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虐殺論〜虐殺の条件・その止め方(閲覧注意)

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(今日の話は、かなり過激できつい内容です。気持ち悪くなる人もいると思うので、大丈夫な人だけ読んでください。無理に読まないでください。参考動画はトラウマレベルなので閲覧注意です。それでも虐殺を止めるには虐殺を知る必要があると考え、自分でも気持ち悪くなりながら書きました。目的はあくまで今、世界中で行われている虐殺を止めることです。

ドクチンやマスクのウソには、もう多くの人が気づいてきたように思います。

 しかしそのウソが間違いや過失、あるいは小銭を儲けるためのズルなのか?それとも意図的に人を殺そうとしてやっていることなのか?

 そこはまだ判断できずにいる人が多いのではないでしょうか。

人の歴史は戦争と虐殺の歴史とも言えます。
 古今東西、ヒトはヒトを殺してきました。
ヒトの天敵は菌でもウイルスでもありません。ヒトです。
菌やウイルスは虐殺の道具に過ぎません。
 それは今に始まったことではないのです。
 ヨーロッパ人がアメリカ大陸を侵略した時、天然痘で死んだ人の毛布をネイティブ・アメリカンに贈ったそうです。

今、史上最大の虐殺が進行中です。
 感染症の恐怖を煽って〇〇チンを贈る(売る)というやり方で。

 これが虐殺だと多くの人はまだ気づいていません
 そしてこれから述べるように、それこそが虐殺の特徴なのです。

 虐殺と戦争の違いは何か?

 無抵抗の相手を一方的に殺すのが虐殺。
 抵抗する相手と戦って殺すか殺されるのが戦争です。

虐殺が起こるには条件があります。

 1995年のボスニア内戦においてイスラム系住民に対してユーゴスラビア連邦軍が行なった虐殺を例に説明します。(参考動画:『ボスニア内戦10年目の真実 スレブレニツァ虐殺はなぜ起きたのか?』👇とても凄惨な映像ですので閲覧要注意)

虐殺の条件①油断(正常性バイアス)

虐殺は相手が油断しているところを一方的に攻撃することで成立します。そこにまず必要なのは虐殺される側の存在です。

 虐殺の主体は虐殺する側でしょ⁈

 悪いのは虐殺「する側」、虐殺「される側」は被害者であって悪くない。

 そう考えたくなるのは常識的です。しかし虐殺を防ぐ・止める・終わらせることを目的にした場合、最も役に立たないのが、実は虐殺「する側」を責める発想です。

 虐殺が終わった後で虐殺した側が裁かれることはあります。ボスニアの虐殺でも結果的にはそうなりました。しかし殺された人はかえってきません
シャーロック・ホームズだろうが古畑任三郎だろうが、どんな名探偵・名刑事も起こってしまった殺人事件の被害者を救うことはけしてできません。裁判や刑罰は起こってしまったことの解釈を後付けするだけ。止めることはできないのです。(潜在的な抑止力にはなり得ますが)

 そしてあらゆることに通じるのが、自分が変えられるのは自分だけだということです。
 あなたが虐殺する人なら別です。ぜひあなたが変わって虐殺をやめてください。
 しかしあなたが虐殺しない人なら、あなたが当事者として虐殺を防ぐためにはあなたが虐殺されない人になるしかありません

サファリパークなどで車から出てライオンに食べられたという事件はまれにあります。ムツゴロウさんも指をライオンに食べられたそうです。


食べたライオンが悪いと思いますか? 

