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いまさら好きになったって

3月某日午前5時。
向かいのホームから手を振られたとき、無意識に彼女のことを見つめていた自分に気付く。

たった一夜、いや、たった一曲の間に、僕は彼女に恋をしてしまった。

……いや、「恋」というのは少し大げさかもしれない。
ただ、確実に言えるのは、僕は彼女のことが気になっているということと、4月から僕らは離ればなれになるということ。

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彼女は、大学入学時からの友人だ。
学科もサークルも同じというと、少しばかり近すぎる距離感にも聞こえる、実は特別仲がいいというわけではなかった。
たまに彼女の家に集まって家に飲みに行ったり、夏には夜中急に呼び出されて近くの公園では花火をしたり、そんな緩やかな関係だった。

卒業式の日だって、 — 式典はなくなったので、キャンパスに学位記を受け取りに行くだけだったのだが — 昼間に待ち合わせたときは、なんとも思っていなかった。
彼女は、おしゃれなストライプのワンピース姿で待ち合わせ場所にやってきた。何かと大変なご時世だから、袴はキャンセルしたらしい。
いつもの仲良しグループで待ち合わせて、朝までカラオケに行くことになった。

彼女の歌声は、すごく癒される。普段の話し声より、少しだけ細くなって、耳触りがいい。
マイクの持ち方やリズムのとり方が微妙にぎこちない。きっと、あまりカラオケは得意じゃないのだろう。
いつも飄々としている姿とのギャップには、多少グッとくるものはあったが、僕にとってはそれ以上ではなかった。

1時間ぐらい経った頃、彼女が入れたのは、「カラオケでモテる曲ランキング女性ボーカル編」の常連で、キラキラ青春感満天の夏の曲。

その歌を聴いたとき、僕は一発で彼女のことが異性として気になり始めた。

この曲に特別な思い入れがあったわけでもないし、彼女の歌が特別上手かったわけではない。
けれど、なぜか僕の胸は終始ときめき、一生懸命に歌う彼女の姿は僕を釘付けにした。

僕と彼女の関係は、今までとなんら変わっていない。
けれど、僕の中での彼女の存在は、たった一曲の間に劇的に変わってしまった。

明け方、彼女を乗せた電車が走り去るのを見ながら、もう少し一緒にいたかったと思っている自分に驚く。

4月から、僕と彼女は離れてしまう。
もう少し一緒に入られたら、もう一つ先の関係に進めたのかもしれない。
もしかしたら、関係性は変わらなくても、この関係に2人でちょうどいい名前をつけられたのかもしれない。

好きというには曖昧すぎる
恋というには物足りない
けど、友情というには切なすぎる。
そんなあまりにもぼやけた感情だけを残して、僕は新しい土地へと向かった。

あれから数日経ったが、未だにあの曲をなんとなく聴いてしまう。

住むところは離れてしまったが、きっと彼女との付き合いはこれからも続くだろう。
そしたら、またカラオケにでも誘って、あの曲を歌ってもらおう。
僕は、そのあとに君に聴かせる曲を練習しとくから。

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