見出し画像

映画『ゲバルトの杜』批評 虚偽と歪曲に満ちた代島「内ゲバ」史観

元革共同 水谷保孝

注…本紙5月20日号掲載の本記事に、著者の校正を反映できていない部分があったため、全て反映したものを掲載します。水谷さん、読者の皆様にわびします。(編集部)

5月25日から一般公開される代島治彦監督の映画『ゲバルトの杜――彼は早稲田で死んだ』が、賛否を呼んでいる。「学生運動の負の側面=内ゲバを描いた」という評価の一方、「事実から逸脱し、警察・大学当局の目線そのもの」と批判もされる。
 そんな中で、後年に早稲田を卒業した編集部関係者から、本作の批評の提案が出た。「内ゲバは肯定できないが、それは当たり前の事で、その先が大事だと思う。本作の構成は、結局今の大学管理体制の肯定にしかなっていない。川口君事件は、その開始になる重要な事件だ。早大では革マルの大学支配が続き、多くの学生が政治や運動そのものが嫌いになる。ノンセクトも弾圧され続けた。大学の脱政治化の端緒だ。それこそ早稲田大学当局も(無意識的に)狙っていることだ。川口君事件の時には、リンチされている時に大学事務局にも連絡が入ったそうだが無視されたそうだ」とのことだ。
 そこで事件に近い人からの批判を掲載するため、70年安保闘争のDⅤD『i怒りをうたえ』上映会でご一緒した水谷氏に、原稿依頼をした。(編集部)

 1972年11月8日、早稲田大学2年生の川口大三郎君が革マル派によって拉致・監禁・リンチ・殺害された。川口君虐殺に対し、WAC(早大全学行動委員会)を先頭に、数千・万余の早大生が全学部で立ちあがった。
 同映画は、川口君リンチ殺害状況を、「当時の資料をもとに」「想像力をたくましくして」(『創』5月号代島氏インタビュー)、鴻上尚史氏が脚本・監督した短編劇(16分)が冒頭にある。途中でリンチ・殺害場面が繰り返し流れ、最後も同場面だ。この短編劇が映画の基軸とされ、当時の早大生の証言や、元革マル派の語りなどが配置される。
 異様なのは映画の最後だ。激しいリンチを受け、息絶える劇中の川口君の姿に被せ、虐殺側の佐竹実の自己批判書全文の朗読音声が長々と流れる。
 逮捕され、ほぼ全面自供した佐竹(革マル派一文自治会書記長)が、警察管理下で書いた自己批判書。それが虐殺行為への禊ぎとされている。

 だが川口君の虐殺は、革マル派中枢の根本仁と藤原隆義の指示・同意のもと、村上文男(二文)を現場責任者とした。同派はそれを隠し、「一部の未熟分子の行為」にすり替えた。映画の朗読はそれを追従している。また「社会的責任」の名のもとに、労働者人民が暴力行使すること自体を否定する、警察の論理でもある。
 しかもリーダー(村上がモデル)が、「おい、川口」と繰り返し叫ぶ声を、鴻上氏が「鎮魂歌みたいでしたね」と語る。それこそ虐殺の免罪ではないか。未だに革マル派組織および佐竹、水津則子、村上ら虐殺実行者は、誰も早稲田の暴力支配と川口君虐殺への自己批判も謝罪もしていないのだ。
 よって本作は「内ゲバ検証」の映画になっていない。両監督が単に内ゲバを映画の題材にし、「川口事件」をその「入口」(代島氏の言)として利用しただけだ。だがそれは実は、中核vs革マル戦争を真正面に据えていないことの証左だ。

 代島氏の「内ゲバ」論は、中核vs革マル戦争の死者が出たケースだけを「内ゲバ」とする誤りを犯している。代島氏は、革マル派による数多の組織的・計画的なテロ――早大内での他党派・無党派活動家への数々のリンチ、東大安田講堂防衛戦からの敵前逃亡、三里塚野戦病院車への襲撃、破防法弁護団への襲撃、東京・杉並区民へのナーバス作戦、国鉄当局と結託した動労革マル派の暴力支配――などを隠ぺいしている。
 「権力は中核派の首根っこを押さえているが、わが革マル派は下の急所を握っている」と、警察=カクマル連合を公言した事が不問に付されている。
 革マル派の「革命」とは、「権力と闘う他党派を背後から襲撃・解体する」ことと、「党首・黒田寛一を神とする組織づくりの自己目的化」だ。
 67年羽田闘争の「十・八救援会」以来、今日も営々と活動する救援連絡センターは、革マル派を救援の対象としない。その理由を、代島氏・鴻上氏は考えたことがないのか。
 本作は他面では、私たち中核派のテロル行使の必然性や幾つかの誤りの検証もやっていない。

 虚偽と歪曲に満ちた代島「内ゲバ」史観は、警察の反過激派プロパガンダに似ている。

【お願い】人民新聞は広告に頼らず新聞を運営しています。ですから、みなさまからのサポートが欠かせません。よりよい紙面づくりのために、100円からご協力お願いします。