依存症について思うこと

トラウマと依存症の専門家、ガボール・マテ博士のTEDトーク「依存の力、力への依存」を見た。他にもいくつかガボール・マテ博士のトークを見たのだけれど、そこで語られていたこととその感想をここで述べたいと思う。

依存症とは、それが長期的には自分にとってダメージを与えると知りながらそれを止めることができないことだと博士は言う。一般的なアルコールや煙草やドラッグだけでなく、買い物やゲームや、SNSやセックスなども依存症になるし、「社会から尊敬される」依存症もあるという。仕事依存もその一つ。

彼の場合は医者の仕事は依存症だったと言っていた。忙しくて人から尊敬されるような仕事をして、有名にもなったけれど、家庭を置き去りにして、子どもと一緒に時間を過ごさず、暇があればクラシックの音楽にはまってCDを探しに外に出ていた。

医者の仕事は人から尊敬されるし、何よりも自分が人に必要とされる。彼は自分の子ども時代のトラウマから自分の依存症は始まったと振り返っている。

彼が生まれたのは1944年でハンガリーのユダヤ人家庭に生まれたガボール・マテの家ではお父さんは強制労働に駆り出され、お母さんはいつも不安を抱えていた。お母さんがガポールが泣き止まないのでお医者さんに診てもらうと「ユダヤ人の家庭の赤ちゃんは今みんなこうなんです。」と言われたという。

赤ちゃんたちはヒトラーのことやユダヤ人の虐殺のことを知っていたわけではない。お母さんの不安な気持ちを察して泣いていたのだ。

ティク・ナット・ハン師は「親が子どもに贈れる最大のプレゼントは親が幸せでそこにいてくれること」と言っていたけれど、子どもは親の状態を敏感に感じ取る。親が幸せであれば子どもはそれだけで幸せだし、親が不安と怖れを抱えていたら子どもも怖れと不安を抱く。

ガポール・マテは赤ちゃんはナルシストで自分が世界の中心にいると思っているので、お母さんが不機嫌なのは自分のせいだと感じて「自分は世界に必要とされていない」ということを思ってしまう、と言っていた。そうすると、その満たされない心を満たすために(あるいは痛みを抑えるための痛み止めとして)何かに依存してしまう。それが依存症だという話をしていた。

「自分は愛されていない」「自分は世界に必要とされていない」ということを感じた時に、その痛みに向き合うことは辛すぎるので、何かで誤魔化そうとする。それがお酒やアルコールやドラッグのこともあれば、ゲームや買い物や仕事のこともある。一時的に痛みを和らげるための自分なりの処方箋だけれども、長期的には自分の心を身体を傷つけてしまう。

ドラッグなどの違法な薬物を使用している人は逮捕されて刑務所に入れられる。社会的に罰せられて「反省」をさせられる。それでも再び薬物をしようしているのが見つかると「信頼したのに裏切られた気持ちだ」と非難されさらに罰せられる。

その前提になっているのは「選択肢がある」という考え方だ。ドラッグを使うか使わないか選ぶことができて、使わないこともできるのに使っているということに対して罰せられる。でも、彼らは本当に「選んでいる」のだろうか?

ドラッグを使うというのは痛み止めだ。幸せな気持ちになり、力を得た感じになり、愛を得たような感じがする。誰もが望むそれらを、ドラッグなしには経験できないから、そのままの人生が辛すぎるから痛みを和らげるために使わざるを得ない状況なのだ。

ドラッグ以外に依存できるものがある人はドラッグをわざわざ使わない。他に依存できるものがなくて、それがないと辛すぎる痛みがそこにあるからドラッグに逃げてしまう。親から暴力を受けてきたり、ネグレクトされていたり、愛を感じられずに育ってきた人も多い。

その人たちに必要なのは「反省」ではない。罰せられることでもない。彼らに必要なのはサポートなのだ。厳罰化することや取り締まりを強化することは薬物の使用を減らさない。それはより多くの不安と怖れを作り出すだけなのだ。

依存症そのものを「何とかする」ことよりも、依存症の元になっている痛みを見つめた方が良い、と博士は言っていた。自分の苦しみを生み出している信念は何なのか。その信念を見つめ直して見れば、自分が思っていたことが実は本当ではなかったことが分かるかもしれない。(お母さんが自分を愛していなかった訳ではなく、母親自身が苦しみを抱えていたと分かるかもしれない。)

そしてその苦しみは個人的なものであるというよりも、社会的なものであることも多い。個人が無ければ社会はないし、社会がなければ個人はない。依存症もそうだし、癌や免疫の病気なども社会的な影響を受けて「本当の自分」を抑圧していることから起こることがよくある、という話をしていた。

