が落ち、破片が顔を霞め、眼前が飛び散る土粒や落ち葉の破片で曇る。真横にいた部下の額に穴が開き、仰向けに倒れる。まるでストップモーションのように部下は倒れ、即死した。見開いた両目を見た時、私は、ただ、本能的に恐怖を抱いた。思わす腰を抜かし、銃を抱えたまま這いつくばるように逃げ惑う。きっと絶叫していた筈だが、自分の悲鳴すら聞き取れなかった。それは戦場の騒然によるのではなく、恐怖が聴覚を奪った。巨木の根元に到達した時、背中にある木肌と一体となろうとした。動けない。目だけで周囲を見ると、五分前まで生きていた部下たちの遺体がそこかしこに転がっていた。一瞬の静寂。恐怖で固まり切った体を無理やり動かし、根元の陰から、ほんの少し顔を出して様子を覗った。ピュンと空気を切り裂く音と、それに続いて側頭部を貫く舜撃。その感覚を最後に私の意識は消えた。
            *
 深夜、父が実家に用意したアトリエで絵を描いている時、表の呼び鈴が鳴った。依頼された薔薇の絵を描き上げて一服している、父がアトリエのドアを開けた。
「父さん。どうかしたんですか?」
 青褪めた表情で私の顔を見つめ、その場に立ち尽くす父の表情で私は全てを悟った。
「着たんですか?」
 父は、ただ頷くと手にした封筒を差し出した。
 立ち上がり、父の前に立った私は、その封筒を黙って受け取った。
「何で。これからという時に…」
 声を震わせてそう言う父と目を合わさず、私は封筒をジッと見つめながら言った。
「お願いされていた絵がさっき仕上がったところです。間に合って良かった」
 父は私の手を握りながら泣き崩れた。小刻みに震え続ける父の背中をみながら、こんなに小さかったかと妙に静かな気持ちで思った。無感情の中で、私は父を労るように言った。
「もう一枚描きたかったけど、戦争から戻って来てからにしましょう」

       斑腐

 皮膚の色が青黒く変色している。
 蠅や虫が集り、脂汁は以前ほどではないにしも滲み出すように皮膚の亀裂から流れ続けている。つい数日前まで、洞と化した左右の眼孔を除けば生前の面影を辛うじて保っていた私の顔も、崩れ、変色し、今では私の生前の顔がどんな感じだったのかをそこから思い出すのも難しくなっていた。ふと見上げると、頭上を覆って包み込むように茂っている密林の植物の葉の重なりの隙間に、灼熱を思わせる青空が見えた。同じように空を見ていた数日前までは普通に見る事ができた故国の軍用機は、全て敵国機へと変わっていた。 そしてその日以降、軍機は敵国の戦闘機から輸送機だけとなり、今日は何も飛ばなくなった。密林も静かになった。ただ私の遺体だけは、確実に朽ち果てていく。
            *
 陽光の届きにくい密林の最下層は薄暗く、多分蒸し暑いのだろう。
数日前までは密林のどこかから銃声や爆音が伝わってきていた。大きければ近所、小さければどこか遠く。音の大小に関わらず、それは『人殺し』でしかない。
 『人殺し』には『目の前の人殺し』と『数字としての人殺し』、この二つしか無い。世間一般の『人殺し』は動機が何であれ全て前者に含まれる。戦争は後者の『人殺し』だ。どちらも『人殺し』には違いないが、殺されるものか『人格』や『存在』として扱われる分、『数としての人殺し』よりもマシかもしれない。『招集』とは欠員補充である。人が『招集』されるとき 『個性』や『才能』、『能力』は要らない。数が揃えば良い、ただそれだけだ。その命令に『ドラマ』と『感情』を投入するのは本人と家族、友人で国や軍ではない。数に数えられて私は、やっと『人殺し』ができるようになった。私が撃った弾で見知らぬ敵兵が死に、敵兵の誰かが撃った弾で私が即死した。ただ、それだけのことだ。
 ここ数日、密林から『数としての人殺し』の音がしなくなった。人の気配も消えた。密林に静寂が戻ると、動物たちによる『生存としての殺し』だけが残った。
            *
 恩師から戦死について伝えられると、学友たちは泣き、嗚咽が教室に響いた。その日の朝刊で南方の密林にある戦場である部隊が『名誉』の玉砕を遂げた伝えられていた。泣き崩れる学友の一人がその記事を目にして嫌な予感を覚えながら美校に登校したのだが、外れて欲しいと思っていた彼の予感が的中し、彼は溢れる涙を止めることができなかった。
 恩師は、嘱望して止まなかった教え子の死を悼み、嘆いた。
 学友たちは、戻らぬ友との思い出とその死という現実の間で悲嘆し、泣いた。
 窓は、蕭々と降り続く冬の雨が流れ続けていた。
「無念だったろう…」と、学友の一人が苦渋に満ちた声で叫ぶように言った。
 その言葉を聞いた恩師は、鞄から一冊の画帳を取り出すと学友の一人に渡した。
「戦死の公報が届く一週間前にこれが届いたそうだ。みんなに見てもらいたい…」
 教室は静まり返った。そしてザボンの絵を見ると、学友たちは互いの顔を見合わせた。
「死を覚悟していたとは思わない。ただ、彼は最後まで描くことを止めなかった」
 恩師はそう言うと窓の雨を見た。蕭々と降り続く雨で、外の景色はぼんやりと煙る。

