遠巻きの寛容

           理由

 1990年3月7日、水曜日。曇天。
 神保町、時刻観書店。
 仕事で必要な本を探しあぐねた桜井祐平は、近くの若い男性店員に声を掛けた。
「はい。何か?」
「この本、あります?」
 祐平、メモ書きを彼に渡した。
「少々お待ち下さい」
 彼はすぐ戻ってきた。
「こちらですか?」
「そう」
「良かったです」
「でも、どこに?」
「本探しの達人ですから」
「探すのを手伝ってもらおうかな」
「喜んで」
 名札に清水寛人とあった。
「シミズヒロトさん?」
 苦笑し、彼は答える。
「カントです」
これが二人の出会いだった。
            *
 居酒屋で飲んでいるとき、祐平は寛人に告げた。
「俺、実はゲイなんだ」
「やっと、告ってくれたんだ」
「えっ?」
「俺も、そうだよ…」
「…」
「祐平。好きです」
            *
 二人が一緒に暮らして、一か月が過ぎた。
「祐平。誕生日おめでとう」
「ありがとう」
乾杯の後、プレゼントの箱を開く祐平を、寛人は不安気に見守る。
「星の王子様の限定本?」
 寛人、頷く。
「ありがとう。大切にする」
            *
「星の王子様。砂漠に不時着した『僕』を本当に助けられたと思う?」
「救われたさ」
「どうして?」
「王子様の姿が消えたから」
「寂しい」
 祐平は彼を抱締めた。
「3月5日。誕生日だろ?」
「うん。でも一年近く先」
「何が好い?」
「プレゼント?」
「うん」
 彼の腕時計に触った。
「これが好い」
「これか?」
「うん」
「限定品だからなぁ」
「もう無い?」
「見つけるさ。必ず見つける」
            *
 平日の『レオン』は学生のゲイたちで賑わっていた。
「浮かない顔」
 寛人、力なく笑う。
「ケンカ?」
「ううん。祐平、優しいよ」
 渉、グラスを拭いている。
「忙しいみたい。帰りも遅いしさ」
 カラオケが止んだ。
 寛人は、カウンター席の女性客と目が合った。
 彼女は彼に会釈する。
「香純さんよ」
 寛人も無表情に会釈した。
            *
「誕生日おめでとう」
「ありがとう。プレゼント?」
「開けて見て」
「腕時計。見つけたんだ」
 祐平は頷くと言った。
「どっちが好い?」
「?」
「俺のか、それ」
「祐平の…」
 祐平は時計を外し、それを寛人の腕につけた。
「もう一つあるよ」
 サリンジャーの短編集を寛人に渡した。
「…」
「もう読んだ?」
「ううん」
「バナナフィッシュが面白いよ」
「大事にする」
            *
 …寛人。女と…
祐平は、信号待ちのタクシーからホテルに入る二人を見つめた。
            *
 部屋の灯りをつけると、祐平がソファーに腰掛けていた。
「どうした?」
「どこに行ってた?」
「仕事…」
「楽しかったか?」
「?」
「女とのセックス」
「なに言っての?」
「昼間。偶然見たんだよ」
「見たって?」
「お前と女がホテルに入るのをな」
 祐平は寛人の胸ぐらを掴むと声を荒げて言った。
「気持ち良かったか?」
「…」
「言い訳ぐらいしろッ。で、どうだったんだ?」
 祐平、彼を激しく揺さぶる。
「どうだったんだよ。何か言えよ。おいッ」
 寛人、無言のまま涙をボロボロ流す。
「弁解ぐらいしろよ。嘘でも否定しろよ」
 祐平は、その場に立ち尽くして泣く彼にすがるように言った。
「頼むから寛人、何か言ってくれよ」
            *
 遠巻きに座る二人の沈黙を破るように寛人は、静かに告げた。
「俺たち、別れよう」
「ゆうへい…」
「もう終わりにしよう」
            *
「桜井副編集長の栄転を祝して、乾杯」
 居酒屋に歓声が響く。
「ロンドンでの新プロジェクト。頑張れよ」
 上司の若杉は祐平に酒を注ぐ。
「ありがとうございます」
「お前も遂に編集長か」
「そのようです」
 二人は苦笑する。
「こんな時に何なんだが」
「はい」
「この間、寛人君にバッタリ出くわしたよ」
 酒を飲もうとする祐平の手が止まる。
「お前のロンドン赴任を伝えた」
 祐平の表情が曇った。
「結婚するそうだ」
「…」
「そう伝えてくれと。彼に頼まれた」
「そうですか」
「余計だったな」
「いいえ」
 祐平は若杉に酒を注ぐ。
「ロンドンに行ったらゲイだとオープンにしようと思っています」
「おい。大丈夫か?」
「真っ新でスタートを切りたいので」
「無理に抱え込むなよ」
「はい」
            *
 また、祐平はその夢を見た。
 広場でパントマイムを演じる大道芸の男を、観客たちが遠巻きに囲んで見ていた。
 芸人の演技に観客全員が魅了されているが、誰一人として彼の足元にある帽子に金を入れようとしなかった。それは、両者の間に目に見えない空気のような存在があって、互いが触合うことを邪魔しているかのようだった。
観客たちは、寛容にも似た眼差しでパントマイムの男を見続けるのだが、どうしても投げ銭への一歩を踏み出すことができなかった。
            *
2020年3月。
 ウェーブ本社の海外メディア編集部は、新任の編集長の着任にざわついていた。
「桜井さんってロンドン展開を立上げ、仕切っていた人だろ」
「若杉社長がここの編集長時代の副編だって」
「元部下かぁ」
「オープンゲイ」
「パートナーは?」
「居ないらしい」
「開斗と似合いじゃねぇ」
 同期によるいつもの軽口が始まる。
「直属上司のチーフアシスタント。開斗にも春か」
「お前さぁ、それセクハラだぞ」
「冗談だって」
「冗談が訴訟になる御時世だ。懲戒で退職金パーにするなよ」
 オフィスに新任編集長が現れた。
            *
「チーフアシスタントの島村開斗です。宜しくお願い致します」
「こちらこそ」
祐平は開斗を見つめて言った。
「以前に会ったかな?」
「少なくとも会社や仕事では無いかと」
「少なくとも?」
「大学時代にゲイバーでバイトをしていたのですが知らずに見られていたらしく、よくそう聞かれます」
「それなら会って無い。30年、日本のゲイバーに行ってない」
            *
 仕事の後、祐平と開斗は居酒屋で飲んだ。
「この後、二丁目に行きませんか?」
 祐平は苦笑する。
「日本も随分オープンになったな」
「?」
「二丁目を部下から誘われようとは思わなかった」
「ゲイ同士、普通でしょう」
            *
 二人は、開斗のバイト先だった『シーモア』で軽く飲んで店を出た。
「楽しかったよ…」
 店の入った雑居ビルの前で開斗は祐平に抱きつくとキスをした。
「おい。酔ってるのか?」
「祐平。好きです」