 ライオンにお説教したり別のライオンと交代させたりしても意味はありません。そういう生き物の前で油断したら食べられるのです。
ライオンの前で車から降りたり、指を出したりしなければ食べられなかったのです。

 ボスニア内戦で虐殺された都市の市長は、既に街がユーゴスラビア連邦軍の戦車で囲まれているのに「この街で攻撃が始まるとは考えられない」と言っていました。(15:58)

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 虐殺をたまたま生き残った男性が「殺されるに違いない」と言うと隣の男は「そんなはずはない」と答えたそうです。数秒後に殺されました。(44:00~)

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 人の脳には正常性バイアスという機能が備わっていて、自分の常識から外れたことや気に入らないことは思考停止してスルーしやすいようにできています

 今ドクチンやマスクや感染対策が逆効果だという話をしても、多くの人が「そんなはずはない」と考えてしまうのはまさにこの正常性バイアスです。

正常性バイアスに囚われていると、津波にもオレオレ詐欺にもドクチンにもコロッとやられてしまいます。

 平和な生活に慣れていると、平和が当たり前に感じてしまいます。

 いわゆる平和ボケです。

平和を好む人、戦いを嫌う人ほど、戦争に対して思考停止しがちです。そんな悪い人なんていないと思いたがります。

 実はその平和が当たり前という思い込みこそが、虐殺の土台なのです


虐殺の条件②抵抗力の排除

 いくら油断している相手でも、抵抗されれば虐殺はできません(戦いになります)。だからもし相手が気付いても抵抗できないように、虐殺する側はまず抵抗力そのものを奪ってしまおうとします
 ボスニア内戦でユーゴスラビア連邦軍がイスラム系住民を包囲した時、まず武器を全て手放すように説得しました。(37:35)

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 そして後ろ手に縛り、目隠しして、トラックやバスに乗せて連れ去り、一切抵抗できなくした上で虐殺したのです。

抵抗力を奪う段階では、まだなるべく平和的に装います。最もらしい理屈をつけて「武器を手放した方が得だよ」と思わせるところがポイントです。

 宮沢賢治の『注文の多い料理店』でも「料理店」はまず猟銃を置かせ、金属を外させます。その後で少しづつ「料理」を仕上げるのです。

「マスクくらい着けたっていいじゃない」
そう言ってマスクをする人は、抵抗力を奪われていることに気付いていません

人の最大の抵抗力は、思考力と、人と人とがつながる力です。

 マスクをすると体が取り込める酸素が18%減ります。

人間のエネルギーは基本的に酸素で燃焼することによって得られるので、酸素が18%減ると言うことは、脳も身体も使えるエネルギーが18%減るということです。それだけ抵抗する体力も思考力も減るのです。

 笑顔を交わすことや会話すること、新しい人と出会い顔見知りになることも大きな抵抗力になります。マスクは出会いやつながりを奪います。

人と人がつながることは経済力にもつながります。経済力も重要な抵抗力になります。
今回の虐殺で「する側」は、マスクと自粛でまずそれを奪ったのです。

「分割して統治せよ」はローマ帝国以来の植民地支配の鉄則です。まず国際渡航を制限して、各国の人の交流と情報を分断します。そして人の顔をマスクで覆わせ集会を制限することで人々を分断します。
 さらにマスク派・ノーマスク派、〇〇チン派・反〇〇チン派などで国内を分断させてお互いに争わせます
「する側」からすれば、全て抵抗力を奪う手段です。

虐殺の条件③恐怖と誘惑

 虐殺が成立するためには、最後の最後まで抵抗させないことが重要です。相手が最も抵抗しないのは「する側」を自分の「味方」さらには「保護者」だと思い込んでいる場合です。

 ボスニア内戦では、ユーゴスラビア連邦軍はイスラム系住民を「安全区域に送り届ける」と誘惑してトラックやバスに乗せ、そのまま虐殺しました。
 イスラム系住民は恐怖に怯えつつ、自らトラックやバスに乗り込み、そして殺されました。

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 今、世界中の多くの人々がコ○ナの恐怖を煽られ、自ら進んで〇〇チンを打たれています。それが自分や家族を守ってくれるのだと信じて