       獣宴

 獣たちが私の遺体に群がっていた。
 遺体が発する強烈な腐臭に誘われた禽獣たちが、軍服を引きちぎり、四肢を引き裂き、貪り喰う。バラバラとなった私の遺体は、そこかしこに散乱した。もう、人だった私は、物理的に消えた。遺体を貪る禽獣たちの顔は充足と幸せで溢れていた。
 私には彼らを止めようもない。むしろ、今までそうならなかったこと自体が幸運だったのかもしれない。腐りはしても、禽獣たちによって私の遺体が蹂躙されなかったことに何か意味はと、ふと感じる。自然に摂理。禽獣たちへの細やかな施しでしかない。
            *
 密林で音がした。
 懐かしい、人を感じさせる音。
 それは戦闘の音。
 どうやらこの国で内戦が始まったらしい。
 私は異国の敵と戦って彼らを殺し、彼らの誰かに殺された。幸いにも、同じ国に属する人間の手に掛かって殺されることは回避できた。でも、この密林を有する国は、昨日までご近所だった人間に殺されるかもしれない内戦を始めた。人々はそれを悲劇と嘆くのだろうが密林の中にいると、その『人殺し』の類の殺生与奪が案外普通のことのように感じる。禽獣たちは生きるために命を奪って自身が生きることを当たり前の事としている。理屈や理念、感情が入らない分、その行為は『人殺し』に比べれば純粋でシンプルに思える。銃声や爆弾の炸裂音が密林に響く度に、誰かが死ぬ。そして戦闘は死体をその場に残して移動していく。田畑を喰い尽しながら移動するイナゴの群れのようだ。置き去りにされた遺体が禽獣の餌となり自然に還っていく事実だけが、唯一の救いなのかもしれない。
            *
 その軍事郵便は、彼の死の公報から一ヶ月が過ぎて届いた。

『前略。皆様。お元気でお過ごしですか。こちらは日本の四季のような季節感はなく蒸し暑い日々です。南方の戦地なので旨いものも食べられぬものと覚悟して赴任致しましたが存外そんなこともなく、南方の目新しい食材を堪能しております。ビールも中々美味い。町並みも異国情緒豊かで、写生にも不自由しません。この手紙が届くころ、日本は節分頃でしょうか。寒さが一段と厳しくなります。皆様もお身体ご自愛されてお過ごし下さい』

 恩師が死者からの手紙を読み終えた時、教室は静まりかえり学友たちは誰一人として口を開くことはなかった。
 恩師が目を窓の外に向けると春を感じさせる穏やかな陽射しの中で梅の花が輝いていた。
「これは…」
 恩師の掠れた声に、学友たちは彼の顔を見た。
「これは、単なるコメディかね」
 風が吹き抜けたらしい。窓の外の梅の花びらがハラハラと舞い散っている。

       湧喰

 禽獣たちの饗宴が終わると、バラバラとなった遺体の部位が密林の底に埋もれた。やがて、それら一つ一つに蛆が群がる。彼らの饗宴により私はアッという間に髪と骨となる。私の遺体から『私』という個性と人格は消滅した。それでもまだ、私はここに存在する。
            *
 どれだけの時が流れたのか。
 密林で営まれる日常は毎日変わることがなく、変化も無い。私は、もう今では、私自身の顔がどんなであったかを思い出すことができない。背格好も、生前の記憶も、親しくしていた人々のことも、生活も、想い出も、全て忘れている。死とは記憶の浄化なのか。密林の底で動けず、ただ存在するだけの存在に慣れてしまうと、もうそれが『私』なのか。
 そんな静かな気持ちに馴染み始めた矢先、私は密林の中に人の気配を感じた。
            *
 制海権と制空権を奪われ、東京が空襲された。北西の強風の寒い夜だった。縦列編隊による爆撃に成す術が無かった。折から強風で東京は火の海となった。寒風さえも劫火により灼熱に変わる。水場を求め、森や山を探して逃げ、だが大半の人々は焼け死ぬ。服を焼かれ全裸で彷徨う老若男女も、気が狂って逃げることを止めながらも生き残った老若男女も数限りなく。闇の中の劫火による点描画は、天空からどんな風に鑑賞されたのだろうか。
 でも、彼らは、闇の眼下に点々と輝く無数の赤い印に、決して人格を感じることはない。