            虚実

「桜井」
 祐平は開斗を押し離した。
「セクハラだぞ」
「俺、本気ですよ」
「わかった。だが、今夜は帰って寝ろ」
「祐平」
「編集長だ」
            *
 午前5時前。
 ホテルの自室で目覚めた祐平はベッドを出て窓の外を眺めた。
 彼の目に蒼白い都会が酷く生彩を欠いて映った。
 …祐平。好きです…
 脳裏を過る、開斗の声。
 …あの時にどこか似ている…
 彼は、そう感じて少し途方に暮れる。
            *
 編集会議の後、開斗は会議室を出ようとする祐平を呼び止めた。
「何だ?」
「資料は何時までに用意すれば?」
「明日迄で良い。入手次第、デスクに置いといてくれ」
「分りました。この後、外出されますか?」
「そうだ」
「お戻りは?」
「多分、戻らない」
 開斗は、背を見せる祐平に言った。
「既読スルー。多過ぎませんか?」
 向き直り、祐平。
「仕事の指示や判断は返してると思うが」
 開斗は、再び背を向けた祐平に言った。
「俺、諦めませんから」
 何も言わず、祐平は会議室を後にした。
            *
 帰社した時、全員退社していた。
 彼のデスクには、表紙に付箋紙の貼られた数冊の資料が置いてあった。
付箋紙を取り上げてメモ書きの字を見た時、祐平は何故か寛人のことを思い出していた。
            *
「いらっしゃい」
 シーモアに一人で来店した客を、意外という面持ちでシュンスケは迎えた。
「シュンスケ。久し振り」
 カウンター席の祐平にシュンスケは言った。
「覚えてたんだ…」
「まぁね」
「忘れられたと思った」
「俺の方こそ。忘れられてると思ったよ」
 思わず、二人は笑った。
 乾杯の後、それぞれの話となった。
「レオン。居抜きしたの?」
「20年前に渉ママから譲られたの」
「部下に連れて来られて驚いたよ。レオンがあった場所だし。店の名前が違うから、知り合いは居ないだろうって入ったら君が居て」
「こっちこそ。開斗がここに誰かを連れて来るなんて初めてだし。しかも会社の上司だって言うじゃない。しかも一緒に来た人が祐平さん。驚きの連続よ。外国に行ったのよね」
「ロンドン」
「いつ戻ったの?」
「今年の春」
「そうなんだ」
「ところで、渉さん元気?」
「3年前に心不全で亡くなったの」
「えっ?」
「故郷の札幌でお店開いて、元気にしてたんだけどね」
「そう…」
「祐平さんに会ったら伝えてくれって。渉ママからの言伝」
「何?」
「祐平さんが元彼と別れる原因を作って、悪かったって」
 雰囲気が澱む。
「もう、気にしてないさ」
            *
 原稿取りを終えて社に戻る途中、祐平は時刻観書店に立ち寄った。
 古書店街に面したショーウィンドウに収まる大時計は、この店のシンボルとして親しまれている。
寛人と別れて以来避けていた場所だったが、その日は自然と足が向いた。大時計を見ていると、その時計の由来を説明した寛人の声が祐平の脳裏に甦った。

 …この大時計。創業時からここにあるんだ…
 …100年前からか…
 …そう。文字は暦を記録するために作られたって。創業者の自説…
 …それで本屋に時計かよ…
 …うん。でも、当時は逢引きの時計って呼ばれてたらしいよ…
 …逢引きねぇ…
 …大時計が珍しかったし本屋なら怪しまれないからね…

            *
「えっ。開斗にいきなりキスされたの?」
 シュンスケ、にやつく。
「相変わらずモテること」
「アホか」
「でも開斗にしては意外ね。だってあの子、年上嫌いなはずだから」
「?」
「祐平さんと同年代は特に嫌ってたし」
「そうなの?」
「でもその年代に人気なのよ。だから、あの子目当てのお客さん増えたもの」
「ふーん」
「何かあるかしらね」
 シュンスケは含み笑いをしながら祐平を見た。
            *
 祐平は二階の書籍売り場を見て回った。
 数年前に完成した建物の建て替えに合わせて店内も改装され、彼の記憶にある雰囲気とは一新されていた。
 天井まで届く書棚が林立し、書籍の充実ぶりは昔と変わらなかった。
 左奥のコーナーに至った時、祐平は開斗の背中を目にして思わず心の中で呟く。
 …寛人…
 開斗の後ろ姿は寛人のそれに瓜二つだった。
 …探してる本。見つけたよ…
 寛人の自慢気な笑顔。
 我に返った祐平は彼に気づかれぬうちに踵を返すが、呼び止められる。
「編集長ッ…」
            *
「島村チーフ…」
 開斗は少しムッとした表情で祐平の前に立った。
「探してる本。見つけましたよッ」
 そして、堰を切ったように話し始めた。
「ネットで探しても無くて、ここに有るって分ったから探しに来ました。編集長がお急ぎのようだったし、部下に任せると間に合いそうになく、本探しは得意なので自分が探しに来ました。正直、その中の一冊を探すのに骨が折れました。でもそんなことは良いんです。許せないのは、ここで本を探しているのを見て知っていながら素通りされる態度なんです。この前は、自分の気持ちを一方的に押し付けてしまって申し訳なかったし、それで僕が嫌われたとしても文句は言えません。でも日頃から公私のケジメに厳しい編集長が、自分を無視するってどういうことですか」
 押し付けるように本を祐平に渡した。
「次からは、ご自分でお探しください」
 祐平の脳裏に寛人との記憶が鮮明に蘇る。

 …まったく信じられないよ。毎回、探しにくい本ばっか…
 …俺じゃなくて、俺の上司に言ってくれよ…
 …俺みたいな本探しの達人がいなかったら、どうなっていた事やら…
 …メシ。ご馳走するからさ…
 …どうせ居酒屋でしょ…
 …少々高めの店でも良いぜ…
 …ほら。探している本、見つけたよ…

「開斗ッ」
 怒って立ち去る彼に言った。
「ありがとう」
 開斗は振り向き、呟く。
「今、名前で呼ばれた…」
「そうだったか?」
「開斗って、呼びましたよ」
「まぁ、そうかな」
「嫌われてないんだ」
「はぁ?」
「今回は、嬉しいから許します」
 祐平は開斗を優秀で有能な若手社員だと誰よりも認めているが、時として見せるこの手のリアクションは彼の理解を超える。
 だからこの時も、祐平は思わず苦笑した。
「笑いましたね」
「済まん」
「本当にそう思ってます?」
「もちろん」
「じゃあ、飲みに連れてって下さい。もちろん編集長のおごりで」
「良いけど条件が一つある」
「何です?」
「セクハラ禁止」
「してません」
「それは被害者次第だ」
 開斗、憮然。
「留意しますよ」
            *
「熱燗。二本…」
「編集長。飲み過ぎですよ」
「祐平で良い」
「でも…」
「俺も開斗って呼ぶ」
 熱燗が届く。
「まぁ飲め」
「単なる親父っすね」
 開斗は、祐平の時計に触る。
「これ好いっすね」
「まぁな」
「俺も買おうかなぁ」
「バーか。売ってねぇーよ」
「ムカつく」
「限定品。レア物。入手困難」
「ネットで探す」
「欲しいのか?」
「はい」
「2人目だな」
「?」
「これ、欲しがる奴」
「一人目は?」
「初めて一緒に暮らした奴。欲しがってたから探したよ」
「見つけた?」
「ああ。贈ったら、俺がしてるのを欲しいと。だから交換した」
「ロマンチック」
「なにが。その直後に別れたよ」
「えッ、何で?」
「女に走った」
「バイなの?」
「知らん。でも別れた原因はずっとそれだと思ってたよ」
「違うんですか?」
「うん」
「?」
「原因は、俺だよ」
「ええッ。でも浮気したのは相手でしょう」
「当時の俺は心を閉ざしてた。その自覚すら無くて、あいつを傷つけた」
「後悔してます?」
「後の祭りだよ。欲しいか?」
 瞬時の沈黙。
「俺じゃない。時計」
「でもまぁ、見つからないでしょう」
「探す。絶対に見つける」
「本当っすか?」
「クリスマスにプレゼントしてやるよ」
「編集長。酔ってますよ」
「祐平だッ」
            *
「祐平。あんたんの家に着いたぞ」
 祐平は、玄関に入るなり開斗にキスをした。
「祐平…」
「仕返しだ」
            *
 朝方。
 祐平は、開斗に覆いかぶさって眠っている。
 部屋の薄明りに浮かぶ彼の横顔を、開斗は見つめる。
 やがて二人の上にスマホをかざして数枚の寝姿を撮った。
 そして開斗はベッドを抜け出し、服と荷物を持って寝室を出た。
            *
 黙って祐平の家を出ようとした開斗だったが、書斎が気になり中に入った。
  …ずげぇ蔵書…
 天井まで続く書棚を呆れ気味に眺めていたが、違和感を覚える一冊を手にする。
  …あの人が、星の王子様をねぇ…
 半ば馬鹿にしながら本を開いた開斗だったが、手垢に塗れたページを見て言葉を失う。
 開斗は書斎を出ると玄関へ行かず、祐平の眠る寝室に戻った。
           *
 二人は、付き合い始めて最初のクリスマスを祐平の家で過ごした。
「メリークリスマス」
 祐平は、開斗にプレゼントを渡した。
「開けて良い?」
 祐平、頷く。
「あッ。見つけたんだ」
「結構探したけどな」
「ありがとう」
「今しないの?」
「交換したい?」
「うん…」
 自分の時計を外し彼に渡した。
「開斗。愛してるよ」
「うん。俺も…」
「ここで、一緒に暮らそう」
            *
「祐平。年末年始は?」
「ここで過ごす。開斗は実家?」
「ここに居て良い?」
「俺なら気にしなくて好いよ」
「一緒に居る」
「わかった。ありがとう」
            *
 年の瀬。
 開斗は東都大学病院に一人で来ていた。
 顔馴染みの看護師たちに挨拶をしながら廊下を進み、奥の個室に入った。
 ベッドで眠る全身不随の患者の傍らに座ると、彼に声を掛けた。
「父さん、来たよ」