虐殺の条件④大義名分と同調圧力

 これは虐殺する側が他人を虐殺に参加させるための条件です。自分1人で虐殺する場合は必要ありません。
他人を虐殺に参加させるためには、大義名分が必要です。

 ユーゴスラビア連邦軍のムラジッチ将軍(終身刑)は虐殺作戦に臨んで「セルビア人がイスラム教徒に対しオスマン帝国時代からの恨みをはらすべき時が来たのだ」と言っています。(33:00)

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 本人もユーゴスラビアもイスラム教徒に何の恨みもないくせに、遠い歴史から大義名分を引っ張り出してきたのです。
 虐殺を実行した兵士たちは、後に戦争犯罪を裁く法廷に立たされ、大義名分を与えられ、それが「正しい」ことだと思わされたと同時に、異論を唱えれば自分が「される側」に回される恐怖(同調圧力)を感じていたことを証言しています。

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後から考えれば「馬鹿なことをした」とわかることでも、その時は「正しい」ことをしていて、他に選択肢はなかったと感じるのです。

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 これは今、「高齢者を守るため」という大義名分(実は殺している)のもとに、多くの人が「感染対策」に従い、マスクを着け、子どもにもドクチンを打たせ、従わない人を反〇〇チン派などとレッテル貼りして迫害しているのと同じ仕組みです。
おかしいと思っている人も、自分が迫害される側に回るのが怖くてなかなか言い出せません

 しかし「する側」は最初から参加させた人々も後で殺すつもりです。参考動画の冒頭で、連邦軍兵士は6人を虐殺するのにまず4人を殺し、残る2人は4人の遺体の片付けをさせてから殺しました。(9:37)
 ナチスはアウシュビッツなどユダヤ人の強制収容所で、ユダヤ人収容者の中にも階級をつくり他のユダヤ人を監視させていたそうです。ここでも「分割して統治せよ」の原則が使われています。

 今、おしゃれな二重マスクをしている人やすでにドクチンを接種済みの人には、まだ打っていない人に対して優越感を感じている人もいることでしょう。

 実際は同じ虐殺「される側」なのに、「する側」に優遇されると優越感を感じて従ってしまう。これも悲しい人間の脳の習性です。

 中華人民共和国の基礎を築いた毛沢東は自分に協力してくれた人や同じ中国共産党のメンバーを、利用し尽くした上で次々と殺して行きました。(今の中国の最高指導者習近平の父親も迫害され16年拘束され、習近平本人も4度監獄に入れられながらなんとか生き延びました)

 そうして虐殺される側に虐殺させることは、最も効率のよい虐殺方法と言え、「する側」の常套手段なのです。

虐殺の止め方

 さて、ここからが本題です。虐殺が行われる条件がわかれば、虐殺を止める方法、終わらせる方法がわかります。

虐殺の止め方①生物と歴史に学ぶ

油断せず、いつでも抵抗できる体勢を整えている相手を虐殺はできません。無理にしようとすれば、少なくとも戦争になります。あるいは未然に逃亡・回避できます。

ヒトの天敵はヒト、これは実はヒトに限ったことではありません。

 生物は他に天敵がいる場合は協力して天敵と闘います。

 天敵がいない生物種は必ず自分の種同士で闘います。

ライオン、ヒグマ、コモドドラゴン…強い動物ほど、同種同士の戦いは激しくなります

 なぜなら福岡伸一氏の言うように生物とは動的平衡であれば、強い種が増え続けてしまっては生態系のバランスが保てないからです。

敵がいないなら、自分たちで減らす仕組みが必要になるのです。

 ですから、ヒトに飢饉(ききん)や宇宙人などの外敵が現れない限り、ヒト同士が殺し合うのはある意味必然だと言えます。

 今、多くの人がドクチンを打ってしまう本質には、その生物としての習性があるかもしれないと以前👇お話ししました。

 それを嘆いたり否定したりするのではなく、生物学的に自然なことと捉え、油断なく人と付き合うことで虐殺のみならず多くの犯罪を避けることができます

 もしあなたがヒグマなら、別のヒグマが近づいてきたら決して油断しないでしょう。

 イタリアを旅行する時は、周りにたくさんスリがいると思って事前に準備することで被害を減らせます。

 ピンクレディは「男は狼なのよ、気をつけなさい」と歌っています。

 そんないつも油断せず気を張っていたら疲れちゃう?その通りです。

 だから「あなたが望むなら私何をされてもいいわ」と思える相手にだけは油断してもいいでしょう。

カマキリのオスはメスに食べられる覚悟で交尾に挑みます。

 しかしどこかの製薬会社や大富豪に虐殺される意味などあるでしょうか?
最初は小銭をもらったとしても、結局は虐殺されるのに従いますか?