      骨眠

 骨は、落ち葉に埋もれた。
 それらは、土となるのだろうか。
 でも私はまだ、ここに存在している。
           *
 男たちが突然現れた。その男たちの一人に見覚えがあった。彼はかつて私の部下の一人だった。将校付きで、連隊長の使いで私をよく予備に来た彼だった。年老いた彼の風貌に過ぎ去った年月を私は感じた。彼が私の傍らに立った時、私の頭蓋骨が埋まっているあたりを指さしながらいった。
「隊長殿が亡くなられたのは確かこの辺りです。掘ってみて下さい…」
 そして私の骨は、かれら遺骨収集団によって回収された。
           *
 母屋は焼け落ちた。母屋の住人たちは死に、道路は瓦礫で埋まり、まだ熱気と寒気の入り混じった空気が辺りに漂う。人の居る気配は微かだった。本当にそこに居るのか、群れ成す亡霊なのか判然としない。
 やがて、夜が明け始めた。風は強い。燃え続けている建物も多い。火を消すに十分でなかった水に塗れた黒い柱が林立している。それでも夜明けと共に、町は朝日に照らされた。漆黒と灰色の町は、少しずつ、赤く、色づき始める。

       灰塵

 私は、自分の火葬を参列者と供に見守っている。
 遺骨収集団によって拾われた私の骨は、帰国と帰郷を果した。禽獣の宴で身体はバラバラに引き裂かれたが、腐らず、辛うじて残った軍服の一部分に私の名前があり、身元が判明した。それは、私という存在が再びこの世に復活した瞬間だった。
 死者は自分の葬式をこんな風に眺めてたのかと、私は呑気に感じた。両親は戦後間もなくに他界し、二人いた兄のうち一人は死に、もうひとりは痴呆により病院から出られない。喪主は、すぐ下の弟が取仕切った。
 火葬が終わり、すっかり灰となった自分の姿を見た瞬間、私は自由の身となった。
 その時、連隊長との会食で心にもない『十相観』の覚悟を思い出して、私は苦笑した。何故なら私は、未だに悟りの境地ではないからだ。あるとすればそれは、『虚無』と言った方が似つかわしいかもしれない。だが、もうどうでもいい。私は、解放された。
           *
 庭は、灰塵と化した母屋と瓦礫に囲まれていた。
 あじさいが植わっている青絵付の大植木鉢は割れ、中の土が外に漏れ、花と葉をつけたまま枯れて干からびたあじさいは傾いていた。
 東の空が白み、陽が昇り始める。古の人々は日の出の瞬間を『陽炎(かぎろい)』と言い、今の我々は、盛夏の地上に揺らぐ空気の騒めきを陽炎と呼ぶ。熱気の冷めやらぬ外気は庭の空気を揺らがせ、ひと夏の幻と人麻呂の『陽炎(かぎろい)』を同居させた。
 東に昇る太陽と西に沈もうとする月に挟まれて、あじさいは存在する。

 『東の野に かぎろひ立つ見えてかえり見れば 月がかたぶきぬ』

 だがよく見ると枯れたあじさいの枝や根元から、瑞々しい新芽が顔をのぞかせていた。
            *
 気が付くと私は、自分の絵の前で立っていた。
 私が美校に通い始めた間もない頃、課題として描いた『あじさい』の素描。これが何故ここに在るかを私は知らない。弟か誰かが、戯れにこの絵をここに寄贈し、ここの館長が戯れに飾ったのかどうかも知らない。絵を見ているうちに、その素描を描く少し前に見たシュールで美しい日の出の光景が鮮明に思い出された。そう、確かに私はその景色に感動してこの絵を描いたのだった。悪友が戯れに口ずさんだ柿本人麻呂の歌も私を刺激した。あれからどれだけの月日が流れたのだろうか。時の移ろいとは関わりなく存在し続けてきた私にとって、時の移ろいなど無意味なのだが、その長い年月を味わい深く感じられた。絵は『瞬』間を封じ込める美術だと、或は『瞬間』を永遠に移ろわせるものだと、誰かが言っていた。なら私がここで描きたかった『瞬間』とは何だったのだろうか。今となってはもう何一つ思い出せない。そんな時、ある感覚が頭の中を過るや私は、思わず呟いた。
「ああ。この絵を描いたあの瞬間、あれはこんな感じだったな…」
 その時、目の前から絵が消えた。きっと、私の存在もこれで消滅したに違いない。


(END)
(次回アップ予定:2021.7.3)

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