            疑心

 朝。
 開斗は玄関で祐平の背中を抱いた。
「こらっ」
「会社じゃ出来ないし」
「遅れるぞ」
「上司もね」
 二人、笑う。
「今夜、社長と飲むの?」
「うん。先に寝てて良いよ」
「飲み過ぎないように」
「わかってる」
 二人はキスをした。
            *
「やれやれ。ここですか」
「この店じゃ、不服か?」
「いいえ。でも、お誘いが社長ですからねぇ」
「お前と小洒落た店になんか行けるか」
「その手の店よりホッとできますよ」
「ここで酒癖の悪い部下に何度絡まれたか」
「ここ、昔のままですね…」
            *
「それで相談事って?」
若杉、鞄から出した封筒を祐平に渡す。
「役員候補の身辺報告書?」
「同期だろ。どんな奴だ?」
「30年。音信不通なので、お役には立てないかと」
「そうか」
「幹部社員への身辺調査の噂。本当だったんですね」
「人事の節目の我社固有の慣習」
「自分も?」
「当然。まぁ、気分の好い類の物ではないがな」
 依頼者欄に祐平の目が留まる。
「島村チーフの名前があるのは?」
「あいつは、人事の時に俺の直部下で調査の窓口を担当だった」
「何故、うちの部に?」
「お前の調査後、海外メディア編集部を希望してな。違う異動を考えてたんだが、お前の下で鍛えるのも良いだろうと思ってな」
            *
 居酒屋の後、二人はショットバーで飲んだ。
「酒、弱くなりましたね」
「流石に還暦過ぎるとな」
 若杉、赤ら顔で苦笑。
「お前こそ。仕事の話しをしなくなったさ」
「相手は社長ですから」
「偉く成るもんじゃないな」
 若杉は、祐平を直視した。
「単刀直入に聞くが良いか?」
「何ですか?」
「お前と島村。一緒に暮らしてるか?」
「半年になります。噂を耳に入りましたか?」
「口を挟む積りもないし、社内恋愛も自由だ。ただ慎重にな」
             *
 帰宅し、祐平が添い寝をすると開斗は目覚めた。
「起こした?」
「ううん。玄関の音で目が覚めてた」
 開斗、彼に向き合う。
「社長。何の用だった?」
「特に何も。元部下と飲みたかったみたいだ」
「ふーん」
「人事からウチへの異動、希望したって?」
「社長?」
「うん」
「お喋りなオヤジ。だからジジイは嫌いだ」
「俺もジジイだけど」
「一番嫌いだ」
「俺が異動になるから希望したと、社長は言ってたけど」
「ちぇッ」
「本当か?」
「うん」
「お前なら、もっと他に有利な選択肢があったろう」
「折角この業界にいるのに、著名な編集者の下で働かない手は無いでしょう」
「ふーん。でも嬉しかったよ」
 祐平は、一層強く彼を抱きしめて言った。
「お前との関係を聞かれた」
「マジ?」
「噂が耳に入ったらしい」
「あちゃ。それで?」
「事実を伝えた」
「何か言ってた?」
「『慎重に』と。それだけを言われた」
「ふーん」
 開斗は不機嫌顔で言った。
「やっぱ会社って、面倒くさい」
            *
 祐平を乗せたタクシーは渋滞に嵌まり、東都大学病院の前で動かなくなった。
 彼が何気なく病院の出入り口に視線を向けた時、その中に入って行く開斗らしき後ろ姿を見掛けた。
 急にタクシーが動き出し、彼は確認の間もなく開斗を見失った。
            *
「一緒の晩御飯。久しぶりだね」
「ごめんな」
「そういう意味じゃないから。昼とか朝は、一緒に食べてるし」
 祐平は彼の顔をジッと見る。
「どうしたの?」
「具合とか悪くないよな」
「うん。何で?」
「開斗に似たのが東都大学病に入るのを見てさ」
「別人だよ。俺、この通り元気だし」
「そうだよな」
            *
「おや。今日は、シュンスケのみ?」
「そう。一人営業。開斗と待ち合わせ?」
「あいつ。今日、明日と大阪出張」
「寂しくなった?」
「何とかの洗濯さ」
「ボトルで良い?」
「うん」
「何割り?」
「ウーロン。良かったらどうぞ」
「いただきます」
            *
 乾杯の直後、祐平のスマホに開斗からのSNS。
『今、どこ?』
『シーモア。そっちは?』
『二次会のお店へ移動途中』
『ゲイバー?』
『ノン気の店ですよ』
『ふーん』
『混んでる?』
『客。俺一人』
『飲み過ぎないでね。オッサン』
『そっちこそ。若造』
            *
「開斗?」
 祐平、頷く。
「仲の好いこと」
 祐平、照れ笑い。
「一緒に暮らして半年くらい?」
「うん」
「年上嫌いのあの子が祐平さんと。分らないものね」
「何で年上を毛嫌いしてたんだ?」
「どうしてだろう」
「年の離れた兄がいて不仲とか」
「あの子、一人っ子よ。開斗が生まれて割と早くに両親が離婚したから兄弟はいないって言ってたわ」
「ふーん。初耳だよ」
 シュンスケは、不機嫌な表情の祐平を少し笑いながら言った。
「あの子、自分のことを他人にあまり話さないから」
「…」
「両親の離婚原因について一度だけ話してたわ。詳しくは言わなかったけど、父親と父より少し年上のゲイとの関係が原因で両親が別れたって。その相手を恨んでる感じだった。あの子の年上嫌いって、それからかしら」
            *
 再び、開斗からSNS。
『好い雰囲気の店だよ』
(店の写真)
『今度、二人で来ようよ』
『行こう』
(燥ぐ熊キャラ、点滅)
            *
「両親の人生を滅茶苦茶にしたゲイの奴が許せないって」
「…」
「見つけたら絶対に復讐してやるって」
 眉間に皺を寄せながら、シュンスケは続けた。
「あの時、開斗を怖いなって、マジで思った」
            *
 在宅勤務の祐平に開斗からSNS。
『お願いがあるんだけど』
『何?』
『送って欲しい企画書があって』
『企画書?』
『午後の打ち合わせで使うやつ。社内ネットに共有し忘れてた』
『どこにある?』
『俺の部屋のPC。デスクトップ』
『パスワードは?』
『今送る』
 立ち上げた開斗のPCのデスクトップはフォルダーのカオスと化している自分PCのそれに比べ静寂すら感じさせるシンプルな画面だったので、祐平は思わず苦笑した。
『あった。一応、中を確認するけど良いか?』
『編集長。是非お願いします』
 祐平は内容を確認し、修正指示も含めて企画書を社内ネットに共有した。
『まったく上司をこき使いやがって』
『可愛い部下の頼みを聴いて頂き、ありがとうございます』