「そんなはずはない」と思いたいのは先に述べたように正常性バイアスです。

 正常性バイアスから脱却するには、自分の常識を広げることです

津波が自分が住む所まで来た歴史を知っていれば、バイアスに囚われずに避難することができます。

 自分が生まれ育ってきた日本が一昨年まで平和だったとしても、秦の始皇帝からルワンダやユーゴスラビアまで、歴史を学べばヒトは虐殺する生き物であることが「正常」なこととして理解できるようになります。


虐殺の止め方②抵抗手段の確保

 抵抗できないから虐殺されるのですから、抵抗手段を確保しておけば虐殺は防げます。

 抵抗手段とは軍事力や武力に限ったことではありません

 よく誤解されているのは、日本の「平和主義」についてです。

日本国憲法第9条は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と言っていますが、これは日本国民は虐殺されてもかまいません、と言う意味ではもちろんありません

 この条文はもちろん日本の抵抗力を奪うために作られたのですが、実は憲法9条は今現在行われている21世紀の戦争を見越した先進的な条文だったと言えます。

「国権の発動たらない戦争」「武力を行使しない戦争」「国際紛争を解決する手段でない戦争」は憲法9条も否定していないのです。

 屁理屈ではありません。

 ただそれをほとんどの日本人は理解せず、いまだに自衛隊の合憲違憲・集団自衛権・改憲など些末な議論に終始してしまっています。

日本人にそうした不毛な議論をさせておくこと自体、中共やDSの超限戦の一環ではないかと思われます。

 そして今、製薬会社やWHOが中心となって(国権の発動たらず)、ドクチンやマスクを使って(武力を行使せず)、表向きは感染対策、実は人口削減の手段として(国際紛争を解決する手段でなく)、抵抗の意志さえ持てなくされた世界中の人々を虐殺しているのです。

ドクチン戦争は、憲法9条に抵触せずに戦略を立て遂行できます。やろうと思えば日本にだって、WHOやメディアを操り、各国政府に息のかかった人間を送り込んでドクチン戦争を仕掛けることは憲法的には可能だったのです。
現実には日本政府は全く超限戦に備えられず、ここまでほぼ抵抗できていないのは、憲法9条のせいではなく、逆に憲法9条を活かせなかったからだと言えます。

抵抗手段とは、第一に抵抗する意志です。むざむざ殺されない、相手の言うままにならない、従わない意志です。
それを持つことができれば、虐殺を止めることの半分はできたようなものです。
抵抗する意志さえあれば、少なくとも虐殺ではなく戦争になれるからです。

 事実上、全く相手にならずブチ殺されたとしても、虐殺されたのと戦って戦死したのでは全く意味が違います

日本は大東亜戦争に敗れ300万人が殺されましたが、日本という国は残りました。それまで白人と戦わず支配されていた多くのアジア諸国も独立しました

ニュージーランドのマオリ族はイギリス人と戦いました。
30年以上の反乱(というか侵略に対する防衛戦争)を闘い、敗れて植民地となりながらもワイタンギ条約を結んで一定の権利を確保しました。


