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志本論

 序 

 この文章の目的は、資本主義・共産主義に代わる新しい思想を提案することだ。

 資本主義は限界に来ていると言われて久しい。
 ではなぜ続いてしまうのか?
 代わりの「主義」がないからだ。
 社会主義も共産主義も資本主義に取って代わろうとしたかに見えて実は資本主義をより原理主義化したものであることは、ロシア(ソ連)や中国が実証している。

 そもそも「思想」とは何か?


 おそらくイデオロギー(ideology)の訳語であろう。idea(=アイデア・考え)logic(=論理)の合わさった言葉だ。人が何を考え、どういう論理で世界を観て行動するのか?それが思想だ。
 多くの人がどんな思想を共有しているかによって社会の成り立ちが決まる。

 では「主義」とは何か?

 英語「ism」を「主義」と訳したのは福沢諭吉だろうか?
 本質を見事に捉えた名訳である。
 「主義」とは、「主」たる「義」、「義」とは「意義」「意味を持つもの」「価値」のことだ。
 「主義」とは「主たる価値」「第一に価値を置くこと」を意味している。

 人間には、価値観がある。価値観とは、価値を置く物の順位付けだ。
 人が価値を置くものは一つではない。
 少し自分が価値を置いているものを挙げてみてほしい。
 家族、命、健康、お金、仕事、友人、恋人、国、趣味、車、楽器、たくさんあるだろう。
 そのうち、1番大切なものはなんだろう?
 それがあなたの人生におけるあらゆる行動を決定づける。

 仕事が1番で家族が2番の人と、家族が1番で仕事が2番の人の生き方は全く違う。

 それは社会も同様である。 

 資本主義とは「資本」即ちお金、特に事業の元手となるお金に第一の価値を置く考え方・世界観のことだ。

 社会主義とは、「社会」(の「平等」という建前)に第一の価値を置く考え方

 共産主義とは、事実上「共産党」に第一の価値を置く考え方だ。(共産主義者は違うと言うかもしれないが)

 そう考えると、資本主義がうまくいかないことなど初めから明らかだ。
 カネゴン(お金を食べる怪獣)じゃあるまいし、お金第一で生きている人など本当はいないから。(もし本当にそういう人がいたら、1円やるから角に頭をぶつけてくれ)

 命や家族をはじめ、お金以上の価値を持つものはいくらでもある。
 より大切なものを養い、守り、楽しませるためにお金を使う。(お金が一番大切なら一生何も買わないはずだ)
 お金はあくまでも道具、価値あるものとの引換券であり、社会のエネルギーを流す伝達システムに過ぎないのだ。(そもそもお金は誰のものでもない。だから名前を書いてもダメだ)

 ではなぜ資本主義者はお金が第一だと勘違いしてしまったのだろうか?

 人が感情の生き物だからである。


 人は感情に基づいて思考する。
 脳の構造から言って、感情が先で思考は後なのだ。
 動物は体が先に進化し、生命を維持する脳幹や感情を司る旧皮質が先にでき、最後に思考を司る新皮質や前頭葉ができた。

 思考は後付けなのだ。
 思考を司る大脳は感情に言い訳をつけるに過ぎない。
 人を好きになった理由はいくらでも後付けできる。
 しかし理由をいくら考えても人を好きになることはできない。
 子どもを持つ理由・持たない理由を考えることはできる。
 しかしいくら考えても子どもはできない。

 主義思想には、それが生まれた背景として必ず中心的な感情がある。


 言うなれば主義思想はあくまで感情に対する脳の言い訳を体系化したものに過ぎない。

 資本主義の中心的な感情は「欠乏」である。

 それは「貧困」への「恐怖」、他者への「不信」「怒り」「敵意」「憎悪」からなる。

 感情は何からつくられるか?
 身体がした経験、すなわち体験とその記憶である。

 あなたはケーキを見てなぜ嬉しいのか?以前にケーキと嬉しいこと(おいしさやお祝いをされた経験)を関連づけて記憶しているからだ。

 現代資本主義をつくりあげ支配しているのはユダヤ人と言われる。
 ユダヤ人の歴史を少しでも知っていれば、その過酷さ壮絶さは説明するまでもないだろう。
 旧約聖書にあるアダムとイブの息子たちカインとアベルの兄弟殺しに始まり、戦争、内乱、国家の滅亡・奴隷化、預言者処刑、流浪、差別、ゲットーへの隔離、そして虐殺。
 その体験がどれだけの「欠乏」「恐怖」「怒り」「憎悪」の感情をもたらしたかは想像を絶する。
 彼らにとってはお金だけが唯一の生きる手段であり、頼れる神であったのだ。

 彼らの「欠乏」感情に基づいて、お金を第一とするシステムが作られ、それはあたかも独自の人格を持った巨大生物のように動きはじめた。
 「法人」あるいは「企業」さらには国家自体がお金第一の価値観でうごめき、命も顧みずに弱肉強食を繰り返す。それが資本主義社会だ。