私はそれを聞いて改めて痛みと向き合っていくことが大事だな、と思ったし、ドラッグやアルコールの依存症の人に対して自己責任論で罰するというアプローチからもっと社会的にサポートされるようになったら良いのに、と思った。依存症の専門家の松本先生も「『ダメ絶対』はダメ」と言ってますけどね。

どうやったらもっと優しい社会になるんでしょうね?インタービーイングをして人を見るというのは一つの道かもしれませんね。インタービーイングとは、それぞれが独立して他と切り離された存在として見るのではなく、関わり合いのある存在としてみるということ。物事がこうであるのは、他のものがああであるから。あの人ががああいう人間なのは家庭や周りの人や社会がこうであるから。関わり合いの中で見ること、そして相手を自分とつながっている存在としてみることが助けになってくれるのではないでしょうか。

あと、依存症についてドラッグやアルコールだけではなく「自分の無価値感から目を逸らすための逃避」として考えると、医者という職業もそうだけれど、教員という職業も依存症的になりやすい職業なのかな、と思いました。

「自分は人に必要とされている」って思いやすいし、先生の方が成績をつけるから権力を持っていて生徒は不満があっても簡単には口にしないから自分の言うことを聞いてくれるように思う。自分の時間や家庭の時間を削って「児童・生徒のために」って言えば周りの人は美しいものとして受け止めてくれる。「生徒思いで一生懸命な先生」と思ってもらえる。頑張って時間とエネルギーをかければ生徒の成長を見れることも多いし、何より生徒に「ありがとう」って言ってもらえる。どんどん自分を見ないで自分を置き去りにして「生徒のために」ってなりやすい構造があるんじゃないかな。

それは本人が自分自身の苦しみを見ないようにして苦しみから逃れるためってこともあるし、社会が「自分を犠牲にしても生徒のために尽くす先生こそが美しい」という価値観を持っているということもあるように思う。

でも、それって危ないことでもある。本人が自分を置き去りにして病気になることもある。心の病気や身体の病気になってしまう先生も少なからずいる。家庭が崩壊していることもある。自分の子どものためには全然時間を使っていなくて、親に反発を抱えている子もいる。外では「立派な先生」でも、家では家族を大事にできていない人もいる。

そして、子どもに自分の価値観を押し付けて「先生の言うことを聞くのが良い子だ」というのを教えようとする。コントロールしたいから。自分が力があると感じたいから。それにハマらない子は「悪い子」になってしまう。その子がその子であることを受け入れてもらえなくなる。

自分の価値を高めるために生徒に結果を出させようとして、結果が出ないと生徒を責める。(意識的/無意識的に自分も責める)周りから「認められる」ようなことを生徒にさせようとする。

生徒って先生が授業中に何を言っているかよりも、どんな言葉で生徒に対してどんな対応をしていて、その人がどんな風に生きているのかということから一番学んでいると私は思っていますが、自分を犠牲にして「生徒のために」ってやることは、生徒に「自分よりも人を大事にするべき」っていうメッセージを伝えてしまうと思うし、生徒は先生の期待に応えようと無理をする(そして自分をジャッジする)んじゃないかなぁと思います。

だから、「自分のことを大切にする」ってメッセージを生きかたで伝えることと、先生がハッピーでいることはすごい大事だと思うんですよね。先生が疲れていて、イライラしていたら、子どもはびくびくして自由にいられないし、不安やストレスを感じてしまう。

やっぱり改めて教育者のためのマインドフルネスが大事だなと思いました。生徒を自分の痛みから目を逸らすために利用するんじゃなくて、自分で自分の痛みに向き合うこと。自分が怒りや苛立ちなどを感じたら子どもを責める代わりに自分に目を向けることができること。リラックスして自分自身のケアをすること。自分の中の幸せの種に水やりをしてハッピーな状態で生徒の前に立つこと。

自分の痛みを相手に投影すると、相手はさらに別の人に痛みを投影していきますからね。まずは自分自身に気がついてケアすることと、先生たちと一緒にマインドフルな時間を持つことをやっていきたいと改め思いました。そして自分自身が「人のために」って自分を置き去りにしていないかにもよく気をつけたいな、と思いました。私自身が人に「NO」と言えない時、身体が病気という形で「NO」を教えてくれるって話を別のガボール・マテ博士が言ってましたが、気をつけないと自分をないがしろにしてしまうかもしれませんからね。

外に何かを求めるよりも、自分の内側に安らぎを見つけていくことが、世界の苦しみを和らげていく道かな、と。世界平和に貢献しているつもりで呼吸をしたいと思います。



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