 一方、平和主義だったチャタム諸島のモリオリ人はマオリ族に虐殺されほぼ絶滅しました。

 抵抗したから殺されないわけではありません。紀元前146年カルタゴはポエニ戦争の後ローマに跡形もなく滅ぼされ虐殺されました。

 ただそれもカルタゴはローマに人質と全ての武器と防具を引き渡した後でした。

 今、世界中の多くの国々で、多くの人々が立ち上がっています。
オーストラリアでは外出も許さない独裁政府の武装した警官隊に人々が立ち向かっています


フランスでは〇〇チンパスポートに抵抗する運動がもう10週間も続いています。


 カナダでは3万3千人の医師たちがワクチン拒否を表明しました。


タンザニア・ハイチ・ブルンジでは大統領が殺されましたが、その意志は国民たちに伝わったのでしょう、ドクチンの接種は進んでいません。

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 私たちにはまだ、マスクを外す手があります。外出する足があります。ドクチンを断る意志があります。お互いに向ける笑顔があります。まだ打たれていない子ども達がいます。

 抵抗する力はまだ残っているのです。


虐殺の止め方③死ぬ覚悟と生きる覚悟

 虐殺する側は「殺すぞ」という恐怖「従った方が得だよ」という誘惑を使って抵抗する意志を奪っていきます。
 いわゆる「アメとムチ」です。


平和ボケした脳では、ほとんどの人がこれに従ってしまいます。
平和ボケするほど人の脳は功利主義的、合理主義的、利己主義的になっていくからです。得する方がいい、目先の利益に飛びつかないのはバカ、自分さえ良ければいい、そういう考えが通用するのは、平和だからです。
国や民族ごと滅ぼされそうになっている時に、今いくら儲かったとか、自分だけ得すればいい、と考える人は「分割して統治」からの虐殺を考えている人にとって都合のいいカモにすぎません。

逆説的ですが、虐殺を止めるには死ぬ覚悟と生きる覚悟が必要です。

たとえ殺されても従わない。自分が死んでも家族や国や何かもっと大切なものを守りぬく。そのために命を使うのが、自分が生きるということ。

そういう覚悟があってはじめて、虐殺「する側」がつきつける恐怖と誘惑に勝つことができるのです。

 ボスニアで包囲されたイスラム系住民の中には、助け合って逃亡した人々もいました。逃げることも立派な抵抗です。1万人が逃げて、逃げ延びたのは4000人ほどだったそうです。(41:30)それでも逃げなければ全員虐殺されたことを思えば、大きな成果です。1万人で逃げたからこそ4000人が助かったのです。6000人の死はただ虐殺されたのとは違います。

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 今、日本人は50%以上がドクチンを打たれてしまいました。ファイザー 元副社長のイードン博士の「打たれた人の平均余命は2年、長くて3年」という証言が真実なら、少なくとも半数の人々はすでに虐殺されたことになります。(世界人口の30%23億人以上がこれから2〜3年で死亡することになることなど、正常性バイアスを知ってもなお到底信じられないでしょう。)

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 それでも助け合って残りの35%を救うことができれば、もしかしたら子孫を繋ぎ、国を保てる可能性はまだ残されているかもしれません
 それには、死ぬ覚悟と生きる覚悟が必要なのです。

虐殺の止め方④生命の大義

 ドクチン戦争は「する側」によって長年にわたって計画され準備されてきた地球人口削減計画です。


 その大義名分は主に3つ、感染対策(人命優先)、地球環境保護(自虐思想)、優生思想(選民思想)です。

 しかし初めに言っておきますが、これは3つともウソっぱちです。

感染対策(人命優先)は、最も表向きの大義名分です。

 ユーゴスラビア内戦は独立を主張したクロアチア・スロベニア・ボスニアなどに住むセルビア人の命を守るという大義名分で行われ、他民族が虐殺されました。(報復にセルビア人も虐殺されました)人命優先という一見当然な大義名分を掲げて、他のあらゆること(抵抗手段)を奪い、しまいには命も奪うのです。

 今、世界は全く恐るるに足らないウイルスに恐怖を煽るマスコミ報道と、高齢者を守るためという心にもない大義名分で、「する側」は感染対策が「正しい」「最優先に守らねばならぬこと」と「される側」にすり込みました
 そして、ドクチンを打たせ、今年5月の日本だけで1万人以上の人が虐殺されたのです。