『今日は、早く帰って来いよ。一緒に飯を食べよう』
『コアタイム終了次第、直ちに帰宅致します』
『待ってる』
(点滅するハートマーク)
            *
 PCをシャットダウンしようとした祐平だったが『YS』のタイトルを記されたフォルダーが妙に気になった。
フォルダーをクリックするがパスワードを要求される。ダメ元で祐平は、今しがた開斗に教えられたパスワードを試しに入れてみると、セキュリティガードは解除された。
 フォルダーにはテキストと画像データが入っていた。
先ずテキストを見た祐平だったが、その内容を見るなり彼は眉間に皺を寄せた。
 …一体これは、どういうことだ…
 それは、開斗が興信所に依頼した祐平に関する調査報告書で、その主たる内容は30年前の祐平と寛人に関わるものだった。
 …俺と寛人の関係になんで、あいつが関心を持つんた…、
 その時、シュンスケの言葉が祐平の脳裏を過る。
 …両親の人生を滅茶苦茶にしたゲイの奴が許せないって…
 祐平、震える指先で画像データをクリック。
 彼、写真に絶句。
 裸の二人が抱合ってベッドで眠る写真。
 復讐の二文字を、彼は感じた。
             *
 開斗が帰宅すると、祐平はリビングルームのソファーに腰掛けていた。
「あっ、居たんだ」
 祐平はゆっくり顔を上げた。
「ただいまって、玄関で言ったけど返事がなかったから出掛けてるのかと思った」
 祐平、無言。
「どうしたの?」
 彼は開斗の顔をジッと見つめる。
「具合悪いの?」
 不快な溜息の後、祐平は言った。
「そこに座れよ」
 祐平は対面の席を指した。
「えっ。隣り、行くよ」
「良いから。そこに座れ」
 普段と様子の違う祐平に戸惑いながら、開斗は彼が指定する椅子に腰掛けた。
「開斗。お前、俺に隠し事してないか?」
「別に隠し事なんてしてないけど」
「お前のPCのデスクトップの『YS』名のフォルダー。YSって何の略だ?」
「特に何か意味があるとかではないけど」
「言えない様だな」
「そんな事は無いけどさ」
「じゃあ、言えよ」
「…」
「俺の名前、『YUHEI SAKURAI』のイニシャルだろ」
 開斗は言葉を失い、祐平を凝視する。
「パスワードが解からなければ、見なくて良い物を見ずに済んだ。でも、お前が送ってきたパスワードが合ってしまった。勝手に覗いたことは謝るが、あれは一体、何の積りだ?」
「祐平。何言ってんの?」
 祐平は、準備していた書類を開斗に突き付けた。
「印刷したよ。俺に関する興信所調査報告だろ」
「それは、人事に居た時の…」
「仕事だろ。知ってる。だが、これは違うよな。俺の30年前を何故調べた?」
「それは…」
「俺が、お前の両親の離婚の原因だと思ったか?」
 祐平は印刷した写真を、開斗に投げつける。
 表情を強張らせ、開斗は床の上の写真を見つめる。
「それをネタに俺を、セクハラで陥れる積りだったか?」
「違うッ」
「東都大学病院へ、何しに行ったんだ?」
「そんな所、行ってない」
「俺がお前を見たと言った日はどこに居た?」
「あの日は、打合わせで外に…」
「その予定。ドタキャンされたよな」
「…」
「俺に何の恨みがあるんだ」
「恨んで無い。祐平を本当に愛してる。信じて」
「開斗。お前…」
開斗、目から涙。
「一体、何者なんだ?」
            *
 開斗は頭を抱えて泣くだけで何も答えなかった。
「お前には黙っていたけど、その後も病院へ行くお前を見てるんだ」
 彼は顔を上げる。
「駅前の花屋で花束を買っているのを偶然見掛け、お前の後をつけた。案の定お前は、東都大学病院に行った。その時は病院のロビーで見失ったがな。誰を見舞ったんだ?」
 開斗、怯えた表情。
「俺に言えないか。そいつ、ひょっとして本当の彼氏か?」
「違う。俺が愛してるのは祐平だけだ」
 祐平、苦笑い。
「それなら何故、聞かれたことに答えられない」
「…」
「簡単に答えられることじゃないか」
「本当に何でも無いんだ。俺を信じてよ」
「隠し事をするお前を、信じろと?」
 開斗は何度も左右に首を振って否定し続ける。
「もう一度聞く。東都大学病院に誰が入院しているんだ?」
「それは…」
「よほど知られたくない人らしいな」
「それを知ってどうするの?」
「開き直るか。呆れた奴だ。なぁ、お前がそうまでしたい奴って一体、何者だよ?」
「…」
「俺とは、どんな関係なんだ?」
 開斗、哀願の眼差し。
「そんな目で俺を見るなよ。お前にとってのそいつは、俺以上に大切な人のようだ」
「確かに大切だけど、俺にとって一番大切なのは祐平だよ」
「嬉しいけど、そいつも大切だと認めるんだな」
「それは…」
「それじゃあ。そろそろ行こうか」
「えっ、どこへ?」
「東都大学病院だろ。お前の大切な男の見舞いさ」
「嫌だっ…」
「お前の大切な奴なら、俺にもそうだ。挨拶しないとな」
「嫌だ。お願い。それだけは勘弁して」
 開斗、祐平に縋りついて号泣懇願する。
「会ったら。俺の事、ちゃんと紹介してくれよ」
            *
 病室のネームプレートを見て、祐平は声を漏らした。
「清水。寛人…」
            *
 ドアを開けようとする祐平に、開斗は立ちはだかる。
「どけよ」
 中に入らせまいとする開斗と祐平の間で静かな諍いがしばらく続いていたが、業を煮やした祐平は力任せに彼を押し除けた。
そして、祐平はドアを開けた。
殺風景な個室の奥に生命維持装置に囲まれたベッドが、彼の目に入る。
 …何だ、ここは…
 ベッドサイドで患者の寝顔を見て、祐平は声を漏らした。
「寛人…」
 祐平は振り向き、彼に訊ねる。
「何なんだよ。これは?」
「20年以上。父さんは、この状態なんだ」
「父さん、だと?」
「…」
「寛人の息子だって?」
 開斗、頷く。
「俺を欺いてたんだな」
「違う」
「じゃあ、何故黙ってた」
「それは…」
「復讐目的で近づいたんだろ」
「違う。祐平。愛してる。本当に愛してるんだ…」
「俺から、離れろよ」
「嫌だッ」
「離れろって」
 突然、ドアが開いた。
「母さん…」
「あなた。桜井祐平…」
「あの時の女かよ」
 二人の顔を見て、祐平は力なく笑った。
 個室の静寂に染入る生命維持装置の微かな作動音。
 そして、祐平は言った。
「俺たち、別れよう」
「ゆうへい…」
「もう終わりにしよう」
 彼は、部屋を出て行った。