 一方、社会主義・共産主義の中心的感情は「嫉妬」である。

 資本家への嫉妬、自分より裕福な隣人への嫉妬。

「あいつは俺より持ってる、ズルイ!」

 世界各国の共産党はその感情を利用する。

 嫉妬の根源には、やはり「欠乏」と「不信」がある。
 嫉妬はたやすく最も凶悪な「憎悪」に変わる。
 自分の貧しさは豊かな者のせいだという責任転嫁によって階級闘争を呼びかける。
 社会主義は「社会」に価値を置いているわけではない。
 社会の「平等」を建前に、資本家を攻撃して富を強奪したかっただけである。
 社会主義者・共産主義者が望んでいるのは「平等」なんかではない。
 「平等」を建前に、自分より富める者を引きずり下ろしたいだけである。
 ソ連のスターリンの粛清、カンボジアのポルポトの大虐殺、中国の毛沢東による文化大革命、嫉妬は憎しみに変わり、社会主義を名乗る国家の施政者は虐殺と同士討ちを繰り返すのは当然の成り行きといえる。

 金持ち憎しを第一価値におくことは、結局お金第一主義の裏返しである。

 共産党独裁の中国が世界で最も資本主義化したこともまた必然と言える。

 中国の歴史を見てみよう。歴史が始まってから現代の天安門、ウイグル自治区に至るまで虐殺の繰り返しである。
 日本でも人気の三国時代には、なんと人口が7~9割減少したと言われる。


 そんな歴史を繰り返して生き抜いてきた人々の記憶と感情が現在の中国を作っている。
 
 共産主義の創始者マルクスが唱えた共産主義の歴史観を唯物史観というが、これは経済だけが社会行動の原理であると考える唯金史観であり、元より一面的で狭量な見方に過ぎない。

 さて、お金が第一の価値でないことを知っているのに資本主義社会に生きている私たちは、常に違和感を感じている。

 本当はもっと大切なものがあると誰もが知っているのに、お金を一番にして生活しなくてはならないような気がしている。

 好きな人と仲よくするより、お金持ちにスリ寄ってしまう。
 家族といる時間よりも、お金を稼ぐ時間を大切にしてしまう。
 本当はやりたいことを、お金のために我慢してしまう。
 本当はやりたくないことを、お金のためにしてしまう。

 その違和感はますます「欠乏」「不信」「怒り」「敵意」「恐怖」「嫉妬」「憎悪」といった感情を呼び起こし、人を資本主義の泥沼に引きずりこむ。

「グヘヘヘヘ、どうせ世の中金・金・金だぜ〜!」

 ってな感じに。

 ズバリ言って、そういう人ほど「貧しい」「セコい」。
 小銭のために犯罪を犯したり、議員になって政務調査費をちょろまかしたり、贈収賄に絡んだりするのはそんな人だ。
 そういう人はいくらお金を手にしたとしても決して豊かにはならない。
 逆にお金が増えるほどに貧しくなるばかりである。
 
 お金は道具・引換券だ。使い方がわからなければ持ってもダメだ。

 十五の夜に盗んだバイクで走り出した中学生は、すぐ事故って運ばれる。
 四十五の夜に企んだカジノで金もらった国会議員も、ろくなことにはならない。

 みんなもうわかってる。
 それじゃダメじゃんて。
 資本主義ダメダメじゃんて。

 しかし次の「主義」が見つけられない。
 それは「欠乏」感情とその元となる記憶から抜けられないから。感情が変わらなければ、主義思想は変わらない。もっと大切な感情に気づいた時、もっと大切な感情を体験した時、自動的に主義思想は変わる。

 社会とは人と人が関係を持つことでつくられる。
 基本は2人の人だ。2人いることで間ができ、お互いが人間となる。
 その時、お互いがどういう感情で相手と関係するかによって主義が決まる。
 欠乏感情で
「こいつからいくら取れるかな?」
 と考えれば資本主義になる。
 嫉妬感情で
「こいつ俺より持ってるな?ずるくね?」
 と考えれば共産主義になる。

 主義思想はあらゆる人の行動と関係に反映される。

 例えば何かを買う時、値段で選ぶなら資本主義だ。皆と同じものが欲しいと考えれば社会主義、あいつが持ってるものが妬ましいから買うなら共産主義だ。

 どれも否定はしない。
 そういう感情になる人はいるだろうし、なる時もあるだろう。
 だがそういう人と好んで関係を築きたいとはあまり思わないだろう。
 ならば私たちは、どういう感情で人と関係を築いているだろう?
 どういう感情を持った人となら、関係を築きたいと思うだろう?