地球環境保護(自虐思想)は、多くの人の心に数十年以上にわたって刷り込まれてきた大義名分です。地球環境が危ない。地球温暖化で世界が滅ぶ。人類が地球を汚したからだ。人類は地球にとって悪だ。人口を減らさなければならない。どうせなら人類は滅んだ方がいいかも。
 そう刷り込むことで、「する側」は人々に人口が減ることが必要であるかのような錯覚を抱かせ、自尊心を奪いました。
 戦後日本を支配するには「日本は悪い国だから負けた」
 白人が有色人種を支配するには「有色人種は劣った人種だから白人の保護管理が必要だ」
 奴隷を支配するには「(前世で)悪いことをしたから奴隷の身分に生まれた」
 と自虐思想を植え付けたことと同じ手口です。

 この手口は西洋の基本思想である一神教に基づいています。

 旧約聖書はアダムとイブに神との約束を破らせて原罪を背負わせます。新約聖書はイエスを殺すことで原罪を背負わせます。
 これらの経典で育てられた人々にとって生まれながらに「罪深き自分」は幼少期から刷り込まれてた自虐思想なのです。

誇りを失った人は抵抗する意志を失くします
 いじめられっ子は往々にして「自分がダメだから」いじめられるのだと思い込まされ、抵抗する意志を持てません
人類は地球環境を汚す悪と考えている人々は、ドクチンがどんなに有害でも抵抗する意志を持てないでしょう。だって人口が減るのは地球にとって良いことなのだから。

 思い出してください。コ○ナ・ドクチン戦争が始まる少し前、なぜかスウェーデンの少女が国会で人類を罵倒し、最大のCO2排出国である中国は全く批判することなく日本を非難したことを。


優生思想(選民思想)「人類は悪だが、自分だけは特別な人間だから救われる」という大義名分です。
 神に選ばれた・金がある・頭がいい、そんな自分は特別で、異教徒の・貧乏な・バカな奴らの命や財産を奪ってもいいんだ、という考え方になります。

選民思想と自虐思想は表裏一体です。
罪深く、もともと悪である自分だからこそ、何か他の人よりも優れた理由、他の人とは違って自分だけが救われる理由を探すのです。

 そして自分の罪を他の人になすりつけるように他の人を攻撃することには、快感が伴います普段さいなまれている劣等感や罪悪感が、他人を攻撃している時だけ軽くなるのです。

 これは溺れる人が周りの人にしがみつき、よじ登って相手を沈めることで自分は一瞬だけ浮かんで息がつけるようなものです。
 ただその相手が沈んでしまえばまた溺れるので、あわてて次々と別の相手にしがみついていきます。
自分が泳げる人は、誰かを沈めて浮こうとする必要がありません

選民思想に裏打ちされた虐殺は「民族浄化」と呼ばれます。最も汚い行為であるにもかかわらず「きれいにする」かのような言葉が使われるのは、「する側」が「きれい」で「される側」は「汚れ」だと思いたいからです。

マスクは簡単に優生思想を体感するツールとなりました。マスクしている俺は偉いから、マスクしてない悪い奴を攻撃していいその時だけ自分は優位に立てる。そんな快感に酔いしれているマスクチンピラが時々います。

 子どもにも「ちゃんとマスクして偉いね、良い子だね」などと教え込みます。
逆に言えば「マスクしてない素顔のお前は偉くない」「素顔のお前は悪い子だ」と教えているのです。