            告白

 体調不良を理由に長期休暇を取った開斗が出社をしなくなると、祐平に対する妙な噂話が社内で一気に広がり始めた。
 そんな矢先のある日、祐平は若杉と飲んだ。
「島村と連絡は?」
「休暇届けのメールが最後です」
「メールってお前、一緒に暮らしてるだろう」
「彼とは別れました」
「いつ?」
「先週末です」
 祐平、若杉をジッと見つめる。
「何だ?」
「ご存知だったんですか?」
「何が?」
「彼が寛人の息子だと」
 若杉、少し間を置いて頷く。
「いつ頃からです?」
「就活で我社に来た頃」
「随分前からですね」
「彼の母親から我社への就職の件で相談されてね」
「島村香純?」
「古くからの友人。…学生時代に付き合っていた俺の彼女だよ」
「何故、黙っておられたんですか?」
「言う必要があったか?」
「いいえ」
「何かあるのか?」
「幾つかの噂は随分昔に関する物でした」
「そのようだな」
「情報の出所にお心当たりは?」
「無い」
 若杉は酒を飲み干して言った。
「桜井。俺は、お前に『慎重に』と忠告したはずだ」
「はい」
「今も昔も俺はお前の見方だ。それだけは忘れるな」
            *
 若杉と別れた後、祐平はシーモアで一人飲んだ。
「今日のお客さん、祐平さん一人なのよ。スマホは家で見なさい」
 シュンスケはスマホを見続ける祐平に言った。
「そうだな」
「早く仲直りしなさいよ」
「そう簡単でもない」
「まだ好きなくせに」
 祐平、失笑。
「どうしてそう思う?」
「過去から直前までのSNSを何度も見ているから。それって確認でしょ」
「?」
「自分たちは間違っていなかったって」
 祐平は静かに言った。
「感じの悪い店だ…」
            *
 深夜。
 自宅に戻った祐平は、書斎で星の王子様のページをめくる。
 溢れる涙を拭うこともせず、彼はページの一枚一枚を指先で撫で続けた。
            *
 病室で眠る、寛人。
祐平はベッドサイドから彼の寝顔を見つめた。やがて、ディスプレイ画面脇に置かれたサリンジャーの短編集に気づくとそれ手に取った。
 ディスプレイ画面に文字が、突然表示される。
『祐平』
 寛人、祐平を見る。
『どうした?』
「会いに来た」
『見舞いだろ』
 祐平、苦笑。
 ディスプレイ画面に『笑』の文字が表示される。
「笑?」
『文字でしか感情表現ができない。悪いが慣れてくれ』
「ネットでの会話と同じだな」
『SNSか?』
「知ってるの?」
『開斗から聞いてる』
「そうか。良い息子だな」
『惚れたろ』
「黙れ」
『笑』
「何があったんだ?」
『話すと長いよ』
「いいよ。時間はたっぷりある」
            *
『お前に捨てられた後、香純と結婚した』
「捨てられたって酷くないか?」
『笑』
「上司からロンドン発つ前に聞いた。お前、渋谷で若杉さんと偶然会ったろ?」
『偶然かぁ。そう言えなくもないか』
「違うのか?」
『まぁ、良いさ。香純と結婚して3年目に開斗が生まれた』
「うん」
『俺と香純のセックス。一度だけだった』
「えっ?」
『2度目の結婚記念日の夜。その時だけさ』
「開斗はお前の子だろう?」
『それは間違いない。俺のヒット率って中々だろう』
 祐平、苦笑。
「だったら、あの夜は?」
『彼女を慰めていた』
「?」
『当時香純は、不倫で悩んでた。相手は、若杉三郎さ』
「不倫の噂。本当だったんだな」
『彼女、精神的に不安定で放って置けなかった』
「何故、それを俺に言わなかった?」
『お前が信頼と尊敬を寄せる上司の事だからな』
「お前の言葉を信じないと思ったか?」
『無理だろうなって。自信がなかった』
「それで何も弁解しなかったのか?」
『うん』
 祐平、寛人の額に手を当てる。
『悔しい』
「うん?」
『掌の温もり。感じることが出来ない』
祐平は、彼の眉を親指で撫でた。
『会いたかった』
「俺も。やっと会えた」
            *
『あの頃。心を閉ざしてたな』
「無自覚だったけどさ」
『ゲイがバレたくないから心を閉ざすのが自然な振る舞いになる。俺もそうだったよ』
「常に何かに怯え、悟られまいと必死だった」
『そうだね』
「関係が壊れ、失い、存在を否定されるのが怖かった」
『だから、在りのままの自分を隠蔽してた』
「それに長け過ぎて自覚も麻痺してたさ」
『俺。心が蝕まれそうな祐平を救いたくて必死だったんだ』
「でも俺は、寛人を傷つけた」
『まったくだ。笑』
「星の王子様の意味にも気づけなかった」
『あれ。祐平の孤独への宣戦布告だったんだけどなぁ』
「スマン」
『近づくほどに祐平は心を閉ざし。俺、途方に暮れたよ』
「サリンジャーの短編集。最悪だったな」
『バナナフィッシュが面白いよって言われて、言葉失ったもん』
祐平、苦笑。
『眠っている妻の前で自殺する主人公が自分と重なって。もの凄く傷ついたから』
「ごめん」
『編集者失格だよ』
「まったくだ」
『笑』
 寛人、祐平を見つめる。
『でも、その短編集に救われたんだ』
「救われた?」
『うん』
            *
『開斗の誕生は物凄く嬉しかったけど、香純への気持ちはどんどん冷めていった』
「何故?」
『俺もまた、彼女に心を閉ざしたから』
「…」
『俺たち、一人ぼっちが嫌で結婚したんだ。香純は俺に寄り添うことで心の穴を埋められたけど俺はダメだった。祐平のことを忘れることができなかった』
 寛人の眼球が激しく動く。
『開斗が生まれて、俺はホッとした。これからは、開斗が俺の代わりとなってくれると。開斗は誰より大切で愛おしかったけど、俺にとって香純の寄り添いは負担で苦しかった。俺は家を空けることが多くなって、生きてるのが奇跡と思えるほど荒んだ生活を送った。見兼ねた香純の両親が離婚を勧めた。開斗の親権で揉めて。離婚調停で負け、親権者は香純と裁定されて離婚した。開斗が四歳の時だ。あの事故は俺が家を出た日に起きた』
 寛人、遠い眼差しで続ける。
『車で帰る途中だった。カーブが続く下りの山道で、ブレーキが急に利かなくなった。自分の車線は崖沿いで乗り上げる場所もない。加速で曲がり切れず崖下に転落した。目覚めると病院だった。車は大破したが爆発炎上はなく俺は幸運にも死なずに済んだが脊髄損傷で全身不随となった』