 そんなの色々だ、愛情かもしれない、友情かもしれない、興味かもしれない、楽しさかもしれない。
 じゃあ、色々主義?
 それはちょっと曖昧すぎるから、もう少し考えよう。

 関係を築きたくなる感情には、共通点がある。

 まずあなたが気持ち良い感情になることだ。
 あなたが気持ち良い感情になるのは、どんな相手との関係だろう。

 それは、あなたが相手の幸せを願っている関係だ。
 そして、相手もあなたの幸せを願っている関係だ。

 自分が何を願っているか?
 そして相手が何を願っているか?それが関係を築く時に、最も大切なこと。
 何を願い、何を目指しているか?
 それを一般には意図という。
 
 意図、糸、「いとおかし」の「いと」、そして愛しの「いと」。

 日本語の発音的に、とても根源的で重要なものを意味する言葉だ。
 
 そのままでもいいのだが、もう少しかっこつけた言葉に『志』(こころざし)がある。
 元々は『心指し』、心が指し示している方向という意味だ。

 さらに関係を築く元手という意味を込めて『志本』(しほん)と呼んでみる。
 事業を始める時、必要なものはなんだろう?

 資本金、確かに。

 しかし資本金がいくらあっても、志がなくては事業は始まらない。
 どっちが先だろう?

 資本金があるから志を探すのか?
 志があるから資本金を集めるのか?

 2人の関係に『志』は大袈裟なようだが、基本的には同じことだ。
 お互いがどういうつもりで関係を築こうとしているのか?
 その『志本』次第で関係は全く違う。
 資本にも性質(誰から?どこから?)と額があるように、『志本』にも質と量(強さ)がある。

 中国を初めて統一した秦の始皇帝は、韓非子を採用していた。韓非子は性悪説で人の本質は悪と割り切り、法の支配と実利を説いた。

 その秦は15年で滅んだ。
 滅した反乱軍の中心人物である項(籍)羽は子どもの頃、始皇帝の行列を見て
「彼取って代わるべきなり」(あいつに取って代わってやる)
 と言った。その項羽を倒して漢を建てた劉邦は同じように始皇帝の行列を見て
「ああ大丈夫かくのごとく」(ああ男はこうならなきゃなあ)

 と言ったそうだ。


  言い方は違えど、嫉妬の感情が志だったことがわかる。
  感情的・思想的に中国は歴史の初めから嫉妬中心の共産主義であったのだ。

  そして中国は現在に至るまで、何度も革命と虐殺を繰り返している。
  志の通りに。

 一方、日本の初代神武天皇となる神倭伊波礼毘古尊(カムヤマトイハレビコノミコト )が東征を始める前にした問いかけは

「いったいどこへ行けば平和に天下を治めることができるでしょうか?」

 であった。戦争の多かった弥生時代を悲しみ、平和な国にしたい、皆を幸せにしたい、という思いが日本という国をつくる志だったのだ。

 神倭伊波礼毘古尊(カムヤマトイハレビコノミコト )はわずかな戦争はありつつも主に話し合いと縁組によって国をまとめた。
  
 日本書紀にある建国の詔には「六合を兼ねて都を開き八紘をおおいていえ(宇)とな(為)さむことまたよろこばしからずや」(日本全体を家として、皆が家族として協力して幸せになろう)とある。

 日本はその建国の志から国民を幸せにすることであり、民主主義であり平和主義なのだ。
 その志は「天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず」と言った徳川家康、さらに現代の日本国憲法に通じる。

 そんな日本は世界で最も長く続く国家となっている。

 数千年にわたってその国の成り立ち・歴史・国民の生き方を決定づけてしまうほど、志とは大切なものなのだ。

 社会の基礎である2人の関係でも同様である。
 相手を幸せにしたいと志して結婚するのと、相手のお金目当てで結婚するのではその関係は全く異なるものになる。

 仕事でも同様である。
 何らかの価値を提供して人に喜んでもらおうとする志のある仕事(仕える事、奉仕する事)と、ただお金のためにするビジネス・ジョブ(businessってただのbusy[忙しい]ness[こと]だよ)は全く違うものになる。

 2人の関係を始める時も、仕事をする相手を決める時も、国を建てるときも、社会における全ての関係においても、最も重要なのは、相手が初めから持っている意図、すなわち『志』ということになる。

 志を第一価値とする考え方・価値観・思想を『志本主義』、読みが資本主義と同じなので『こころざしのしほんしゅぎ』と呼ぼう。

 資本主義者も社会主義者も共産主義者も志を持つ。彼らの行動も志本主義的に説明することができる。その意味で志本主義はそれらを包括している。彼らの志ゆえに彼らが破綻することも予見される。

 また志本主義的に考えれば、それら低レベルの志を持つ人・組織・国と関係を持つことは好ましくないことがわかる。 
 志本主義者は、より高い志を持った人・組織・国と、お互いを幸せにする志を持った関係を築こうとする。

 高い志を持った人は、例えば買い物なら、何を誰から買えば、自分を、大切な人を、社会を、売ってくれる人をより幸せにできるか?と考えるだろう。

 志本主義の中心的感情は、愛である。

 相手を、子どもを、自分を、社会を、国を、世界を、宇宙を、神々を、愛おしく感じること、誰かを愛し愛された温もりの体験が志本主義の源である。

 神武天皇の志に共感してまとまっていった日本という国は、その建国の時点では志本主義であったことがわかる。

 なぜ当時の日本は志本主義になれたのか?
 そしてなぜこれから世界は志本主義に向かうのか?

 それはまた次回。

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