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連載 東京五輪 返上 廃止へ③/五輪の知的・経済的利権が飯の種に/「オリンピズム」称揚する 五輪「ムラ」/神戸大学大学院国際文化学研究科教授 小笠原 博毅

 5月21日、IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長は、一年延期となった東京オリンピック/パラリンピックが2021年に開催不可能な場合、中止する見込みを明らかにした。
 新型コロナウイルスによる肺炎の、世界規模での終息が予想不能なことを受けての見解だった。五輪の相対的地位の低下を防げるかどうかの実験期間が、はっきり1年と決められたわけである。
 さて、近代五輪はさまざまな反対運動とのせめぎあいの歴史でもある。現在進行形の東京もそうだし、デンヴァーやバンクーヴァーの運動についても本連載で触れてきた。
 一言で反対運動と言っても、大会や都市、当該の運営の仕方に限った反対もあれば、五輪という仕組みと催し自体に対して原理的に反対を訴えるものがある。後者よりも前者が圧倒的に優勢なことは否定できない。両者の最大の溝は、五輪の本義の捉え方の違いにある。
 前者の立場の拠りどころが「五輪憲章」であり、そのイデオロギーが「オリンピズム」だ。オリンピズムのエッセンスは、「競技を通じた国際交流の継続的進展」であり、五輪自体の原理的否定はその理想をも断念するものだというのが、前者、つまりおおむね支配的な「どうせやるなら」派の共通理解だ。
 とはいえ、ここまで五輪の商業化とスペクタクル化が進んでしまったのもいかがなものかと、五輪の適正化―その標準点がオリンピズム―を図る動きが顕著である。
 当然このような動きは、IOC方針と全く矛盾しない。それどころか、IOCは2014年の総会で、「オリンピック・アジェンダ2020―20+20提言」という改革案をぶち上げている。「どうせやるなら」派は、IOCの自浄作用を支持し、それに期待しているのである。
 「アジェンダ2020」は、東京大会以降のパリとロサンゼルスの夏季大会、北京冬季大会を、国家とグローバル資本に翻弄されすぎないよう、批判的に検討する際の指針となることを期待されている。日本のスポーツ関連の研究者(歴史家、社会学、生理学、コーチ学、マネージメントなど)、ジャーナリスト、ライターがおおむねこの「アジェンダ」を支持しているのには、理由がある。知的利権だ。
 五輪の政治経済的利権化を批判し、あくまでも「適正化」を訴える人々こそが、五輪を知的利権の資源としている人々なのだ。単純である。五輪がなくなってしまっては飯の種が消えることを危惧しているからだ。
 だから産官学一体となって「オリンピズム」を称揚し、独自の利益共同体を作り上げている。

「五輪ムラ」と「原子力ムラ」利権むさぼる同質性

 知的利権は、当然経済的利権と密接につながっている。代表レベルのアスリートを抱えてスポーツ研究の拠点となっている大学には、多額の助成金が下りる。助成金を含めた「外部資金」は、研究設備やトレーニング環境を充実させ、求められる研究成果にはさらなる経済的援助が約束される。成功者は、「成果」と引き換えに与えられる「旨味」から抜け出せなくなるのである。
 五輪「ムラ」の成立だ。構造的には原子力「ムラ」と同じだ。安全が保証されれば原子力の平和利用は必要であり、原発があるから成り立つ地域経済と暮らしがあると説き、説得性を持たせるために安全神話の構築のために汗水たらしてきた、「ムラ」役人と同じような五輪「ムラ」の世話役がいるのである。
 この「ムラ」人たちは、スポーツを信じすぎ、すがっている。だからこその知的利権だが、その信じ方が中途半端なのだ。スポーツをほぼ五輪と同義に考えているからである。あるスポーツ競技の究極に五輪があると考えたいのだ。そうすることで、スポーツが知的対象として正当に取り扱われることを望んでいるのである。そして、そのスポーツを扱う自らの社会的立場も、正当に取り扱われることも望んでいる。
 だから、矛盾や混乱はあれど、オリンピズムを否定したらその理想を実現する可能性も失われてしまうと、「ムラ」人は言うだろう。だが、もう120年間も続けてきて無理なのだ。4〜5世代続いてきても、理想の実現などできていないのである。
 血と火薬の匂いにむせ返る戦場でも、国によって裂かれた敵味方を超えた交流の物語はたくさん生まれてきた。おぞましい内戦の現場でも、一時の友情を育む出来事はたくさんあった。だから交流と友情のために戦場へ向かえと言うのだろうか?「オリンピズム」を盾にするのは、それと同じことではないのか。
 「五輪は平和の祭典だから戦争とは真逆である」。このイデオロギーの背後で、巨額の資金が動き、関連する経済活動が活発化し、利益を得るものが生まれ、「国民」が再構築される。
 アスリートは興奮と疲弊の狭間で慄き、税金が動員され、日常生活が制限されて、市民は高揚感と陶酔感に幻惑されるものと、命と生活を犠牲にするものとに分断される。 戦争とあまり変わらないではないか。やはり五輪は廃止すべきだ。

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