 祐平、寛人の顔を見つめた。
『一日が長いんだ。夜は特にそう感じる。だから昼間、眠らないように気をつけてる。昼の光は夜の闇よりも遥かに残酷でさ。闇は意識を溶かしてくれるけど、全てを見せる光の世界は、時が止った様に目に映る。辛いよ。変化が欲しい。停止の連続を忘れたい。それを叶えてくれたのが、開斗の成長とあの短編集だった』
寛人の目が光る。
『開斗は、生きる活力だよ』
「開斗は解かるけど、短編集は?」
『お前と別れた後、何度も捨てようと思った。でも出来なかった。時計とその短編集が、お前との唯一の繋がりだったから。あの事故で時計は失われてからは尚更だ。俺を傷つかせた一冊だけど、それだからこそ、その本を見ているとお前との日々が鮮明に思い出される。それを眺めているだけで、地獄を忘れることができた』
「ずっと病院暮らしなのか?」
『入ったり、出たりの繰り返しさ』
「病院以外でのお前の世話は誰が?」
『開斗と香純がしてくれてる』
「離婚したのに?」
『変か?』
「開斗は分らなくもないが、香純さんはどうなんだ?」
『あの事故がブレーキ欠陥によるものと判り補償が支払われることになり、それは今も続いている。入院費や開斗の養育費も全てそれで賄われた』
「介護は金目当てか?」
『どうかな。だが、彼女の介護は献身的だよ。誰が何と言おうと疑う余地はない』
「そうか」
『罪の意識を感じるよ』
「彼女や開斗にか?」
 寛人の視線が宙を泳ぐ。
『あれは事故なんかじゃない』
「うん?」
『ブレーキの効かない車に身を任せて突っ込んだのさ』
「どういうことだ?」
『自殺を図ったんだ。でも死ねなかったよ』
 寛人は続けた。
『天罰かな。自ら命を絶つことも叶わない身体に絶望した。だがブレーキ欠陥と補償の話を聞いた俺は、補償に自分の生存意義を見出した。俺が生き続ける限り香純と開斗の生活は保障される。だから、俺は真実を自分の心の奥底に隠蔽した。詐取かな。軽蔑したろ?』
「俺も同じことをしたさ。ただ一つを除いて」
『一つ?』
「俺なら。隠蔽を墓まで持って行く
『確かにそうだ。笑』
「でも嬉しいよ」
『何が?』
「二人だけの秘密が増えた」
『笑』
 祐平も笑った。
            *
『献身的だったから、介護は彼女の負担だった。他人に言えない悩みや葛藤も多く、いつしか彼女は心の内を開斗に聞かせて解消した。何気ない愚痴も、開斗にとっては母の苦しみと映った。やがて開斗の中でそれが、お前に対する歪んだ恨みへと変わっていったんだ』
「お前が開斗にシーモアを教えたか?」
『うん。あいつが高一の時にゲイだと打明けられた。大学に入り、ゲイバーに行ってみたいというからシーモアを紹介した。バイトを始めたあの子が、そこで出会った渉さんからお前のことを知ろうとは夢にも思わなかったよ。それが目的だったんだろうな』
「巡り合わせさ。お陰で俺は、開斗に出会えたけどね」
『嫉妬』
「息子に焼き餅妬いてどうする」
『笑』
 祐平、苦笑。
『あとはお前も知る通りだ。でもあの子は、かなり苦しんでいた』
「?」
『欺いて近づいたが、お前を好きになった。陥れたい気持ちと、お前に惹かれる気持ちの間で揺れて悩んでいたんだ。そんな息子を慰めることも出来ず、もどかしさと不甲斐なさで随分と苛立たされたな』
「諭して止めろよ」
『この身体でか?』
 祐平、苦笑。
『お前の書斎で開いた星の王子様はどのページも手垢で汚れていた。その時、お前の孤独や苦しみが解かったと。それで許せたと』
「星の王子様に救われたか」
『だが皮肉にもお前を許した時から、新たな苦悩が始まった』
「忙しいやつだ」
『お前を欺き陥れる目的で近づいた事実は消せない。真実を知ったお前に捨てられる恐怖であの子は怯えていたよ。お前との日々が幸せだったから、絶対に失いたくなかったんだろうな』
「…」
『お前や俺だから。あの子の怯え、隠蔽が明るみになる怖さがどんなものか解るだろ』
祐平、寛人を見つめる。
『お前が開斗に別れを告げた時、30年前の自分と開斗が重なったよ』
「起きてたのか?」
『うん』
「狸オヤジめ」
『笑』
寛人、祐平をジッと見る。
『今の俺たちに一番必要なのは、本当の寛容じゃないのか?』
 祐平、深いため息を漏らす。
「遠巻きではない本当の寛容か」
 見つめ合う二人。
『だから開斗を許してやって欲しい』
            *
 長い沈黙の後、祐平が言った。
「また会いに来るけど良いよな?」
『笑』
「いつでも会えるよな」
『祐平』
「…」
『俺の手を握って』
 手を握られた寛人は目を閉じる。
『昔のままだ』
「寛人もな」
『祐平』
「うん?」
『開斗を頼んだぞ』
 二人、唇を重ねる。
 長いキスのあと、祐平は溢れ出る寛人の涎を舐め取った。
 寛人の眦から一筋の涙。
「俺に任せろ」
 祐平は、彼の涙を拭った。
           *
 キッチン。
 祐平はシチューを煮込む寛人を背中越しに抱いた。
「美味そう」
 シチューをかき混ぜる彼の手を握り、祐平も一緒に混ぜる。
「ビーフ?」
「ポーク」
 祐平は彼の肩に顎を乗せて言った。
「ポークって、大抵カレーじゃねぇ?」
「だから試しに作ってみたんだ」
 祐平は寛人の首筋を愛撫する。
「あと10分煮込みたいんだ。我慢して」
「そんなに長く、我慢できないよ」
 彼の顔を自分に向け、祐平は寛人にキスをする。
「10分でもっと美味しくなるのに…」
「今だって美味し過ぎる。この瞬間を食べたい」
 二人、激しくキスを重ねる。
「火を止めなきゃ。また焦げちゃうよ…」
「大丈夫」
 二人、見つめ合う。
「もう誰にも止められない」
 寛人は、火をそっと止めた。
            *
 深夜。
 祐平、ガッと目覚める。
 …夢か…
 真っ暗な部屋で震えるスマホが灯る。
「はい?」
「島村香純です」
「何か?」
「主人が、先ほど亡くなりました」
「死んだ?」
「夢見て眠るような最期でした」
「…」
「主人からあなたへの遺言を預かっています」
「遺言?」
「葬儀に必ず参列して欲しいと」
「そうですか」
「日程決まり次第、お知らせします」
「お願いします」
            *
 祐平は駐車場でタクシーを降り、葬儀場の建物を見上げた。