人命優先・自虐思想・優生思想の3つの大義名分は古来、一神教の宗教が人々を支配しコントロールするために用いられてきました。

 信じる者は救われる、天国で永遠の命を授かる。逆に言えば信じない者は救われず、地獄で永遠に苦しめられるという脅しです。

 はじめは「感染対策」を信じる者はコ○ナにかからないと言い、信じない者はなんの症状もなくても周りの人に感染させるバイキン扱いにするのと同じです。

 ところがいざ信じてみると、全ての人は原罪を持って生まれる邪悪な存在だと言われ、常に悔い改めて神に許しを乞い続けねばなりません
どんなに感染対策してもドクチンを打ってもマスクは外せず、自由はどんどん制限され、何度もドクチンを打たされ続けます。それでもかかった人は「気の緩み」(=信心が足りない)と非難されるのです。

 それでも「正しい」神を信じ洗礼を受けた自分は選民であり、そうでない異教徒は魔女だから攻撃していい、いや攻撃しなくてはならない。改宗か剣か。これは聖戦なのだと言われ、鬱憤を晴らすように異教徒に何でもやります。
 マスクしてドクチンを2回打った自分は偉い。してない悪い奴らは攻撃して、打たせて自分が苦しんだ副反応を味わせるか、さもなくばドクチンパスポートで生活できなくしてやる、と言うのと同じです。

いわゆるキリストの生誕から西暦で数えられる西洋の歴史は、一神教がこれらの大義名分を使って虐殺しながら世界を支配してきた過程とも言えます。

 ただしこれは西洋の白人社会の特徴であり、決して人類普遍の真理ではありません

日本神話で、人に原罪はありません。強いて言えば神代の時代、イザナギがイザナミとの約束を破って黄泉の国の御殿の奥を覗いてしまったことですが、イザナギは黄泉の国から地上に帰ってくるだけで楽園を追われたりはしません。(人でもないし)
 怒ったイザナミが「1日に1000人殺してやる」と言うのにイザナギは「じゃあ俺は1日に1500人生まれるようにするよ」と言い返す、なんとも力強く壮大な日本初の夫婦喧嘩です。

 後に天孫降臨で高天原から高千穂に降り立った最初の日本人ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)オオヤマツミノカミ(大山津見神)から2人の娘を嫁に差し出されましたが、醜いイワナガヒメ(石長比売)を送り返して美しいコノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)だけを妻としました。それによって天孫の子孫(人間)の命は木の花のように短くなってしまいましたが、ニニギノミコトは最初に出会って惚れたコノハナノサクヤビメへの一途な思いを貫いたのです。
 つまり、日本人は最初から人命優先ではなかったのです。

原罪がありませんから、日本人は無駄な自虐思想や罪悪感に苦しむ必要はありませんでした。
 万葉集、山上憶良の

『銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに 勝れる宝子に及(し)かめやも』

 の歌に象徴されるように子は宝であり何より大切なものでした。

 子どもは矯正が必要な悪いものと考え、2000年まで学校で子どもをムチで叩いて教育していたイギリスとは対照的です。


 もちろん日本にも体罰や児童虐待や貧しさゆえの「はないちもんめ」の児童売買など色々あったのですが、あくまで一般論としての基本思想では子どもに原罪を刷り込むようなことはなかったのです。
 それは優生思想にしがみつく必要もなかったということです。
 仏教が南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも救われると説いた一向宗(浄土真宗)に代表されるようなとてもフラットな形に進化したのも、そんな日本だったからと思われます。

 今でも日本人は世界の中では最も国や人種によって人を差別しない民族の一つではないかと思います。(向こうから敵対してくる国や人は別です)

 日本では、結核の正岡子規を妹の律が献身的に看病したように、感染症の人も毛嫌いせずに面倒見ました。
伊達政宗(天然痘)大谷吉継(ハンセン病?梅毒?)のように感染症を患って見た目にそれがわかっても、立派に大名として生きられました。


癩(らい)予防法などで公けに差別隔離するようになったのは西洋文化と優生思想が入ってきた明治以降のことです。

日本人にとって地球環境とはともに生きるものであり、神々そのものであり、ご先祖であり子孫であり、自分もその一部でした

環境を、保護する?

