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『明治国家のこと』司馬遼太郎

司馬遼太郎の言葉を集めたアンソロジー集。

すでに文庫化されている文章の中から、「『翔ぶが如く』『坂の上の雲』から派生する論考と語り」を抽出してまとめたもの。

10年以上前までは、しばらく司馬遼太郎ばかり読んでいた時期がある。「国盗り物語」「太閤記」「燃えよ剣」「竜馬がゆく」「坂の上の雲」、、、。たぶん同じような読書経験をしている人は数多いだろう。

書店でふと目にとまったこの本で、司馬遼太郎のまとまった文章にしばらくぶりに触れた。


やっぱりすごいや。

備忘録として、覚えておきたいところを抜き出しておこう。

 それにしても『坂の上の雲』は長大な作品で、しかも本の最近の事件です。いい加減なことを書くわけにも行かないものですから、非常に神経を使って、ヘトヘトになりました。
 小説というのは本来フィクションなのですが、フィクションを一切禁じて書くことにしたのです。(「フィクションを禁じて書いた作品です」)

『坂の上の雲』について語った言葉。ああ、こういう姿勢で書かれたものなのか。徹底して調べ尽くし、調べ尽くして書かれたという。もう、ありがたく読ませていただくという気持ちになる。


歴史は百年たつとひからびて丁度いい。戦後すぐ戦史編纂をすると、どうしてもなまがわきで、歴史にはならないのです。(「『旅順』から考える」)

直接の関係者がいる間はなかなか客観性を持った記述ができない。歴史的な文書を繙くことの難しさもこういうところにあるんだろう。後から好き勝手書き換えるのも問題だが。

こういうのは文学の役割なんだろうな。


「写生というものは、江戸時代にはなかった。写生とは、物をありのままに見ることである。われわれは物をありのままに見ることが、きわめて少ない民族だ。だから日本はだめなんだ」
身を震わすような革命の精神で思った言葉が写生なのです。
ありのままに物を見れば、必ず具合の悪いことも起きる。怖いことですね。だから観念の方が先に行く。(「松山の子規、東京の漱石」)

正岡子規の言葉を引用し、その考え方や日本への憂いに共感しながら、リアリズムのあり方、大切さを語っている。ほんとうに大事な視点だと思う。


児玉源太郎は歩兵科出身であり、大砲の専門家でもないがゆえに、素人の合理性から決断できたのでしょう。

「素人の合理性」という言葉、非常に端的で、的を得ているなぁ。私のいる組織の中でも、他部門から入ってきたひとの質問ほど問題点をよく指摘していると思うことがしばしばある。

言い換えると、内側からは合理的な判断が難しいということになるかもしれない。そうならないためには、日頃から自分や物事を客観できていないといけない。そういう意識がないと結構難しい。


日本の左翼はその成立の瞬間から日本史をとらえる点でリアリズムを失っていました。そうすると、左翼の反作用として出てきた右翼も同時にリアリズムを失っています。二十世紀のソ連崩壊までのあいだ、我々を非常に惑わしたのはこの左右のイデオロギーでした。

この文章はすごくすっきり腑に落ちた。すごく腑に落ちた。最近の、不毛で違和感しか感じない言論の正体もこれに似たり。


近代国家というのは、明治の日本もそうだったのですが、航海しているんです。芯の疲れることですが、もう歴史がそのように選択してしまったんです。
(中略)
いったん明治元年に国家として出航してしまった以上、我々は常に次なる目標を考えなければいけない。(「日本人の二十世紀」)

変わり続けなければならない宿命。経済社会を見事に言い表している。


徹底して調べて、調べて行き着いたところの思考から紡がれた言葉が、やはり、すごい。

すごいとしか言えない私は、かなり、やばい。


さて、司馬遼太郎をもう一度じっくり読むべき時期が来たかもな。