            寛容

 会場に読経の声が響く。
 祐平は、遺影で微笑む寛人に自分の知らない別人の彼を感じる。
 …寛人。お前、本当に死んだのかよ…
 祐平の心の問いに答えはなく、葬儀社の会場係の声が彼の耳に届いた。
「御親族の皆様。ご焼香を順番にお願い致します」
 焼香台の前に立つ親族たちの背中で寛人の遺影が見えなくなった。
            *
「御親族の皆様。ご焼香を順番にお願い致します」
それまで床に視線を落として喪主席に座っていた開斗だが、葬儀員の声で顔を上げた。
 彼の視界に映る祐平。
 …開斗。何も心配しなくて良いよ…
 彼は、焼香の匂に紛れて父の声が耳を過ったように思った。
「開斗」
 母の声に彼はハッとし、焼香を済ませた親族に会釈した。
「一般弔問客の皆様。ご焼香をお願い致します」
 一般の焼香客たちが立ち上がると彼は祐平の姿を見失った。
            *
 横一列三人の中で喪主から一番遠い位置で焼香を済ませ、遺影に手を合わせる彼の袖口から覗く時計に、香純は溜息を漏らす。
 そして、心の中で遺影の寛人に呟く。
 …これが、あなたの遺言なのね…
            *
 焼香後、図らずも二人は向き合う。
 見つめ合う二人。
 視線を落とした祐平は寛人の腕に自分と同じ時計を見る。
            *
 …今、一番必要なのは本当の寛容じゃないか…
 寛人の声が過ったような気がした。
 祐平は、彼の顔をもう一度見てから無言の挨拶を済ませると喪主に背を向けた。
            *
 席に戻ることなく式場の出入り口へ向かう祐平の後ろ姿を、開斗は目で追った。
「開斗。あなたは喪主なのよ。落ち着きなさい」
 小声で嗜める母親の顔を、開斗は見つめた。
「母さん。ごめん…」
 そう言って開斗は背を立ち、部屋を出ようとする祐平を追った。
 突然起きた喪主の不可解な行動にざわつく弔問客たち。
 戸惑の表情を浮かべる葬儀社のスタッフたち。
 会場の騒ぎに動じない香純を見た葬儀社の責任者は、スタッフに続行を指示した。
 香純は、寛人の遺影を見て微笑んだ。
 …後は、二人次第ね…
            *
「祐平ッ」
 駐車場でタクシーを待っていた祐平は、開斗に背を向けて歩き始めた。
「祐平。待って」
 止まることなく歩み続ける祐平を追って、開斗は駆け出す。
 歩みを徐々に早める祐平に開斗が追いつき、彼は祐平の背中に抱き着いた。
「ごめん。祐平」
「…」
「ごめんなさい」
 祐平は、彼の腕を解こうとするが力を強めて抗われる。
「俺を欺き陥れようとしたろ」
「本当にごめんなさい」
 祐平は、背中で泣く開斗を感じながら途方に暮れる。
「恨まれても。憎まれても仕方ない。でも俺は、祐平と離れたくない」
「…」
「祐平を愛してる。信じて」
「開斗。手を少し緩めてくれないか」
 開斗は、いっそうしがみつく。
「顔を見て、ちゃんと話がしたいんだ」
 開斗は、恐る恐る腕を解いた。
 両頬に手を当て彼の顔をジッと見つめてから、祐平は言った。
「何を信じろと、言うんだ?」
 開斗、表情が強張る。
「俺はもう、取り返しのつかないことはしたくないんだ」
 開斗は涙をボロボロ流して泣いた。
 その時、二人の傍にタクシーが止まった。
 開斗は、一人でタクシーへ向かう祐平を青褪めた表情で見送る。
 祐平は、扉が開けて待機するタクシーに乗り込まなかった。
タクシーは客を乗せぬまま扉を閉めると駐車場を後にする。
タクシーを見送った祐平は、足早に開斗の所へ戻るや彼を抱いてキスをした。
 開斗の顔を見つめながら、祐平は言った。
「もう、俺から離れるなよ。死ぬまで一緒だからな」
            *
 会場に戻った二人に無言の視線が集まる中、開斗は祐平を親族席に座らせる。
開斗は喪主席に戻り、読経も止んだ。
            *
 出棺前、開斗と一緒にいた祐平に香純から話し掛けられた。
「桜井さん」
「あっ。香純さん」
「ご無沙汰してます」
「こちらこそ」
 香純、開斗と祐平を見て。
「開斗を宜しくお願いします」
「母さん…」
「安心して下さい」
 彼女は微笑むと、サリンジャーの短編集をバッグから出して言った。
「お棺に入れるのをお願いしたいわ」
「…」
「あなたが、一番相応しいから」
 本を受け取り、祐平は頷いた。
「火葬もここで?」
「そうなの。便利で良いわ」
 祐平、自分の腕時計を見る。
「そろそろかな」
「祐平さん」
「はい?」
「出棺の後も立ち会って下さいね」
「それは流石に…」
「寛人も喜ぶから」
「身内でもありませんし」
 二人を見て、香純は言った。
「もう身内よ。寛人にも。開斗にも」
 開斗、彼に頷いて見せる。
「火葬の間。あなたとお話したいけど良いかしら?」
 祐平、頷く。
「それでは後ほど…」
 開斗は不機嫌顔で言った。
「母さん。俺が邪魔なんだ」
「拗ねるなよ。ところで彼女の話相手の男性は誰?」
「西村先生。父さんの主治医だった」
「あの二人。好い雰囲気じゃないか?」
「そうかぁ?」
            *
 棺に眠る寛人の顔を、祐平は見つめる。
 彼の手に短編集を置き、心の中で祐平は言った。
 …また、逢おう…
            *
 火葬待ちのロビー。
「開斗。仲間外れにされたって拗ねてましたよ」
 香純、苦笑。
「二人きりで話したかったから」
 彼女は、祐平の前に腕時計を置いた。
「えっ。これって?」
「あの人の腕時計。事故が起きた時間で止まったまま」
「…」
「あの人の遺品と呼べそうな物はもうこれだけだから。受け取って」
「寛人。事故で失くしたと言ってましたけど」
「嘘をついたの。渡しくなかったから」
「何でそんなことを?」
「あなたに嫉妬していたから」
 祐平、指先で時計を撫でる。
「何度も捨てようと思ったけど、出来なかった」
「何故?」
「離婚直後にあの事故が起きたので、あたしに介護義務は無かった」
「あなたの介護が献身的だったと、寛人は感謝してましたよ」
「そう。嬉しいけど、違うわ」
「違う?」
「彼の肉体を手に入れたから。あなたのことを忘れさせられさえすれば、彼を独り占めできると思った」
「…」
「でもダメだった。寛人は開斗にサリンジャーの短編集を自分の見える所に置かせていたもの。初めてそれを目にした時、もの凄く嫉妬して、あなたの存在を怨んだわ」
「それなのに捨てられなかった?」
「彼が眠っているの確かめて、あの本を捨てようと手に取ったの。その時ディスプレー画面に突然、文字が映し出された。『僕はもう、自分で死ぬことが出来ない』と。そう表示されていたわ」
 香純は静かに語り続ける。
「本を戻して彼の寝顔を見た時、ホッとしたのを今でもよく覚えてるわ。どうして戻したのかって。人間辞めたくなかったから。あたしは、あの人を二度殺そうとしたの。今の話の時とゲイバーであの人を誘った二度。でも寛人はあたしを憎まず、許しすらしてくれた。そんな彼から最後の一つの生きる希望を奪えないじゃない。たった二つしか無くて、そのうちの一つは、既にあたしが取り上げてしまっているのよ。もう一つを奪うような残酷を彼にしたら、人じゃないわよ。だからあたしの介護は決して献身と言える行為じゃないの。独占欲と嫉妬に始まり、贖罪に終わる行為。ポジティブな感情によるものではなく、負の感情に根差した行為だった。だから、介護を案外長続きしてやれたのかもしれないわね。愛情は薄れがちだけど、憎悪って刻み込まれて忘れないものだから」
「きっと違いますよ」
「何故?」
「贖罪と言いましたよね。きっと、それが香純さんを救ったんですよ。あなただけじゃない。寛人や開斗、そして自分も。そうでなければ、こうして対話なんかできませんよ」
「そうね」
 香純は微笑んだ。
「香純さん。これからどうされる予定ですか?」
「結婚します」
「ほう?」
「主人の主治医だった先生と」
「先程、お話されていた方ですね?」
「あら。西村先生をご存知なの?」
「開斗から聞いて」
「そう」
「開斗には?」
「まだ。でも、反対しないと思うわ」
「どうかなぁ?」
「開斗には、あなたがいるじゃない」
            *
「ところでレオンは、以前から知っていたんですか?」
「いいえ。あのお店なら若杉に連れて行かれたのよ」
「えっ?」
「学生の時に別れた若杉と同窓会で再会して、不倫関係になって。寛人と出会った頃は、それがギクシャクして。気分直しにゲイバーでもって感じになって行ったんです」
「そこに寛人が?」
「ええ。お前にゲイを落とせるかって若杉にけしかけられ。隣りが寛人だった」
「話すと楽しいから、彼に連絡先を教えたりしてたら若杉の機嫌悪くなって。その上、あの店のママが若杉を凄く気に入って一緒の写真を撮ったりされて、増々不機嫌になって。二度と行くかって怒ってました」
「渋谷で若杉が寛人と偶然会ったことは?」
「よく覚えてる。婚約指輪を二人で選んでるところに現れて。デパートの宝飾品売り場に一人で来るような人じゃないから驚いたもの」
 そこに開斗が現れた。
「そろそろだって」
            *
「先に行ってるわね」
 そう言って立った香純は、親族控室へ向かった。
 開斗、祐平の隣に座る。
「二人で何の話し?」
 苦笑いしながら、祐平は曖昧に答える。
「昔話だよ」
「仲悪いくせに。信じられないよ」
「お前。俺たちのことを誤解してないか?」
「誤解って?」
「彼女に会って話したの、今日が初めてだ。仲が悪くなるほど親しくないよ」
「ふーん」
「仲間外れされたと、まだ怒ってるのか?」
「違うよ」
 プイッと横を向く彼の前に祐平は、寛人の腕時計を置いた。
「それ。父さんの?」
「事故の起きた時間で止まってるらしい」
 開斗は、それを手に取って眺めていたが、不意に軽く振ってみる。
「あれっ。動いた」
「壊れてなかったんだな」
「そうみたい」
「オーバーホールに出してみようか」
「うん」
 葬祭場の案内員が二人に告げた。
「骨上げの準備が整いましたので、これから収骨室へ御案内させて頂きます」
            *
 係員が骨上げの説明を始めた。
「お骨は、お二人様一組にて、箸で拾って頂きます。喪主様、ご遺族様、ご親族様の瞬番で、先ずは歯から拾い、次に足から頭へと骨壺にお納め頂きます。この仏様の御姿に似たお骨が喉仏と呼ばれております。最後にこれを故人様と一番親しかった方に拾って終りとなります。では、喪主様からどうぞ」
 開斗と共に係員から箸を渡された香純は、それを祐平に渡した。
「あなたが相応しいわ」
 戸惑う祐平に、開斗が言った。
「喉仏も拾ってやって」
「…」
「父さんが一番望んでるから」
 開斗からそう言われて背中を押された祐平は、箸を握った。
「さぁ。始めよう」
            *
 二人だけの葬儀場のロビー。
 開斗の隣で、祐平は骨壺の入った箱を膝の上に置いて座っている。
「本当に俺で良かったのかなぁ?」
 開斗はクスクス笑いながら言った。
「喪主様が許可したんだから良いんだよ」
 祐平、溜息。
「遺族や親族とかじゃなくて、故人との関りが一番重要なんだ」
「ありがとう。喪主様」
 祐平は、彼の頬にキスをする。
「こんな所で何だよ」
「お礼だ」
「誰かに見られたらどうすんだよ」
「誰も居ないよ」
「父さんの前だぞ」
「なら、ちゃんと慣れてもらわないとな」
「?」
「お前が寛人を預かるんだろう」
「うん」
「それって、うちに連れて帰るってことだろう?」
 祐平、にやけ顔。
 開斗、呆れて彼に言う。
「まったく、不謹慎な奴め」