なんとおこがましい発想でしょう?人類は地球環境の主人であり管理者であり保護者、そう思っているからこそ出る言葉です。そんな奢った考えは日本人はしてきませんでした。
自然の恵み、神々の恵みを、ありがたくいただいてきたのです。
 だからこそ仰々しく環境保護なんて言わなくても、御先祖の皆様は子々孫々まで恵みが途絶えないように糞尿まで循環させる社会をつくってきたのです。


一神教社会の大義名分は全て人を支配するために用いてきた建て前であり、偽りです。

 西洋列強諸国は、
人命優先を唱えながら、虐殺と戦争を繰り返してきました。
環境保護(自虐思想)を唱えながら、環境を最も破壊してきました。
優生思想(選民思想)に至っては、もはや憐れとしか言えません。自分たちが作った自虐思想に溺れもがいているのですから。

 ボスニア紛争を含むユーゴスラビア紛争を主導し虐殺の主犯とされた元ユーゴスラビア大統領ミロシェビッチ(獄死)は、父は家族を棄て、母も伯父も自殺した家庭の子でした。そして一神教よりさらに憎悪に満ちた共産主義に傾倒していきました。


 歴史上最も多くの人を虐殺した人物とされる毛沢東スターリンは、いずれも幼少期に父親の暴力に苦しめられたそうです。

一神教から、唯一神のタガを外したのが共産主義です。共産主義は以前👇述べたように嫉妬と憎しみを中心的感情とし、虐殺を繰り返すように運命づけられた思想です。今このドクチン虐殺も、共産主義が「する側」の中心にいます。

今この虐殺を主導している人々にも、憐むべき過去があるでしょう。もちろん、だからといって虐殺させていいわけではありません。ただ「虐殺する側」にいるのは、彼らが強くて正しいからではない、というだけのことです。

 日本神話を例に挙げましたが、日本人が持つ感覚は決して日本人特有のものではなく、人類だけでもなく、あらゆる生物が普遍的に持つものだろうと私は考えています。
 一神教の洗脳支配が邪魔してそれを感じにくくしているだけで、人は本来他の生物と同様に、命を繋いで生きる覚悟と死ぬ覚悟を持ち、自虐思想も優生思想も必要ないのです。

 ボスニア紛争では、ボスニアの多民族国家を支持する市民が立ち上がり、ボスニアに住むセルビア人も参加して、戦争に反対し(11:30)、首都サラエボに侵攻してきたセルビア人勢力であるユーゴスラビア連邦軍に立ち向かいました。(24:20)

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 そこには民族も宗教も、もちろん金銭的利害などはるかに超えた意志があったはずです。

生きることはもっとシンプルかつ多様なのです。
 どの唯一神でもなく、唯物論でもなく、皆が生きようとしている。すべてに命がある。すべてに心があり神が宿っている。
(言うなれば『皆心論』『皆神論』です)

そんな目の前の明確な事実に、一神教や共産主義の色眼鏡を外して見れば誰もが気づくはずです。

生きよう。命を繋ごう。そうする人々にとって「虐殺する側」は間違いなく共通の敵です。

共通の敵がいる時、人は協力して闘えます。

 そこには偽りの大義名分ではなく、生命の大義そのものがあるのです。

 だから私たちはともに「虐殺する側」と闘えます。

そう決意して立ち上がれば、少なくとも虐殺されることはありません。戦って死んだなら戦死です。もちろん戦って生き残れたなら、それが最高です。

 戦争反対?もう始まっているのです。現在進行形で侵略されているのです。

 この期に及んでは虐殺されるか、戦うかのどちらかなのです。

 いずれにしても、このまま息苦しいマスクで顔を隠させられたまま黙ってドクチンを打たされ続けて死んでいくより、微力でも戦って死ぬ方がずっといい生き方であり、死に方ではないでしょうか?

 ...と思うのは...私だけ?...じゃないといいなぁ。

追記)セルビアを悪者にする映像は捏造との話もあり、スプレニッツァ虐殺もアメリカによる誘導だったとのことです。

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