            帰結

 ウェーブ-本社ビル内の会議室。
「俺が何で異動なんだよ」
 開斗は声を荒げる。
「バンコク転勤なんて嫌だね」
「新規プロジェクトの責任者だぞ。悪い話じゃない」
「なぁ、祐平。断ってくれよ」
「社内だぞ。編集長と呼べ」
「編集長様なら断れるだろ。頼むよ」
「無理だ。社の決定だからな」
「葬式から半年。俺たちの生活もこれからって時に嫌だよ」
「俺だって、お前と離れたくない。だがな、お前の将来を考えて承諾したんだ」
「えっ、祐平。俺をバンコクへ単赴任させたいのかよ」
「お前なぁ…」
「兎に角、俺は行かないからな。断れよ」
 捨て台詞を残して会議室を出て行く開斗を見ながら、祐平は溜息を漏らす。
 …今夜も、一波乱あるなぁ…
            *
 二人の寝室。ベッドで祐平に背を向けて寝る開斗。
 祐平、彼の腰に手を回すが拒否。
「触るな」
「まだ怒ってるのか?」
「今日は疲れてんの」
「異動まで三週間しかないんだぞ」
「承諾してないから」
「向こうに行ったら、しばらく会えないんだぞ。二人の時間を大切にしよう」
「知らねぇーよ」
「機嫌治して」
「原因を作ったのは、そっちだろ」
 祐平、再び彼の腰の手を回すが断固拒否される。
「触るなって。おやすみ」
「やれやれ…」
            *
 東京国際空港出発ロビーのラウンジで話す、二人。
 開斗、相変わらず不機嫌顔。
「SNS、直ぐに返せよ」
「わかってるよ」
「毎日。朝と晩にするからな」
 祐平、苦笑。
「そんなに俺が心配か?」
「基本だろ」
「朝晩といわず、ちょくちょく入れてやるよ」
「わかった」
 開斗の表情が少し和らいだ。
「俺にすれば、お前の方が心配だよ。向こうで浮気しやしないかって」
「するか」
 祐平は修理に出していた腕時計を置いた。
「オーバーホール、終わったの?」
「まぁな。腕、出して」
「えっ?」
「時計をしてる方。これと取り替える」
「…」
「これが寛人の遺品で、俺にとって大切な物だと知ってるな」
「うん」
「お前に預ける。今日から俺は、お前がしてた時計をするから」
「…」
「少しは信用したか?」
「疑うかよ」
            *
 保安検査ゲート前。
「開斗。気をつけてな」
「祐平も」
「深刻になるな。オンラインミーティングもあるし」
「祐平」
「うん?」
「俺の気持ち」
 開斗、彼に封筒を渡す。
「?」
「家で見て」
「…」
「じゃあ、行ってくる」
            *
 帰宅後、祐平は封筒を開けた。
「あいつ…」
それは、開斗の名前が記された婚姻届だった。
            *
 3か月後、ウェーブ社長室。
 祐平は、若杉に退職願いを出した。
「悪い冗談は止めろ」
「真面目な話です」
「理由は、何だ?」
「一身上の都合です」
「引抜きか?」
「いいえ。違います」
「…」
「引継と有給休暇消化の都合から、3ヶ月後に退職させて頂きます」
「桜井。ちょっと待て」
「何か?」
「島村の異動への反発か?」
「関係ありません」
 若杉は、眉間に皺を寄せた。
「今夜、空いてるか?」
「はい」
「酒でも飲んで話そう」
            *
 二人の馴染みの居酒屋にて。
「辞めてどうする?」
「好きな事をして過ごします」
「やめろ。勿体ない」
「慰留ですか?」
「当り前だ。お前の抜けた穴は大き過ぎる」
「嬉しいですが、もう決めているので」
 若杉、憮然として酒を呷る。
「ところで昔の事で伺って良いですか?」
「何だ?」
「社長が渋谷で寛人とで偶然会われた件です」
「…」
「香純さんによるとデパートの宝飾品売り場だったそうですね」
「そうだったかな?」
「お一人で宝飾品売り場なんて珍しいですね」
「昔のことだ。忘れたよ」
「寛人たちとは本当に偶然ですか?」
「当り前だろう」
 祐平、酒を飲む。
「実は、ずっと引っ掛かってることがありまして」
「何だ?」
「レオンという店をご存知ですか?」
「レオン?」
「はい。女性もOKのゲイバーです」
「そこが?」
「香純さん。そこを何で知ったんでしょうか?」
「さぁな。テレビか雑誌だろ?」
「彼女、そう言ってませんでしたよ」
「?」
「あなたに連れられて初めて行ったと」
 猪口を持つ若杉の手が止まる。
「彼女の勘違いだろう」
「行かれたことが無いと?」
「勿論」
「…」
「俺はゲイバーに行ったことがない」
「この写真に香純さんと映っている男性は社長と別人ですか?」
「…」
「レオンは現在、シーモアという店に変わっていますが、この写真はその店ママが持っていましてね。彼はレオンの元従業員で、レオンのママから居抜きした店と一緒に写真も譲られました。レオンのママ、少々迷惑な癖がありましてね、自分のタイプの客が来ると一緒に写真を撮るんです。この男性もタイプだから撮られた。シーモアのママもタイプだったから、当時のことをよく覚えていましてね、この男性の名前は…」
「写真の男は俺だよ」
「何故嘘を?」
「人に知られたくなかった。不倫相手とゲイバー遊び。外聞が悪いだろう。あの店へは、香純と行ったのが最初で、最後だ」
「シーモアのママ。そう言ってませんでしたよ」
 祐平、淡々と話を続ける。
「彼女を伴って来る前も何度か、レオンのママが居ない時に一人で来ていたと」
「人違いだろ」
「じゃあ何故、彼が社長の連絡先や名前を知ってるんですか?」
「知らん」
「彼と寝ましたよね」
「おい。何言ってる」
「偽名を使わなかったは迂闊でしたね。いいや、使えなかったかな」
「…」
「香純さんの前で偽名を呼ばれるのは都合悪いし」
 若杉、手酌で酒を飲み続ける。
「メディアで社長を見る度、彼は当時を思い出して悦に浸ってたみたいです」
「違う」
「何が違うのですか?」
「シュンスケとは、そういう関係じゃない」
「シュンスケ。どうして彼の名前をご存知なんですか?」
「…」
「もう隠さなくても良いですよ。全部知ってますから。社長が和雄と名乗ってゲイバーに出入りしていたことや男、女問わず愛人も常に何人かいたこともね。社長、ご存知なかったかもしれませんが、偽名でもあの界隈で結構有名人だったんですよ。だから、色々と調べるのに苦労しませんでした。あと、開斗と関係を持っていた事も知ってます。あいつから直接聞きました。関係は一ヶ月で終わったんですね。あいつとすれば、俺の情報を手に入れるために必要だったみたいで、用が済めば終わりと割り切ってた。でも社長が予想外の執着を見せたので、俺を陥れようとした手段で脅して関係を解消した。違いますか?」
「俺を怒らせたいのか?」
「ゲイを口説けるかって。香純さんをけしかけましたね」
「してない」
「店に寛人が来た日。シュンスケに連絡させましたよね」
「いい加減にしろ」
 若杉のスマホ、メール着信音。
「メール。どうぞ」
 若杉の顔表情に険しさ。
「当時、シュンスケが送ったメールですよね。彼に事情を話したら協力してくれました」
 メールを見つめ続ける若杉。
「そこまでして、俺と寛人の関係を壊したかったんですか?」
祐平、続けて言う。
「俺をロンドンから呼び戻し。俺に開斗を近づけ。俺と縁りを戻した開斗をバンコクへ飛ばした。若杉さん。あなたは一体何がしたいんですか?」
「…」
「俺を、ご自分のモノにする積りでしたか?」
「桜井。誤解だ」
「俺のことが好きなんですよね」
 若杉、酒を呷る。
「30年前、あなたとケリをつけて置けば寛人をあんな目に遭せずに済んだかもしれないと悔やまれます。だから俺は自分もあなたも許せないけど、あなたが俺をロンドンから呼び戻してくれたお陰で止まっていた時が動き出し、寛人との再会も果たせた。だから、あなたに対する気持ちは複雑です」
「俺が素直に気持ちを伝えてたら、どうした?」
 祐平、優しく微笑んで答える。
「断りましたね。上司や先輩として尊敬できても、あなたは恋愛の対象にはなりません。俺のタイプじゃないので」
 若杉、苦笑。
「もう終わりにしませんか。俺や開斗との縁は切って、それぞれの道を進むべき時です。今なら、お互いに嫌な思いをしないで済みます」
「拒んだら?」
「無意味だけど俺と開斗は、あなたを相手に戦いますよ」
「…」
「狩る愛より、共に向き合える愛を大事にされたらどうです」
 祐平、彼の猪口に酒を注ぐ。
「お世話になりました。若杉社長」
 席を立つ祐平に若杉が訊いた。
「シュンスケ。どうして昔のメールを保存してたんだ?」
「さぁ。本人に直接聞いて下さい」
 そして祐平は、立ち去り際に言った。
「シーモア。来月いっぱいで店閉めるそうですよ」
            *
 バンコク、スワンナプーム空港国際国内線到着ロビー。
 4ヶ月振りの再会。
「待たせたな。開斗」
「全部、片付いた?」
 祐平は頷き、開斗を抱く。
「祐平。会いたかった」
            *
 空港ロビーのラウンジ。
「若杉の本性にいつ気づいたんだ?」
「寛人と話して察し、香純さんと話して確信した。シュンスケを問い詰めたら予想通り。ゲイバーのママ連中から呆れるくらい色々な話が出てきたよ。俺がお前と縁りを戻したのは知ってる筈だから、何か仕掛けてくるだろうと思った矢先にお前の異動の打診だった。若杉にしたら体良く厄介払いだったんだろうが、俺には渡りに船だったよ」
「こっちの会社。いつから誘われてたんだ」
「ロンドン時代に一緒に仕事してた奴がバンコクで起業して、ずっと誘われてた。お前と付き合うことになって断ったんだが、それでも誘われ続けた。お前の異動に便乗したわけ。来ると決めたから全部片付けようと思った。仕上げは、若杉に引導渡すことだった。もう、あいつのチャチャは入らないさ。開斗、心配かけてごめんな」
「まったくだよ」
「ところで開斗。本当に俺で良いのか?」
「何が?」
「俺の方が早く歳を取る。惚けて、下の世話の可能性だってある。良いのか?」
「そんな心配か」
「現実問題だからな」
 開斗は笑顔で言った。
「実は俺、介護のプロでさ。父さんで鍛えられたから下の世話も上手いぜ」
 祐平、苦笑。
「俺は祐平に会って自分を変えられた。祐平から多くを学んだし、もっと学びたい。だから祐平、俺と一緒に居てくれないか」
 祐平は封筒を開斗に置いた。
「お前の気持ちへの返答だ」
 開斗は婚姻届受理証明書に絶叫し、彼の頬にキスしながら言った。
「結婚式。いつ挙げる?」



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